3

 すっかり動転している母親から意味のある情報を得ることは難しかった。というより、両親もまだ、陸がマンションを引き払っていなくなってしまったことと、突然届いた手紙の内容以外には、なにひとつ確かなことは把握していないようだ。

 律自身についてはまだ冷静な気持ちでいたのだが――それはつまり、まだ陸の失踪に現実感を持っていないこととイコールでもある。

「警察には届けた?」

「いいえ、まだ。だって部屋の解約も陸がやったことだし、本人が自分の意思だって手紙を書いてきたわけだし……」

 確かに成人男子が自らの意思で大学を辞め出奔したとなれば、警察に相談したとしてけんもほろろに扱われるだけだろう。警察サツ回りの経験から律もそう思う。

「わかったよ。とりあえず俺の方でも状況を整理したいから、まずは陸から届いたっていう手紙と……退学届も写真にとって、送って。あと、陸がはまってるっていうそのカルト? 団体の名前は?」

 いくら考えたところで、自分よりよっぽど思慮深い陸が親や周囲に迷惑をかけるようなことをするとは信じられない。まずは情報収集、そして整理と分析。記者の基本にのっとって現在わかっている情報を精査することが必要だ。

「ちょっと待って」という言葉に続き、しばらく電話越しにごそごそと何かを探すような音が聞こえる。きっと大学の先生とやらに話をきいたときのメモを探っているのだろう。

 それから母は言った。

「えっとね、DNGっていう団体らしいの」

 

 ひとまず電話を切って、律はベッドの上で放心する。久しぶりにのんびりとしたオフを過ごす予定だったが、どうやらそうもいかないらしい。

「くそ、覚えておけよ」

 もしこれが悪い冗談やからかいだったなら、双子の兄には後できっちり代償を支払わせてやる。そんなことを考えながらベッドサイドに置いてあるラップトップのパソコンを引き寄せて――いや、仕事に取りかかる前にまずは頭をすっきりさせたい。

 立ち上がるとキッチンに向かい、豆をはかってコーヒーメーカーのスイッチを入れる。それからコーヒーが抽出されるまでの時間に、洗面台で顔を洗ってひげを剃った。

 できあがったコーヒーを、マグカップになみなみ注いでベッドに持っていく。

 マグカップは大学生卒業前に、付き合っていた近藤紗和と行ったディスニーランドで買ったものだ。ダッフィーというくまのキャラクターが紗和のお気に入りだった。彼女は律のためにダッフィーのマグ、自分用には――名前は忘れてしまったが、大きなリボンのついたピンク色のクマのマグカップを選んだ。

 地方でひとりぐらしをすることが決まっていた律の部屋に置く予定で買ったペアのマグカップ。紗和がこの部屋を訪れなくなって間もなくダッフィーのカップを割ってしまい、それ以来、律は不似合いなピンクの熊のカップを使い続けている。

 濃いめに淹れたコーヒーを口に含むと、ようやく目が覚めてきた気がする。ちょうどスマホには、陸の手紙の画像ファイルが届いていた。二本指で画像を拡大し、文面を確かめる。

 

 ――お父さん、お母さんへ

 突然の話で驚かせてしまうかもしれませんが、僕はこのたび大学を辞め、此の社会を離れる決意を固めました。長い間、僕の夢を応援し、学費等様々な面で支援してもらったのに、このようなことになってしまい、がっかりさせてしまうかもしれません。本当に申し訳ありません。

 かつての僕は、大学での学びや研究を通じて世の中に貢献し、此の世界を少しでも良い方向に進めることこそが、自分の夢であると考えていました。ですが、ある出会いをきっかけに、大学以外の場所で、より実践的な方法で世界に貢献する方法があることを知ったのです。

 それから数年間、学問や研究、家族や友人といった此岸での人間・社会的なつながりと新たに出会った使命との間で、どちらを優先すべきか悩み続けていました。

 けれど、僕たちに残された時間はあまりに短く、悩んでいる時間はありません。大学組織という小さな世界の中でできることは少なく、此の世界をより正しく良きものとして次の世代に引き継いでいくためには、現世において僕はすべての時間と労力を新たな使命に傾けるしかないのです。

 この件については何度か大学の先生や友人と話をしましたが、物質主義社会にとらわれた彼らに理解してもらうことは困難でした。おそらく、お父さんやお母さん、そして律も同じでしょう。

 僕のことは心配しないでください。心底自らの意思で、望んで使命に身を捧げるのです。どうか僕を追いかけたり、探したりしないでください。

20XX年X月X日 松江陸

 

 文面はほぼ、母親から聞いたとおり。そして律のかすかな期待を裏切り、几帳面に自筆された手紙も退学届も、間違いなく陸の筆跡だった。「此の世界」とか「現世」とか「使命」とか、引っかかるワードはいくつもあるものの全体的な言葉遣いも陸らしいものだ。

 誰かの強制、趣味の悪い悪戯、そういった線は消えていないにせよ、少なくともこれらはすべて行ったこと。いや……最近の陸について一番よく知っているはずの大学の人々が「陸はカルトにはまっていた」というからには、本人が望んで団体に身を投じたことにも疑う余地はないのだろうか。

 陸の手紙には、彼が自ら大学を辞め今まで身を置いてきた社会から離れる決意について記されているものの、肝心の行き先については書かれていない。「追いかけたり、探したりしないでください」という記載からして、居場所を書けば追及されると思ったのだろう。

 馬鹿な奴だ。いくら追うなと言ったところで、家族が怪文書を残して姿を消せば、誰だって行き先を探すに決まっている。しかも大学の人々には陸が心酔しているという団体の名称を明かしているのだから、探索は難しくない。

 律はパソコンのブラウザを開いて「DNG」という文字列を検索ウィンドウに入力する。平凡なアルファベットの羅列であるせいか、検索結果は膨大で――上位にあるものからカルトの空気は感じられない。そこで「DNG カルト」「DNG 宗教」などワードを変えて検索すると、一気に内容が絞り込まれた。むしろ絞り込まれすぎて、情報量の少なさにがっかりするくらいだ。

 団体そのもののホームページでもあれば、一番手っ取り早いと思ったのだが、そういったものは見当たらない。最近は政治団体も宗教団体も、自らの思想を広め賛同者を増やすためにインターネットを活用している。いまどきウェブ上で情報発信しない団体というのも奇妙に思えた。

 仕方ないので律は上から順番に総当たりで検索結果のページにアクセスしてみることにした。