「ただいま。あれ、君また来ていたのか」
帰宅したニコは、ラインハルトの姿を認めると呆れたように言った。しかし少年も負けてはいない。
「もう帰るところだよ。ニコはやきもち焼きだからね」
「また、訳のわからないことを言って」
ニコがまともに取り合わずにいると、ラインハルトは床から拾い上げた十字架を大切そうにポケットにしまい、カバンを肩にかけた。すれ違いざまには悔し紛れのだめ押しも忘れない。
「だって、最初は優しかったのに。ニコはレオに近づく人には怖くなっちゃうんだ。嘘じゃないだろ」
バタバタと階段を登り去っていく少年の後ろ姿を見送ってから、ニコはひとつため息をついた。
「ついていけないな。子どもって変なことばかり言い出すんだから」
「本当、参るな」
レオも同意する。あけすけで浅はかで思い込みが激しくて、しかも根拠のない自信だけはある。一見大人びて見えるラインハルトすら一皮剥けばああなのだから、世の十四歳とは皆ああいった感じなのだろうか。話をすると疲れるし、時々うんざりもする。しかし無尽蔵に前向きなエネルギーがうらやましくないといえば嘘になる。
「すっかり居着かれちゃったじゃないか。だから、あんまり甘やかすなって言ったのに」
ニコの攻撃の矛先は今度はレオに向かった。とはいえ本当に怒っているわけではなさそうだ。ハンスに対する敵意とは違い、ニコは根本的に子ども好きでラインハルトのことを心底嫌っているわけではない。
レオはニコの苦言を受け入れ、肩をすくめてみせた。
「気をつけるよ」
「あと、彼を招き入れるのも僕がいるときだけにしたほうがいい」
畳みかけられた言葉にぎくっとする。まさか本当にニコは、レオがラインハルトと二人きりになることに不審感を持っているのだろうか。だがその仮定について深く考えを巡らせる間もなく、ニコは軽い力でレオの胸のあたりを小突いた。
「あいつの父親に妙な誤解をされたら今度こそ本当に殺されるよ、兄さん」
その指摘はごもっともだ。ヘンス氏の太い腕を思い浮かべてレオはため息をついた。
夕食の準備をしているときにニコが何かを探していることに気づいた。真剣な顔で毛布や枕をめくり、たんす代わりにしているトランクの中までもひっくり返している。
「ニコ、探しものか?」
「ううん。なんでもないよ」
――嘘だ。
レオは、ニコが探しているのがあの革袋だということをほとんど確信した。そして、ニコに質問をはぐらかされたことにぼんやりとした不安を抱きながら一体何をそんなに不安なのかと自問自答する。
そもそも、気づかないふりをする必要すらなかったのではないか。あの革袋を拾って、後で「おまえのベッドの下に落ちていた」と手渡せばいいだけのことではなかったか。しかし、それができなかったことであの革袋はレオの中で奇妙な重さを持つ。そして、ニコが話をはぐらかしたことでさらに重さは増した。
中に入っていたのが薄汚れたメモ一枚だったこと。一切価値のなさそうなものをニコがわざわざ大切に持っているという事実。それはおそらく、あのメモがニコにとって大きな意味を持っていることを意味する。
ニコはしばらく探し回っていたが、最終的にベッドの下をのぞき込み、例の革袋を手にするとほっとした様子で握りしめた。一連の様子をレオは、気にしていないふりをしながらずっと横目で見ていた。
妙に心に引っかかる文面は、一度見たら記憶してしまえる程度のものだ。
迎えにいく。
でも、誰が誰を?
あの紙切れを持っているのがニコであるのだから、普通に考えればメモにある「J」というイニシアルの持ち主がニコを迎えにいくという意味だ。でもそんな人間は知らない。「J」というイニシャルの持ち主は家族にはいない。友人――にしてはあまりに意味深すぎる。
誰かがニコを迎えにいくと約束し、ニコはその紙切れを後生大事にしている。レオの心はひどくかき乱された。
*
悪いことは重なるもので、スープとジャガイモの夕食をとる間に、ニコが「仕事が決まった」と言い出した。
ウィーン到着当初に当てにしていた仕事がだめになって以来、ニコは半年もの間ずっと日雇い仕事を渡り歩いていた。仕事の内容も時間も不安定で、ときには瓦礫撤去の手伝いなど体格に劣るニコには危険な仕事もある。ハンスの紹介で自分だけ病院の仕事を得てしまった手前意見しづらいが、レオはニコにもう少し安全で安定した仕事についてほしいと内心で思っていた。
そういうわけでニコの報告にレオは喜んだのだが、続いてそれが夜勤の仕事だと聞かされると一気に気持ちが沈んだ。
「大丈夫だよ、時間が夜っていうだけで危ないことはないから」
それは部品工場の夜警のような仕事なのだという。一度電源を落としてしまうと復旧に時間がかかる機械について、停電が起こらないよう監視をする。それと同時に不審者や泥棒が入らないよう定期的に工場の中を巡回する。仕事は毎晩十時から朝の六時までで日曜は休み。給与相場を含め話を聞く限りはそう悪い話ではない。しかしレオは諸手を挙げて賛成する気にはなれなかった。
「このご時世、工場なんていつどうなるかわからないじゃないか」
「日雇い仕事を転々とするよりはましだろう」
「夜の仕事なんて、体にいいはずがない」
「時間帯がずれるだけで、ちゃんと昼間に睡眠時間は取れるよ。慣れれば平気だ」
きりのない問答を終わらせたのは、ニコだった。
「兄さん、僕の体のことは、僕が一番わかってるから」
それは、仕事を始めようとしたレオにニコが激しく反対した際に、レオが口にした反論そのままだった。
結局のところレオはまたニコに言い負かされた。生活時間がバラバラになってしまうことでニコと過ごせる時間が減ってしまうことも大いに不満だが、もちろんそんなこと言えるはずがない。
その晩、レオは新しい悪夢を見た。
部屋にニコと二人でいると「J」がやってくる。男か女か、大人か子どもかもわからない影のような姿をした「J」は、まず遅くなったことを詫びてから、ようやく約束どおりニコを迎えにきたのだと言う。するとニコはこれまでレオが見たことない満面の笑みを浮かべ、さっさとトランクに荷物をまとめてしまう。
――さよなら兄さん。やっと迎えが来たんだ。
嬉しそうにニコが言う。
――これまでありがとう。元気でね。兄さんは体もすっかり治ったし、仕事もあるし、友達だってできたからひとりでも大丈夫だね。
待ってくれ、俺を置いていかないでくれ、そう言いたいのに喉がからからでうまく声が出てこないし、治ったはずの脚が急に痛み出して後を追うこともできない。
――待てよ、ニコ。俺はおまえがいないと……。
言葉は届かないまま目の前でバタンと無情に扉が閉じる。冷たい部屋の中ひとりきりになったレオは床に座り込んで悔しさと寂しさに涙を流すが、ニコが戻ってくることは決してない。
ハッと目を開けると、目の端を冷たいものが伝った。
まさか夢を見て泣くなんて。しかし心臓は早鐘のように打ち、今の今まで見ていた夢の中身を思い出すだけで背筋が震えた。あわてて部屋の反対側にあるベッドに目をやると、ニコはすうすうと寝息を立てて気持ち良さそうに眠っている。その姿を見て心底安堵した。
嫌だ、嫌だ。レオは心の中で何度も繰り返す。
ニコは俺の弟で、ずっと俺を守ると言ってくれた。病院で目を覚ましたあのときにそう約束してくれたのだ。今の俺にはニコしかいないのに、頼むからそのニコを奪わないでくれ。
男か女か、若いのか年寄りなのか、生きているのか死んでいるのかもわからない「J」にレオは激しい敵愾心を燃やした。
「迎えにいく J」それはまるで呪いの言葉のようにレオの心に絡みつく。不安を打ち消そうと、レオは何度も心の中でつぶやいた。
――俺はニコをどこへもやらない。どこの誰だか知らないが、絶対に連れて行かせたりしない。