46. 第3章|1940年・ベルリン

 ユリウスはカスパーを殴ったが、カスパーもユリウスを殴り返した。理由が理由なだけにどうしたらいいのかわからずラルフがおろおろしているところに、戻ってきたマテーウスが驚いて悲鳴をあげる。

 騒ぎは誰もが知るところとなり、ユリウスは編入三日目にして懲罰室行きとなったが、殴り返したことでカスパーも同罪と見なされた。

「まったく子どもじゃあるまいし。戦場では仲間割れしている余裕はないんだ。そこで一晩頭を冷やせ」

 指導教官は二人にそう言い残して外側から部屋のドアを閉めた。懲罰室は地下にある、小さなランプひとつしかない狭い部屋だ。ベッドもなく、与えられた粗末な毛布一枚をかぶって寝るしかなかった。

「くそ、なんで俺まで。あのチビもでかい声あげやがって」

 カスパーはハンカチで鼻を拭う。いったん止まった鼻血がまた出てきたらしい。あのチビとはおそらくマテーウスのことだろう。

 馬乗りになって思い切り殴ってやったから、きっと明日の朝はジャガイモみたいな顔になっている。ユリウスはまだじんわりと痛む右拳を見つめながら心の中で「ざまあみろ」と思った。そういえば、けんかするのは何年振りだろう。小学生の頃はニコをいじめる悪童たちが許せなくてしょっちゅう殴ったり殴られていたりしたものだが。

 数発は殴り返されたのでユリウスも無傷とはいえず、口の中には血の鉄くさい味がまだ残っている。それに何よりあの不愉快な「洗礼」。タオルで拭きはしたものの、シャワーを浴びていないのでまだ尻にあの上級生たちの汚い精液がこびりついているようで気持ちが悪い。ユリウスはカスパーの顔を見るのも嫌で、毛布を頭までかぶるとルームメイトに背を向けた。

「おい、謝れよ」

 背後からカスパーが声をかけてきたが、無視をする。

「おい、聞いてんのか?」

 肩をつかまれ、乱暴に振り払う。怒って殴りかかってくるかと反撃のためみがまえたが、今度はカスパーは、大きくため息を吐いただけだった。

「おまえ、やべえ奴だな。どっか一本切れてんじゃねえの?」

「それはこっちの台詞だ。あんな悪趣味な真似、正気じゃ考えつかないだろ」

 ユリウスが吐き捨てると、壁越しにごつんと衝撃が伝わってきた。振り向くと、同じように毛布を被ったカスパーが壁に頭をつけて目を閉じている。

「なんだよ女みたいなこと言いやがって。それともハンブルクの奴らはそんなにお上品なのか? あれくらい、ここじゃ一年生は当たり前に通るいたずらだよ」

 それが本当なのか、それともユリウスの怒りを回避するための出まかせなのか、即座には判断できない。

「おまえもやられたのか?」

「ああ、そりゃな」

 訊ねると、カスパーは思い出したように舌を出して吐きそうな顔をして見せた。そして続ける。

「一回からかわれたくらいで済んだんだから感謝して欲しいくらいだよ。こっちは最初の一年間は上級生と同室で、何かとこき使われるし、毎晩のようにマスターベーションの手伝いまでさせられるし、最悪だったんだ」

 さすがに嘘をついているとは思えない。品行方正、厳格なルールの中で生活しているとばかり思っていたナポラの生徒たちの意外な姿にユリウスが目を白黒させていると、カスパーは初めて笑顔を見せた。

「まあ、そう驚くな。男ばかり集まってるから手荒い冗談はあるが、悪いところじゃない。特におまえみたいな腕っ節と鼻っ柱の強そうな奴にとっては」

 そして右手を差し出してくる。ユリウスは少し迷って、自分も右手を出した。とりあえず、これで手打ちということになる。

「……にしても本気で殴ってくるとはな。おかげでまさかの懲罰室だ」

「自業自得だろ」

「あーあ、俺としたことが、余計な邪魔しそうだと思ってあのチビに何も言わずにいたのがまずかったな」

 夜は長いし、ベッドもなしではそうそう眠れもしない。毛布に包まって冷たい床に横たわり二人はぽつぽつと話を続けた。

「あのチビって、マテーウスのことか?」

「そうだよ。あいつ、背も伸びないし髪の色もあんなだし、気が小さくて軍事練習の成績も散々なんだ。自分じゃナポラを出たら大学に行って学者になりたいなんて言ってるけど、きっと強がりだ。どうせ奴じゃ親衛隊の入隊基準を満たさないからな」

 ユリウスは小柄でおどおどしたマテーウスの顔を思い出す。確かにとてもではないが軍人向きではないように思える。

 同じく党が設置したギムナジウムであるアドルフ・ヒトラー・シューレが明確に将来の親衛隊員の育成を謳っているのと異なり、ナポラの場合は卒業後の進路は原則本人に委ねられている。普通のギムナジウム同様に大学入学資格であるアビトゥーアの試験を受けるから、合格さえすればマテーウスの言うように大学を目指すことは可能だ。

 渋りながらもユリウスの父が最終的にナポラへの編入に同意したのも、息子を大学に行かせたいという希望を阻む学校ではないというのが大きな理由だったろう。きっと父はユリウスの本当の目的には気づいていない。

「おまえは、将来どうしたくてここに来たんだ?」

 ふと思い立ってユリウスはカスパーに質問してみた。カスパーは意気揚々と答える。

「俺はSS士官学校に行って戦場で活躍するんだ。勲章をたくさんもらってな」

「戦場に行きたいなら親衛隊よりも国防軍の方が手っ取り早いんじゃないのか?」

 ユリウスの素朴な疑問にカスパーは大げさに呆れて見せた。

「ユリウス、おまえ本当にナポラの生徒か? 何も知らないんだなあ」

 カスパーは、結局は国の中枢は親衛隊が握っているのだから、軍事についてもこれからは国防軍ではなく親衛隊の時代なのだと言った。

 確かに親衛隊も「特務部隊」と呼ばれる軍事組織を持っているが、これが今後規模を大きくし、現場においても正規軍である国防軍を下に置くことになるのだと。ユリウスにはよくわからない話だが、カスパーが戦争で功績を立てたがっていることだけは伝わってきた。

「そういうおまえはどうなんだよ」

「俺は……総督府に行きたい」

 正直に答えると、カスパーは「は? 総督府?」と驚いたような声をあげる。

「何やりたいとかどうなりたいとかじゃなくて、総督府に行ければいいのかよ。変な奴だな」

 ユリウスはうなずく。そうだ、総督府に行ければいい。そしてニコを見つけることができればそれだけでいい。できるだけ早く。

 話してみれば、多少上から見下すような物言いが鼻につくもののカスパーは思ったより良さそうな人間だった。もしかしたら力で劣るマテーウスのようなタイプには厳しいのかもしれないが、少なくとも腕力でなめられなかったユリウスにとっては危険なタイプとは思えない。

「まあいいや、今日のことは水に流してルームメイト同士仲良くやろうぜ。困ったことやわかんないことがあれば俺に聞けよ。あのデブも人の顔色ばかり見てるが悪い奴じゃない」

「ああ……」

 そこでユリウスは、さっきから心に引っかかっていたことを訊いてみる。

「そういえば、さっきあの上級生が言ってた『ピンク』ってなんだ?」

「ああ、同性愛者だよ。見たことないか? 道路工事なんかで労働奉仕させられてる収容所の奴らが、服にワッペンつけてるの。いろんな色があって、それぞれ意味が違うんだ。アル中とか、累犯者とか。で、ピンクが同性愛者」

「へえ」

「ここでも、多少のえぐいいたずらはあっても同性愛はご法度だ。男ばかりの学校だから、たまに怪しい奴がいるんだよ」

 ――同性愛はご法度。その言葉にユリウスの鼓動は少し早くなった。しかし大丈夫だ。ここでは間違いは起こらない。ユリウスが好きなのはニコなのだから、他の男に触れたいとも触れられたいとも思わない。実際さっきも、上級生たちのペニスや精液は吐き気を催すほど気持ちの悪いものだった。

「ここにもし、そういう奴が混ざっているとして、退学で済めばましな方で、下手すれば収容所であいつらと同じピンクのワッペンつける羽目になるからな」

「親衛隊を目指すような中に、そんな奴がいるのか?」

 それは半分興味本位だった。ユリウス自身、相手がニコ限定ではあるものの同性に愛情や欲望を感じている。だが自分自身はある意味不純な動機でナポラにやってきたわけで、普通の人間は自らを社会から排除しようとしている組織にあえて入り込むようなことはしないように思える。

 しかし、薄暗い部屋でカスパーは首を左右に振って内緒話のように声を潜めた。

「親衛隊がどうかは知らないけどさ、前に突撃隊のレーム大尉たちが一斉に粛清されたこと、あっただろ、あれも、そもそもはレームが同性愛者だったことが理由らしいぜ」

 ナチスの軍事組織のひとつである突撃隊の幹部が突如粛清された事件のことは、ぼんやり記憶に残っている。

「でも、あれは確かレーム大尉たちが反乱を企てたとかで……」

「だから、それが実は表向きの理由で、実は突撃隊の内部が同性愛者の巣窟みたいになってたから、その浄化のために粛清が行われたって噂があるんだよ」

 それはあまりに荒唐無稽な話で、ただのよくあるゴシップの類なのかもしれない。ただ、ここで同性愛がどのように見られ、どれほど危険なものなのかはユリウスにも理解することができた。