75. 第4章|1945年・アウシュヴィッツ

 一九四五年一月、アウシュヴィッツの閉鎖が決定された。接近するソ連軍に発見されるのも時間の問題なので、今のうちに施設を破壊して撤退すべきという上層部の判断によるものだった。

 東からの移送者が増え、管理も行き届かなくなったアウシュヴィッツの状況はすでに半年ほど前からコントロールできない状況になっていた。前年の秋にはガス室の運営を担当させられていたゾンダーコマンドの一部が反乱を起こし数名の職員が殺害された。もちろん反乱の首謀者たち全員が鎮圧後すぐさま処刑されたが、ユリウスの目にこの事件はアウシュヴィッツ崩壊の合図であるように映った。

 秋以降は収容所総監府の指示で、少しずつアウシュヴィッツから他の収容所へ抑留者の移送も開始された。物資が慢性的に不足するようになり職員の待遇すら悪化する中で、移送の話を聞く度にユリウスは、そこにニコを紛れ込ませるべきか迷った。このままアウシュヴィッツに残って厳しい冬を越せる気はしない。しかし囚人の身分のまま目の届かない場所へニコを送り出す決断をすることもまた、難しかった。

 撤退が決定されると、収容所は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。

「動ける奴らは西へ送る。動けない奴らは放っておけ、どうせ連れて行ったところですぐにのたれ死ぬんだ。置いていったところで同じだ」

「西ってどこですか。いまさらこれだけの人間を受け入れ可能な収容所があるんですか?」

 早口で命令を出すベルマンに、ユリウスは食ってかかった。動ける者だけといっても、最大で十五万人近くを収容した巨大施設であるアウシュヴィッツの職員、被収容者は今でも膨大な人数に上る。今のドイツにこれだけの人間を輸送する能力が残っているとはとても思えなかった。東からはソ連赤軍が迫り外は零下二十度を下回る。まさか歩いて逃げろとでも言うのだろうか。

「ヴォジスワフに行けという指示が出ている。そこから列車に乗れと」

「これだけの人数を載せることができる車両が確保されているんですか? それに、ヴォジスワフまでは六十キロ以上もあります。この雪の中歩くのは、我々はともかく……」

「そんなこと、俺が知るか!」

 しつこく言い募るユリウスに苛立ったかのようにベルマンは机を叩いた。と同時にチャリンと音がしてポケットからジープの鍵が飛び出る。ベルマンはあわててそれを拾い上げると大切そうに制服のポケットにしまった。

 ユリウスはベルマンがひどく怯えているのだと思った。置き去りにされソ連軍に捕まる。それが恐ろしくて一刻も早くここから逃げることしか考えていないのだ。例え人を押しのけてでも自分の乗る車両だけは確保して。

「おい貴様、俺の上官だろう。もう少し落ち着いて振る舞えないのか」

「おまえなどにかまっていられるか、非常事態だ!」

 とうとう上官に対する最低の敬意すら失ったユリウスの頬に、ベルマンはつばを吐きかけて小走りで部屋を出て行った。

 こんな奴、頼っていられない。ユリウスはベルマンは無視をすることにしてとりあえず外の状況を確かめた。あちこちで煙があがっているのはソ連軍に見つかっては行けないもの――ガス室を含む虐殺のための施設や機密書類を壊したり焼いたりしているのだ。

 やがてジープの音が聞こえ、ベルマンを含め一部の将校が先頭を切って撤退をはじめた。それだけではない、正門の外から道路に向かって大量の人々がぞろぞろと歩き出していた。とても寒中の行進に耐えることができない薄着の者がほとんどだが、ところどころにいる親衛隊員が羊飼いのように被収容者たちを追い立てる。足手まといになる者を撃っているのか、ときおり銃声が響いた。

 ひと通り周囲の状況を確認すると、ユリウスはニコの部屋に向かった。ユリウスもベルマンのことをそうひどく言えた立場ではない。ベルマンが彼自身のことしか考えていないのだとすれば、ユリウスは自分とニコのことしか考えていないのだから。

「ニコ……」

 すでにほぼ全員が連れ出されたあとで、部屋にひとり取り残されたニコはぼんやりと窓の外を眺めていた。なぜ他の人々と一緒に逃げなかったのか。なぜまだここにいるのか。だが時間はない。ユリウスは疑問を飲み込んでニコの腕をつかんだ。

「ニコ、何をもたもたしているんだ。撤退命令が出た、俺たちも行くぞ」

「行くって、どこに?」

 それはさっき自分がベルマンに投げかけた質問と同じだったが、いざ訊ねられれば満足な答を持たないユリウスはうろたえた。

「……に、西へ行くんだ。ここは放棄される」

「行かないよ、僕は」

 ニコはユリウスの腕をすり抜けると、ふいと横を向いてしまう。いつだって頑なな沈黙を貫くニコがユリウスの言葉にまともな返事をするのは珍しいことだった。

「どうせ行き先はここと同じような収容所で。そこにもまたやがて連合軍が迫って、また逃げて……繰り返すだけだ。ここにいたって何も変わらないよ」

「ニコ!」

 ニコは冷静だ。ユリウスの方がよっぽど動転していた。

「また脅す気? でももう君には人質も残っていないだろう」

 思わず大声をあげるユリウスに向き直り、ニコはかすかに笑ったようだった。

 これまでユリウスは「ニコが死ねば連帯責任で仲間も死ぬことになる」という卑怯な言葉でニコを思うようにしてきた。しかしこの混乱の中では「連帯責任」となるような他の囚人も残っておらず、そうなればユリウスにはもうニコに取引を持ちかける材料は残っていない。

 言葉できかないならば力しかない。ユリウスは思いきりニコの鳩尾みぞおちを殴りつけ、よろめいて力を失ったところで首根っこを捕まえる。その勢いでニコの頭から帽子が滑り落ちた。統制の行き届かなくなった収容所でニコの頭髪は手入れされることなく伸び、久しぶりに懐かしい柔らかな感触がユリウスの手のひらをくすぐった。

 痛みで力が入らないままのニコを引きずり廊下に出る。そのまま兵舎の自分の部屋まで行きロッカーから一番厚い外套と替えのブーツを取り出した。ニコは冬用の靴を持っていないからこのまま外に出せばまともに進むこともできないうちに凍傷になってしまう。だからといってユリウスのブーツは小柄なニコには大きすぎ、そのままではまともに歩くことはできない。

 ユリウスはニコをベッドに放り投げると細い脚をつかんだ。水分が入らないよう耐油紙でニコの足を何重にもくるみ、その上からゲートルを巻き付け、ブーツを履かせる。凍傷を防ぐ方法はナポラ時代の雪中訓練で学んだものだ。冬用のシャツと外套と、何もかもをニコに着せて、残った中で比較的ましな服を自分でも着込んだ。

 背嚢はいのうに入れる私物は最低限にとどめ、残りのスペースにはできるだけ食糧をつめこんだ。とはいえすでに幕僚部の食料庫すら漁られたあとで、わずかなパンやチーズ、生のじゃがいもしか手には入らなかった。晴天で体調にも問題がなければ、ヴォジスワフまでは歩いて一日もかからない。しかし雪が積もる中をまともな装備もなしに、一体どれだけかかるのだろう。

 そして、ヴォジスワフに行って列車に乗れなかったら? その先のことは考えたくもない。

「嫌だって、行かないって言ってるだろ」

 ニコはそれでも弱々しい力で抵抗を続けた。

「しつこいぞ、黙れ」

「黙らなければ? 殴る? それとも撃つ?」

 きつい言葉で挑発されて、しかしユリウスにはそのどちらもできない。

 こうまでしてニコを救おうとして、しかし当のニコには拒まれる。だんだんやるせない、怒りとも悲しみともつかない感情が腹の奥からわきあがってきた。癇癪を起こした幼い日のように、コントロールがきかない苛立ちに、ユリウスは頭を抱えた。

 権力の中に入り込めばニコを救えるのだと思っていた。しかし自分はこんなにも無力だ。どうすれば良かったのだろう。こんなにも苦しみを長引かせるよりは最初からニコをガス室に送ればよかったのか。あの悲惨な野外作業現場から救い出すことをせず労働と栄養失調で弱るがままにさせるべきだったか。それとも請われるままに撃ち殺すべきだったか。

 腰に手をやると、ピストルの固い感触がある。

 ここでニコを撃ち、自分も死ぬのだとすれば? 銃弾は十分な数入っている。

 少しだけ迷った。しかし不意にいつか話をしたときのダミアンの声が頭の中に蘇った。

 ――ユリウス、君は君のニコを最後まで守れ。

 まるで重ねた罪の中でそれだけが希望であるかのようにダミアンはそう言った。ニコを守り通すことがユリウスの罪だけでなく、彼が犯した罪までもほんの少しだけ軽くする特別な使命であるかのように。

 ユリウスは今もダミアンの言い分に同意はできない。これっぽっちのことではとても贖えないほど、この手はあまりに汚れてしまった。でも、あのときユリウスはダミアンの言葉にうなずいた。約束したのだった。

 最後までって、どこまでだ。

 二人して極寒のポーランドで野垂れて死ぬまでか。

 泣きたい。叫びたい。しかし、そんなことをしてもどうにもならない。

 ユリウスは顔をあげニコをすがるような目つきで見つめると、腕を伸ばして痩せた体をかき抱いた。驚いたように動きを止めるニコの耳に唇を寄せて、ささやく。

「ニコ、俺は絶対におまえをここで死なせたりはしない」