80. 第5章|1950年・ミュンヘン

 ユリウスは独房で目を覚ました。

 殺風景な狭い部屋。固いベッド。食事の配膳やたまの面会以外は他人の顔を見ることもない。だが、そんな拘置所での生活にも慣れ、最近ではむしろ心地よさすら感じる。じき裁判が行われ、刑務所に行けば大部屋暮らしになるだろう。ひとりきりの静かな生活も今だけなのだと自覚してからは、なおさらここで過ごす時間は貴重に思えてきた。

 ゆっくりと長い時間をかけて、記憶は今ではほとんど戻った。本当に最後の最後、記憶を失うきっかけになった怪我やその後のことだけはどうしても思い出せないままでいるが、それ以前だけをみたところでユリウスの人生はじゅうぶんすぎるほどの過ちと罪に満ちあふれている。ここに多少の善行や悪行が加わったところで、自分がどうしようもないばかで、人を傷つけてばかりの人生を過ごしてきたことに変わりはない。

 愛のためだなんて、そんな言葉で何もかもが許されるわけではない。レオを死に追いやり、ニコたち家族の運命を変えた。父親の反対を押し切ってハンブルクを離れ、浅はかな万能感に酔いしれて「ニコを救う」などと考えた挙句そのニコをもひどく傷つけた。

 戦後、ニコが何を思って自分に彼の兄の名前を与え、兄弟として共に生活をしようとしたのかはわからない。同情か、復讐か。しかしそれすらもうどうでもいいことだ。いずれにせよユリウスはその最後のチャンスすら無にした。

 ユリウスが兄として振る舞い続けることができていれば、もしかしたら自分とニコはまだ兄弟としてウィーンで一緒に生活できていたのかもしれない。でもそれはありえないことだ。記憶を失おうと、兄弟という枷をつけられようと、ユリウスは結局ニコに惹かれニコを求め、無理やり押さえつけて自分のものにした。結局、自分は永遠に間違い続け、何度やり直したところで再び過ちを繰り返すだけの愚かな人間なのだ。

 廊下に響く足音が近づいてきて、ユリウスの独房の前で止まる。

「おい、面会だ」

 ときおり面会客がやってくる。ほとんどは弁護士の接見だ。弁護してもらう必要性を感じていないユリウスにとって赤の他人に過去をしつこくほじくり出される作業は不愉快以外の何物でもなかった。

「……会いたくないと言ってくれ」

「無駄だよ、何時間でも待つあいつだから」

 それはハンスのことだ。いくら会いたくないと言ってもしつこくミュンヘンにやってきて、ユリウスが面会を受け入れるまでしつこく待ち続ける。嫌がるユリウスに無理やり弁護士をつけたのもハンスだ。ユリウスは渋々立ち上がった。

「ニコに会ったぞ」

 開口一番ハンスはそう言った。ユリウスは思わず大声をあげる。

「おい、約束が違う! ニコには何も知らせるなと言ったはずだ」

 そもそもユリウスはずっと、ニコの居場所を探すことにも反対していた。ニコは記憶を取り戻そうとするユリウスの前から去った。それが全ての答えで、ニコはこれ以上ユリウスの人生と関わることを拒んだのだ。

 ハンスや弁護士はユリウスの罪状のポイントとなるのが戦後の逃亡だと見ている。一緒に行動していたニコの証言次第では減刑が期待できると説得されて、それでもユリウスはニコだけは巻き込むなと言い続けてきた。なのにハンスは勝手にもニコの居場所を探し、会いに行ったというのだ。

「そう怒るな、ちょっと話をしただけだ。それに、おまえが喜ぶか悲しむか知らないが、ニコは断ったよ。おまえにも、おまえの裁判にも関わる気はないと。もう過去は忘れて新しい生活を送りたいんだってさ」

「……そうか」

 その言葉にほっとする。少なくともニコが今は死にたいとは思っていないこと。新しい生活を送るという前向きな気持ちでいてくれること。それはユリウスにとって寂しいが喜ばしいことだ。

 ユリウスの心を読んだかのようにハンスは付け加えた。

「昼間は出版社で仕事をして夜は学校に通っているようだ。狭いアパートだがきれいに暮らしていて、コーヒーを淹れるのが上手かったよ。ウィーンにいた頃よりはずっと顔色も良くて、いくらか肉もついたんじゃないかな。元気そうだった」

 その言葉にユリウスは救われた。

 ニコは今、穏やかに幸せな生活を送っている。彼の人生を取り戻そうとしている。それこそユリウスが何としてでもニコを地獄のような収容所から生きて連れ出そうとした目的だった。

 あの頃、家族を失った絶望ですっかり生きる気力を失っていたニコ。無理やり、ときに脅迫してまでニコを生き延びさせることだけが目的と化す中で、それが本当にニコのために正しいことなのか何度も自問自答した。死なせてやること、殺してやることこそがニコの望みなのだとしたら、自分はただ残酷なことをしているだけなのではないかと。

 だが、今ニコは新しい生活を送っている。過去を忘れて新しい人生を歩もうとしている。

 ――そしてそこに俺はいらない。

 自分は有罪になる。いっそ死刑になればいいが、さすがに判例をみたところ、そこまでの判決が出ることは難しいだろう。だが、十年、二十年。刑期は長ければ長いほどいい。

 外の世界は見たくなかった。自由な世界にいれば、ニコの顔を見たいとかニコに会いたいとか、そんなことをうっかり考えてしまうかもしれない。だったら一生、再会の可能性すら持たず閉ざされた場所にいたい。そして、決して手の届かない場所からそっと、新しい生活を、幸せな生活を送るニコの姿を夢みて生きていたい。それだけが今のユリウスに残された小さな希望だった。

「ユリウス、悪いが証人をつける」

 裁判まであと僅かとなったある日、接見に訪れた弁護士が一方的に宣言した。

「……いらないって言いましたよね」

「俺は弁護士だ。あんまり情けない仕事をすると今後に響く。人並みの体裁くらいは整えさせろ」

 ユリウスはため息をついた。そもそも弁護士などいらないと言ったのにハンスが無理やりつけたのだ。金満の画家はもちろん弁護士代も自分が出すと言い張った上で「気が引けるなら、出所後月賦で払え。肉体労働で返してくれても構わないぞ」と付け加えた。

 ハンスや弁護士の言い分もわからないわけではない。それなりの手続きを踏まなければ見ている人の中には裁判の公正さを疑う者が出てくる。表には出てこないが世の中にはまだナチの思想を信奉し続ける人間がいて、ユリウスにそのつもりがなくとも投げやりな裁判が回り回って彼らに「ナチ裁判は不当」と主張するきっかけを与えることになりかねない。

 不毛な言い合いをしたところできりがない。ユリウスは結局「好きにしてください」と吐き捨て、その証人が誰で何を話すかも聞かないままに接見室を後にした。

 そして、裁判がはじまった。

 検察はユリウスの罪状について淡々と述べた。ナチのエリート養成機関であるナポラに途中入学するほど熱心な愛国少年だったこと。卒業を待たずに親衛隊に入隊し、その後はアウシュヴィッツで移送者の選別や管理業務に従事して間接的にホロコーストに関与したこと。戦後、ユダヤ人の身分を騙る悪質な方法で数年にわたって逃亡していたこと。

 検察の主張はほとんどユリウスの自供によるものだ。アウシュヴィッツの元職員は訴追を恐れてその多くが過去を隠し密かに生活しているから彼らから証言が取れるはずはない。そしてユリウスは直接被収容者を管理する立場になかったので、解放された元被収容者からの証言も少ない。検察側も客観的な証拠集めはほとんどできていないのだ。

 だが、ユリウスはそれでいいと思っていた。例えば自分が熱心な愛国少年だったというような明らかに事実と反した主張もあるが、そのおかげで少しでも刑期が長くなるのであれば敢えて否定する必要はない。ユリウスは検察側の主張を全面的に認めた。

 続いて発言の番がやってくると、ユリウスの弁護士は意気揚々と口を開いた。

「弁護人としては、検察の述べた内容について、一定程度は事実だが、特に戦後、ユリウス・シュナイダーの逃亡について大きな事実誤認があると主張したい」

「何だと、逃亡の事実については本人も認めているんだぞ」

 弁護士は手元にある何枚かの書類を高く掲げ、検察側に示した。それは病院のカルテのように見える。

「被告はダッハウ強制収容所解放時に大怪我を負い、その後長期間にわたって入院している。意識を取り戻してからも頭部負傷の影響から深刻な健忘状態にあった。これは当時の医療関係者の証言からも明らかです」

「わざわざ自らの腕にアウシュヴィッツの管理番号を記して身分を偽るという卑劣な方法だ。いくら怪我をして記憶を失ったからといって悪質性が否定されるわけではない」

 そこで検察側を制するように、弁護士は言った。

「今日は、証人を呼んでいる」

 ユリウスはぎくりとした。もしかして弁護士が言っていた「証人」というのは。もしかして。だが駄目だ、それは駄目だ。

 しかしゆっくりと扉が開き、法廷に入ってきたのは――ニコだった。

 緊張した面持ちで、でもしっかりとした足取りでニコは証人席へ歩いていく。ハンスが言ったとおり、少しふっくらとして健康そうに見える。相変わらずその髪も、瞳も、何もかもが愛おしいニコ……でも、彼はここに来るべきではなかった。

「先生、話が違う! 俺はこんなこと認めていない!」

「おまえは黙ってろ。強要したわけじゃない。彼の方からどうしても法廷で話をしたいと連絡をしてきたんだ」

 食ってかかったところを弁護士に制され、ユリウスはただニコから目をそらすことしかできなかった。

 ニコはユリウスの方をちらりとも見ないまま、淡々と証人の宣誓をした。声は緊張のためか少し震えている。

 そして、証言をはじめる。

「僕は、被告人……ユリウス・シュナイダーの幼馴染みです。故郷のハンブルクで小学校に入る以前から僕が家族とともにドイツから逃げる十四歳の頃までずっと親しくしていました。そして戦時中、アウシュヴィッツ及びダッハウ強制収容所では、親衛隊員と被収容者の関係でもありました」

 だめだニコ、それ以上言うな。ユリウスは叫び出したい気持ちでいっぱいだった。だが、ニコは迷うことなくその先を口にする。

「そして、記憶をなくした彼に偽の名前と身分を与え、彼の同意を得ないまま逃亡させたのは、僕です」

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