82. 第5章|1945年・ミュンヘン近郊

 ニコはただ必死だった。そしてその必死さゆえに人々はあっさりと嘘を信じた。

 瀕死で運ばれた彼の名前はレオポルド・グロスマン。ハンブルク生まれのユダヤ系ドイツ人で二十三歳。戦前にハンブルクでゲシュタポに連行されてから家族と音信不通になっていた兄とニコは、偶然にもダッハウで再会した。しかし、収容所解放時の混乱に巻き込まれたのかニコが見つけたとき兄はひどい怪我をして倒れていた――それが、ニコがなかば出まかせで作ったストーリーだ。

 実のところ、ニコがアウシュヴィッツ以外の収容所の囚人たちには番号が刺青されていないという事実を知ったのは、病院に運び込まれて数日が経ってからのことだった。

 ユリウスの腕に不必要な傷を付けてしまったこと、そしてそのずさんな細工が誰かに見破られてしまうかもしれないことにニコは怯えた。しかし、アウシュヴィッツを解放したのはソ連軍、そしてダッハウを解放したのはアメリカ軍。アメリカ軍の軍医たちがほとんどアウシュヴィッツ解放者の姿を見たことがなかったことがニコに味方した。

 ユリウスはニコと共にミュンヘンへ運ばれて米軍の管理下で治療を受けることになった。ニコ自身も長い収容生活で衰弱はしていたが、診察をした医者は「三年もあんなところで生活していた割には健康だ」と、数ヶ月の療養で完全な健康体に戻ることを保証した。

 だが、自分の体など今はどうだっていい。問題はユリウスだ。ユリウスはニコの前で意識を失って以降、ずっと眠り続けていた。

「兄は回復するでしょうか?」

「結核に感染しているし、何より怪我がひどいね。やけくそになった親衛隊からのリンチにでもあったのか……。まずは意識が戻るかが大きな問題だし意識が戻ったとしても脳に何らかの障害が残る可能性はある。もちろん左脚をはじめ、肉体的な後遺症も」

 病院に入ってから数日間、ようやくユリウスのいる病室に立ち入ることができたニコは言葉を失った。そこにいるのはほとんど全身を真っ白い包帯に包まれた、見るに痛々しい怪我人の姿だった。思わず名前を呼びかけそうになりあわてて口をつぐむ。ここで彼に「ユリウス」と呼びかけることは許されない。

 顔をそっとのぞき込むが、顔面も包帯だらけでわずかに閉じられた右目と口のあたりだけが露出しているだけだ。しかしニコがそれをユリウスであると判別するには十分だ。

 憎もうとした。事実、一時期は心底から憎んだと思う。しかし、ただひたすらにニコを生き延びさせるために危険を冒し、こんなにぼろぼろになった人間を憎み続けることなどできるはずもなかった。

 彼が肺を病んだのはアウシュヴィッツ撤退時にニコをかばいつづけたからだ。彼がこんなにも傷だらけになったのはニコの無事を確かめるためだ。

 ニコはベッドの上に投げ出されたユリウスの手を握った。ぴくりとも反応を返すことはないが、そこからは生きている人間の温かさが伝わってきた。周囲に誰もいないことを確かめてからそっと上掛けをめくり、やはり包帯で厚く包まれた胸の辺りにそっと顔を寄せる。

 温かく、規則的に確かな鼓動が伝わってくる。目を閉じてユリウスの心音に耳を傾けているとニコは不思議な安らぎに満たされた。

 そういえばアウシュヴィッツで抱かれたとき、いつだってユリウスの体は温かく力強かった。苛立ち、苦悩、後悔、そういった感情をやるせなくぶつけ、ニコのすべてを貪ろうとするようなユリウスの熱を思い出して、ニコはひたすら辛く屈辱的だった行為の記憶が少しずつ和らいでいくのを感じていた。

 今なら認めることができる。ユリウスはきっと、ニコのことを愛していた。

 幼かったニコはずっと、ユリウスをただ兄弟や家族を思うような、友情の延長のような感情で頼り、求め、しかしユリウスが望むものを与えきれていなかった。愛情故のユリウスの優しさに気づかないままあぐらをかき、兄に叱られたあの日も、ひどいショックを受けたであろうユリウスに何の言葉もかけず傷つけた。兄を死に追いやったのがユリウスだとすれば、その責任の一端は自分にもあるのかもしれない。

 眠るユリウスを見つめながら、ニコははじめて何もかも投げ打って家族以外の誰かを守りたい救いたいという感情を味わっていた。そして思う。もしかしたらこれが、人を愛するということなのかもしれないと。

 だが、ニコにできることはただ見守るだけだった。そして、何とか意識を取り戻して欲しい、生き延びて欲しいと思う一方で、取り返しのつかないことをしてしまった今、ユリウスが目を覚ましたらどうやって物事のつじつまを合わせればいいか思い悩み、眠れない日々は続いた。

 あの場からユリウスを救い出すには他に方法がなかったとはいえ、大変なことをした。戦争が終わった今ではかつてユリウスが話していたとおり親衛隊員は戦犯として追われる立場になっている。しかしニコはユリウスをユダヤ人としてここにつれてきて、その腕に消えない痕跡までつけてしまった。もう後戻りはできない。つきはじめた嘘は貫き通すしかないのだ。

 目を覚ましたユリウスが危険なことを口走る前に、今彼が置かれている立場と、逃げ延びるためのたったひとつの方法について話をしなければならない。ユリウスにとって自身が死に追いやったレオの名前と身分で生きることは簡単には受け入れられないかもしれない。それでも方法は他にないのだ。ニコは思い悩みながら毎日ユリウスの元へ通いつめた。

「君の兄さんが目を覚ましたよ。だが……」

 六月のある日、病室にやってきた医者が口を開いた瞬間ニコはしまったと思った。目を離した隙にユリウスが目を覚ましてしまった。本当の名前や彼が親衛隊将校だったことなど、言ってはならないことを話してはいないかと一瞬背中が冷たくなった。しかし医者は言いづらそうに、頭の怪我や精神的なショックのせいかもしれないが、彼は記憶を失っているようだ、と続けた。

 ニコは神に感謝した。もう何年も祈ることなどやめていたにも関わらず、このときばかりはただ、神が与えてくれた奇跡に感謝するしかなかった。そして、あまりにも重い過去を背負いこじれてしまった自分とユリウスに、神様がやり直すチャンスを与えてくれたのだと思った。

 ユリウスがニコを愛したことがすべての悲劇のはじまりだったのならば、そんな記憶はなくしてしまえばいい。かつてレオが言ったように、教会で聞いたように、やはりあれは罪だった。許されぬ関係に溺れそうになり、だから自分たちはこんなにも残酷な運命を辿った。だが、すべて忘れてしまえば傷つけたり傷つけられたりした日々のことも、ユリウスが今では戦犯として追われる身であることも、何もかもなかったことにできるはずだ。

 ニコは彼をレオと呼び、失った兄が持っていたはずの記憶を植えつけるだろう。そしてすべての罪悪感から解放されたユリウスはニコの兄として生きる。

 ニコはそれを、希望だと思った。

 少しユリウスの具合が良くなったらドイツを離れよう。本当のレオのこともユリウスのことも知る人がいない別の国に行けば、きっと安心して生活することができる。それでも少しは危険が残るかもしれないから、ユリウスが不用意に妙な人間と出会わないように十分注意をしなければいけない。

 ユリウスの体に後遺症は残るだろうか。それならそれで構わない。ニコが一生懸命働けば、きっと兄弟がささやかな生活を営んでいくことくらいはできる。

 ニコはユリウスの病室へ向かった。記憶喪失を自覚したショックで暴れ出したのを抑えるために鎮静剤を使ったと聞いたが、ユリウスは穏やかに寝息を立てている。ベッドサイドの椅子に腰かけ、じっとその寝顔を眺めた。

 自分たちはやり直す。

 たった二人きりの家族になる。

 やがて、ニコの目の前で〈レオ〉がゆっくりとまぶたを開いた。