Shall we have breakfast together? -3-

「……ってことがあってさ」

 と、未生がひとしきり大学でのやり取りを話す間、尚人は身を乗り出して耳を傾けていた。

 いつだってそうだ。どんなくだらないことだって、尚人には一切関係ない内容だって、未生の話すこと何でも楽しそうに、さも興味深そうに聞いていてくれる。もしかしたら研究や仕事の中で身についたただの習性なのかもしれないが、それでも未生は、こうして尚人が自分の言葉を熱心に受け止めてくれることに喜びを感じるのだった。

 裏を返せば――長い間、誰ひとり未生の言葉になど注意を払ってくれなかった。少なくとも未生自身はそう思い込んでいた。

「へえ、お味噌汁の具か。面白いね。あまり考えたことないけどテレビじゃよく、お雑煮の地域差で論争してるよね。あれを更に日常レベル、家庭レベルにブレイクダウンしたものだと思うと、果てしないバリエーションと派閥がありそう」

 そう言われれば、正月時期に地方の雑煮を特集したテレビ番組を観た記憶がある。澄んだ出汁に餅と青菜だけのシンプルなものから、どっしりとした味噌味のもの。海鮮やいくらが乗った豪華版から果てにはあんこ餅入りのものまで「雑煮」という名前でも実態は千差万別だった。

 年に一度しか食べられない伝統料理ですらあれなのだから、日常的に食卓にあがる味噌汁であれば、それこそ尚人の言うとおり一家一派レベルなのかもしれない。

「俺あんまり味噌汁食わないからピンとこなくて。味噌汁でけんかするなんて変な奴らだって思っちゃったよ」

「……そっかぁ」

 一瞬だけ、気まずさと痛ましさの混ざった空気がふたりの間に流れた。

 

 尚人にとって未生は今も、恋人であると同時に「救うべき可哀想な子ども」なのだろうと思うことがある。もちろん哀れみがすべてだとは言わないが、彼が未生に手を差し伸べ離せなくなった理由のひとつは間違いなくそれだ。

 未生の側にも同じ感情はあったと思う。優馬に優しく語りかける尚人の姿に惹かれ、幼い弟を羨むこともあった。自分が少年だった頃にもし尚人のような人間と出会っていたら何かが変わっていただろうか。変われていただろうか。

 だがそんなのは結局のところ「たられば」の妄想。未生が望むのは、こうして手を伸ばせば腕の中に抱き込めてキスできて、さらに先まで許してくれる尚人なのだ。もし自分が本物の「可哀想な子ども」であれば、そんなことできやしない。

 わかった上で、それでも尚人の同情は未生を居心地悪くさせ、同時に安堵もさせる。尚人を引きつける武器になるならば――未生は喜んでそれを利用するだろう。

「でも僕も、お味噌汁ってそんなに食べないな」

 そんな思惑を知ってか知らずか、尚人はさらりと不穏な空気を流す。柔らかい雰囲気で普段は年齢差を感じさせない尚人だが、こういうときの彼は紛れもない「大人」だ。

「そうなんだ?」

「ひとり分作るのも面倒だし、残っても困るからね。たまに飲みたいときはインスタント買うかも」

「ああ、あれこれ売ってるよな」

 カップの味噌汁は未生も何度か買ったことがある。味も悪くはなかった。だが、同じ金を払うならばより多くの脂質や糖質を摂取できるものを選びたくなるのが若さというもの。同じ百円出すならば、味噌汁ではなく菓子パンやおにぎりをひとつ追加するのが未生の日常だ。

「けっこう美味しいんだよ。液体味噌を溶かすタイプもいいけど、最近は具が豪華なフリーズドライとかさ。このあいだ富樫さんが冗談で、奥さんの味噌汁より美味いなんて言ってた」

「へえ」

 生タイプや粉末タイプだと具材はせいぜいわかめや、豆粒のような大きさの乾燥あさり程度だが、フリーズドライだとごろごろと豪華な具が入っているらしい。もちろんその分値も張るのだが、かに汁なんかも売っていると聞けば多少の興味は湧く。

「そういえば、尚人が一番好きな味噌汁って何?」

「あんまり考えたことないな。特に決まった具材とかなしに、余った野菜とかなんでも適当に入ってた気がするし。……ああ、でも卵の入ってるの、好きだったな」

「卵?」

「うん。そのまま卵落としたやつ。白身は固まってるんだけど、お箸で割ると黄身がとろっとするんだ」

「味噌汁に、卵……」

 未生は思わず、繰り返した。卵入りの味噌汁。それもかき玉汁ではなく、そのままの卵。もちろん未体験だ。

「お味噌汁だけでたんぱく質も摂れて、いいんだよ」

 聞かれてもいないのに、尚人はかすかに言い訳がましい調子で卵入りの味噌汁が栄養的に優れていることを付け加えた。発酵食品である味噌に、野菜、さらに卵。白米と合わせれば完全栄養食――というのはおそらく母親の受け売りなのだろう。

「それって美味いの?」

「美味しいよ?」

 意図せず疑わしげな口調になった未生に、尚人はもしかしたら気分を害したかもしれない。まずい。こういう小さな火種がまかり間違って、篠田たちのようなけんかにつながるのだ。

 どうフォローしようかと考えるうちに、尚人が先に口を開いた。

「じゃあ、食べてみて判断する? 作ってあげるよ。そういえばなんとなく買ったままで味噌全然使ってなかったし。ちょうど夕ご飯の残りのキャベツもあるし。ちょうどいいや」

「キャベツ!?」

 未生はさらに仰天した。

 

 今日は二人とも疲れていて、料理をする気分ではなかった。夕食にはスーパーマーケットの惣菜売り場でとんかつを選び、添え物の千切りキャベツも袋詰めのパックを二袋かごに入れた。だがさすがにふたパックは多すぎて、まるまるひとつ冷蔵庫に残っているのだった。

 明日の朝か昼にサラダを作ればいい……と思っていた未生だが、まさかそれを味噌汁に? これはもしや、素麺やじゃがいもに負けず劣らずの変わり種ではないだろうか。ここに篠田や範子がいれば、判断をあおぎたいところだ。

 未生がさらに怪訝な顔をしていることに気づいたのか、尚人は軽く唇をとがらせた。

「そんなに驚くことかな」

「いや、わかんねえ。だってほら、俺そういうの詳しくないからさ」

 という言い訳は、それはそれで不憫な生い立ちを主張しているようで嫌みったらしくはないだろうか。未生は無理矢理話を変えようとしてむしろ墓穴を掘ってしまう。

「ほら、千切りキャベツの醍醐味って、しゃきしゃき感だろ? 火を通すって想像できなくて」

「そう? 僕は火が通ってしんなりしたキャベツ、甘くて美味しいと思うけどな」

 未生の健気な努力は実を結ぶどころか、さらなる意見の相違を浮き彫りにするだけだった。篠田と恋人の修羅場を思い浮かべながら、未生はなんとか笑顔を作る。

「ああ、確かに。尚人のいうとおり食ってみなきゃわかんないよな。明日は朝からごはんと味噌汁か。外食みたいで楽しみだな」

 これで少なくとも結論は持ち越しだ。

 さて、尚人お手製の特別な朝食が待っているからには、しっかり腹を減らした万全の体制で臨まなければならない。そのためにはしっかり体を動かして、十分な睡眠をとって。

 だから――。

「なあ、尚人。そろそろ……」

 背後から肩を抱くように腕を回すと、恋人はくすぐったそうに身をよじってから体重を預けてきた。