Shall we have breakfast together? -おまけ-

 鼻がむずむずして、背筋がぶるっと震える。

「……っ、くしゅん」

 盛大なくしゃみ。これは良くない兆候だと、小鍋をかけたコンロの火をひとまず止めてから尚人は慌てて上着を取りに走った。

 原因は明らかだった。まだ肌寒い季節だというのに、バスルームで頭から冷水シャワーを浴びた。風邪を引いたらどうしよう、仕事に穴をあけるわけにはいかない。でもさっきは、そうでもしないと落ち着けなかったのだ。

 体の熱の話をするならば、とっくにおさまっていた。というより朝っぱらからさんざん搾り取られたといっていい。思い出すだけで恥ずかしいし信じがたい話だが、うとうとと春眠をむさぼっていたつもりが、はっと目を覚ますとすでにが体の中に押し入ったところだったのだ。

 寝ているところに勝手なことを――と文句を言いたいのは山々だが、未生の言い分としては、誘ったのは尚人の側なのだという。寝ぼけた尚人が未生に抱きついて、こともあろうか勃起したものをぐいぐいと押しつけながら彼の名を呼んだのだと。

 そんなことするはずがない、と言い切れないのが辛い。

 実際に尚人は、未生の夢をみていた。しかも――夢の手触りが目覚めた瞬間からどんどん失われていくものだが――おそらくは、不埒な夢を。

 自分は清廉潔白な人間でいやらしい夢など見ることはない、などとのたまうつもりはない。かつてセックスレスに悩んでいた頃だって、人には言えないような夢をみては体を熱くして目を覚ました。

 しかし、そういった経験からも尚人は、淫夢というのは欲求不満の裏返しだとばかり思っていた。毎週末のように未生と抱き合い満たされている今となっては、いやらしい夢をみる余地はないのだと。

 もっと若い頃ならともかく、「ほぼ毎週末」というのは尚人にとっては十分な頻度である。

「……あ」

 再び火をつけたコンロの上で、鍋の湯がボコボコと沸き立つ音にはっとする。

「いけない、集中しなきゃ」

 火を弱火にして、よけいなことを忘れようと自分の頬をぺちぺちと叩く。

 とはいえ集中が必要なほど立派なものを作っているわけではない。ボトルタイプの液体味噌にはだしが入っているので、極端な話これを湯で溶くだけでも味噌汁的なものはできあがる。

 実家の母は、ちゃんとだしを引いていただろうか、それとも顆粒だしを使っていただろうか。一度も気にしたことはなかったし、わざわざ「お袋の味を習得しよう」などという殊勝な考えを持ったこともない。

 ただ、なんとなく未生と話す中で頭に浮かんだ「実家以外で食べたことのない味噌汁」が、キャベツと落とし卵だっただけ。そしてなんとなく言葉のあやで、作ってやるなどと言ってしまった。正確な作り方すら知らないというのに。

「でもまあ、普通に考えれば……」

 お湯の中にだし入りの味噌を溶かし入れ、キャベツの千切りをどさっと投入。火が通ってしんなりとしてきたところで、未生が風呂から上がってきた。

「いいにおいがする」

 振り向くと、髪が濡れている。濡れた髪、肩にかけたタオル。上半身裸ではないという違いはあるものの、最初に出会ったときの未生もこんな感じだったっけと、ふと甘い感傷が尚人の胸を横切る。

 あの日の未生は意地悪く、怖くて、逃げ出したくてたまらなかった。でも同時に――尚人はすでに、彼に対して特別なざわめきを感じてもいた。

「未生くん、髪ちゃんと乾かさないと風邪引くよ」

 懐かしい感情は口に出さず、代わりに尚人は「年上の恋人」としての良識的な言葉で未生を諫める。風邪の心配なんて、本当は人のことなんて言えないのだが。

「だって、風呂場まで味噌汁のにおいがしてきたからさ。なんか腹減っちゃって。髪は後でちゃんとするから」

 未生は、彼の身支度が十分でない責任を尚人に押しつけた。とはいえ自分の作っている味噌汁のにおいが理由だと言われれば怒る気になれないのもまた事実で、こういう甘え方をされると尚人は何も言えない。

 さらに、後ろから抱きすくめて後頭部に軽くキス。

「ちょっと、火を使ってるんだから危ないよ。ふざけないで」

 これも、本気で叱っているわけではなく照れ隠し。もちろん未生も承知していて、はいはいと軽い調子で流す。

「で、俺なんかやることある?」

「じゃあお茶碗と味噌汁椀と、あとお箸とか準備してくれる? 他は何も作ってないけど、足りなければ冷蔵庫に納豆入ってる」

「はーい」

 常温に戻したたまごを鍋に割り入れるときは、少し緊張する。自分ひとりで食べるだけならどうだっていいのだが、人に食べさせるのならば、できれば黄身を破らずきれいに作りたい。うまく鍋に落とせたら、今度は白身がきれいに黄身を包み込むようにとか、ちょうどいい半熟の状態に仕上げたいとか。気にすることが多すぎて、尚人は銅像のようにじっと固まって鍋の中をのぞきこんだままでいた。

 思えば、母親とはすごいものだ。朝の忙しい時間帯にマルチタスクをこなしながら、完璧な味噌汁を作り上げていた。とてもではないが自分に家庭の主夫は務まりそうにない。

 余熱を考慮して少しだけ早くすくいあげ、キャベツと卵をお椀によそう。汁よりも具が多めの「食べる味噌汁」だ。見た目は――百点とはいえないものの、まあ八十点くらいはつけていい。

 

 

 味噌汁とごはんだけの極めてシンプルな食卓に座った未生は、目を輝かせた。

「へえ、キャベツと卵なんか地味だと思ってたけど、なかなかきれいなもんだな」

 言われてみれば、淡い緑色のキャベツは春の草原のようで、その上に丸いたまご。そっと箸を入れると真っ黄色の黄身がとろりと流れ出て、なんとも春らしい気がしてくる。

 黄身の絡んだキャベツを口に運ぶ未生を見つめる尚人の心臓は、どきどきと激しく打っていた。

 やっぱり地味すぎるだろうか。若い男の子だから油揚げか何か、しっかり味の出るものが入っているほうが良かったかもしれない。もしくは他に魚かハムでも焼くとか。これでは満足いく食事にはならないのではと不安に襲われる。

「あ、美味い」

 その言葉に、力が抜ける。

「良かったあ」

 未生はますます目をきらきらさせて、味噌汁をすすっては具を口に運ぶ。旺盛な食べっぷりは、決して彼の言葉がただのお世辞ではないことを物語っていた。

「すっげえ、千切りキャベツってこんなに甘いんだな。生で食うとちょっと水っぽいし、味もほとんどない気がしてたけど、あったかくすると別の食い物みたい。俺これ好き」

 それから「食わず嫌いはよくないと篠田にも言ってやろう」などとつぶやきながら、早くもお椀を空にした未生は鍋に残った残りの味噌汁をよそいに立ち上がる。

 その姿に、ようやく安心して尚人も味噌汁に口をつけた。

 見た目と同様に、優しい味がする。使っている味噌も違うし手順だって合っているかわからない。でも、確かに実家で食べていたのもこんな味だった。

 尚人にとっては懐かしくほっとできる味で――今日からはそこに、新しい意味が追加される。

 未生と食べる、朝の定番。しばらくは毎週末、お味噌汁とごはんの朝食が続きそうだ。

 

(終)
2022.03.29

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