祭りのあとで


「心を埋める」本編107話の直後。

ひとり暮らし初日の夜を過ごす尚人の小話です。


 

 風呂から上がって、相良尚人は引っ越してきたばかりの部屋を改めてぐるりと見回した。

 面積は今朝まで暮らしていた麻布十番のマンションの半分もないはずなのに、やたらと広く思える部屋。運び込んだ荷物はおおむね片付いて、いくつか残っている段ボールはどれもあわてて開梱する必要はないものばかりだ。

 律儀な仲間たちは宴会の後片付けをきっちりすませてくれた。キッチンの隅にはピザやスナック菓子の包装、空きペットボトル、ビールやサワーの空き缶がきっちりと分別され、ゴミ袋に詰めてある。

「なんか……」

 と口に出したところで動きをとめ、短い躊躇の後に黙る。手持ち無沙汰だな。寂しいな。正直な感情を口に出してしまったなら、寂しさは音になり、姿を持ち、物量をもって襲いかかってくるだろう。それを怖いと思った。

 ひとりで過ごす夜なんて、決して珍しくないはずなのに。

 でも、たとえ帰宅がいつになるかわからなくたって、帰ってきたところでその態度がどこまでも冷淡であるにしたって、「自分以外の誰かにとっても帰るべき場所」で生活することには、失うまで気づかない安心感があったのだ。

 笑顔で手を振って別れた栄は、今どうしているだろう。お荷物がいなくなったと、せいせいした気分でいるだろうか。それとも少しくらいは寂しいと感じてくれているだろうか。こんなことを考えてしまうこと自体、弱気になっている証拠だ。

 あの場所を去ったことは、正しい。

 栄との間にあった愛情はいつの間にか変質していた。栄と尚人はいつからか恋愛感情とは異なる「情」と、もしかしたらいくらかの惰性によってのみつながっていた。栄にはっきりと突きつけられるまで目を背けておきながら、内心では誰よりそれをわかっていたからこそ、尚人は未生に惹かれ、すがった。

 でも。

 はあ、と、意図せず小さなため息がこぼれる。それだけで空気が濃く重くなった気がして尚人はあわてて首を振った。

 初日からこんな弱気になるなんて、いけない。これは新しい旅立ち。こんな年齢になっていまさらではあるが、やっと自分はひとりで立ち上がり、歩き出す勇気を得たはずなのだから。

 気分転換に水でも飲もうと冷蔵庫を開けて、目に入るのはビールやサワーの缶。昼間の宴会のため多めに買ってきたので、すべて飲みきることなく残ってしまった。持って帰ってはどうかと勧めたのだが、荷物になるのを嫌ってか遠慮してか、友人たちはそのまま置いていってしまった。

 

 昼間の尚人は接待役に徹して、乾杯でプラスチックコップ半分程度のビールに口をつけただけだった。ひとりで酒を飲む習慣もない。

 でも、なんだか今はちょっとだけ酔っ払いたい気分だ。友人たちのおかげで昼間は賑やかに楽しく過ごせた。だからこそひとりきりになった部屋がやたらと広く、静かに感じられるのだ。

 一本だけ。そうすればこの寂しさも紛れて、ほどよい眠気もやってくるかもしれない。尚人はビールの缶に手を伸ばす。

 プルタブに手を掛けて、しかしそこで思い出す。

 今ではもう遠く、懐かしい思い出になりかかっている夜のこと。

 珍しく早い時間に帰ってきた栄と、久しぶりに夕食を一緒にとることができるのだと浮かれて、けれど彼は仕事の呼び出しで慌ただしく出て行った。ふたりでゆっくり過ごせる夜になるかもしれないと、尚人は期待していた。少し前に出会ったばかりの未生から欲求不満を見透かされて、そのことへの反発心もあったと思う。

 期待したゆえに落胆は大きく、あのときの尚人も寂しさを埋めようと、珍しく一本だけビールの缶を手に取ったのだった。

 それがきっと、すべてを変えた。

 酔ってうっかりスマートフォンに手を触れてしまったから。そのせいで、ひたすら無視を決め込んでいた未生にコールバックしてしまったから。電話口の未生がやけに優しかったから。

 ――笠井のところに行くのはやめた方がいい。

 栄の声が、頭の中によみがえる。

 尚人は、今にもビールのタブを起こそうとしていた指を止める。

 ――不幸な生い立ちや境遇に同情して近寄るんじゃ、いつかまた同じことを繰り返す。

 栄は決して、恋人を寝取られた負け惜しみであんなことを言ったのではない。尚人という人間を知り尽くしているからこその、的確すぎる言葉。

 同情や哀れみで未生に惹かれたわけではない、と尚人の一部は栄に反発する。しかし心の別の部分では――愛情に飢えて歪みを抱えた未生に、栄に対するのとは別のかたちで依存しようとしているのではないかと、自分自身を疑ってもいる。なにより、一度は栄とやり直すことを選んだ自分がいまさら未生を思うだなんて、あまりにも都合良すぎる。

 そもそも相良尚人には、自立したひとりの人間として誰かを愛することができるのだろうか? 答えはまだ、わからない。

「……やめとこ」

 尚人は手に持っていたビールの缶を冷蔵庫に戻し、代わりに水のボトルを手に取る。

 アルコールで自制心がゆるんで、万が一にもあの晩のように誰か――それが未生であれ、栄であれ――にすがってしまったら、再び何かが崩れてしまうかもしれない。

 だから今日は、ひとりきりで祭りのあとの寂しさを受け止めて、噛みしめる。明日からちゃんと、ひとりで歩くことができるように。

 

(終)
2022.04.09