その指は甘い。だけではなくて(4)

 そして、プリン作成開始から約二時間後。嵐の後のように散らかったキッチンに、羽多野は呆然とたたずんでいた。

 オーブンから取り出したばかりのプリン――になるはずだったものは、ボコボコと穴だらけの表面からして思い描いた姿とはまったくの別物。泡立て器なしでは攪拌が十分でなかったのか、もしくは漉し器を使わなかったのがいけないのか。素人である羽多野には判然としないが、生地のところどころに分離した卵の白身がまだらな模様を描いているのも実に不気味に見える。

 どう見ても失敗作であることは明らかだ。だが軽石のような外見をしたこのプリンが、万が一にも味だけは良かったりはしないものか。ほとんどゼロに近い可能性にすがって羽多野はまだ湯気を立てているカップにスプーンをさし入れてみた。

「……なんだ、これ」

 ひと口食べてみたそれは、なんとも形容しがたい味をしていた。

 卵と水分が分離した上に、たんぱく質が凝固した部分に火が通りすぎているのか、見た目同様に口触りが極めて悪い。はかりがなかったので目分量ではあったが、けっこうな量の砂糖を入れたつもりなのに不思議と甘さはほとんど感じなかった。

 プリンと呼ぶことすらおこがましい「牛乳と卵を適当に混ぜて火を通しすぎた何か」。それが、羽多野が二時間かけて――しかも名誉の負傷をしてまで作り出したものの正体だった。

 名誉の負傷、つまり羽多野の左手はまだヒリヒリと痛んでいる。痛みの原因は、スプーンをマグカップの底まで深く入れると流れ出てきた黒っぽい液体である。

 鍋で作っているときの不穏なにおいから薄々察してはいたが、カラメルソースは焦げており、舐めると舌先に嫌な苦みが広がった。

 レシピを読む限りは、ただ熱を加えて砂糖を溶かしただけでに見えたカラメルソース作り。これがまた曲者だった。

 鍋をコンロにかけると砂糖はすぐに溶けて、沸騰してぶくぶくと泡だった。しかしレシピ写真のような美しいカラメル色に変化してくれず、色はいつまでも透明のまま。温度が低いせいかと火を強火にし、念のためレシピを見直そうとスマートフォンに視線を移してから悲劇が起きるまでは、体感ではほんの数秒。実際にもきっと、十数秒からせいぜい数十秒程度だったはずだ。焦げ臭いにおいが鼻を突き、はっと視線を小鍋に戻すと中身は濃い茶色に変わっていた。

「やべっ」

 焦げる――いま思えば、実際はそのときすでに焦げていたのだろう。ともかく羽多野は慌てて小鍋に水を注いだ。すると次の瞬間、沸騰した水とカラメルの混ざった液体が激しく飛び跳ねた。

 悔し紛れに調べてみたところグラニュー糖の融点は186度。触れればやけどを負うのは当たり前のことだ。

 プリンは「プリン型4個分」の分量だったが、マグカップはふたつしかないので、二分割してオーブンに入れた。容器が大きいのでいつまでたっても固まる気配がないから、最終的には温度を上げて大幅に加熱時間も追加した。気づけば天板に注いだ湯は干上がっており、永遠に液体であるかと思われたプリン液は軽石のように穴だらけになっていたというわけだ。

「はあああああ、ったく。何が初心者向けだよ」

 長い長いため息をついてから、神野小巻の顔を思い浮かべて羽多野は毒づいた。

 プリン作りをなめてかかっていたことも、準備が足りなかったことも自業自得だ。だが「初心者向け」と、さも簡単であるように吹聴した小巻だって悪い。

 完全な責任転嫁であることはわかっているが、この大失態の責任の一端を誰かに押しつけずにはいられなかった。人生を振り返れば、挫折、失敗、恥……すべて人並み以上に経験している羽多野だが、料理でこうも派手にしくじったのは初めてだ。

 ――しかも、恋人のためにわざわざ柄にもない菓子作りなどに挑んだところでの、失敗。

 驚いて喜び、しかし嬉しさを隠そうと必死でポーカーフェイスを気取り、必要以上に憎まれ口を叩いてみせる栄の姿まで生々しく妄想していただけに、羽多野の落胆は大きかった。

 本当なら荒れ放題のキッチンなど放置してやけ酒でもあおりたいところだが、のんびりしてもいられない。

 おそらく栄が帰宅するまではあと一時間程度。それまでにキッチンの惨状をきれいに片付けて、完璧な証拠隠滅をはかる必要がある。いくらなんでも、こんなみっともない姿を栄に見せるわけにはいかないからだ。

 シンクに山積みになっている洗い物の中にはカラメルの焦げ付いた鍋など難易度の高いものもある。プリン失敗+名誉の負傷だけでも十分なダメージを受けているのに、羽多野の月曜日の苦難はまだまだ終わりそうになかった。

「……うるさい」

「え、何が?」

 帰宅した栄の第一声に、羽多野は引きつった笑いで返す。

「うるさいですよ。ほら、換気扇。なんでこんな勢いで回してるんですか」

 栄はつかつかとキッチンに歩み寄って、最大出力で作動させていた換気扇のスイッチを止めた。

「ああ、えっと……パスタにガーリックを使ったから、においが気になるかなと思って」

「月曜からニンニクですか? 良いご身分ですね」

 本当はパスタどころか、帰宅してから羽多野が口にしたのは出来損ないのプリンもどきだけだ。とはいえプリン型で4つ相当の失敗作を一気に胃に押し込んだので気分が悪い。

 キッチンを片付けてからも、焦げたカラメルのにおいやバニラの香りが残っていないか不安だった。片付けの間はずっと窓を全開にして、換気扇も回していたが、ずっとキッチンにいた自分の鼻が慣れてしまっているだけで、帰宅したばかりの――しかも潔癖気味の――栄は、部屋に残る甘い香りに気づいてしまうかもしれない。

 緊張しながら様子をうかがうが、幸い栄は不在中に羽多野が奇妙な挑戦を繰り広げていたことになど気づかない様子で、ふうと行きを吐いて冷蔵庫から水のボトルを取り出した。

 本当に何にも気づいていないのか。それとも怪しみながら羽多野の反応を伺っているのか。こんなことでびくつくなんて自分らしくもない。いたたまれず風呂場にでも逃げだそうか、だが羽多野がキッチンを離れている間にもしもプリン作りの痕跡でも見つけられようものなら……。

 悶々としている羽多野に向けて、栄が急に真剣な顔で切り出した。

「羽多野さん、あの」

「な、なんだ?」

「今日の夕食、急にキャンセルしてすみませんでした」

「ああ……」

 栄の側にも妙な緊張が感じられた理由はそれだった。栄は栄で、急な残業で食事の予定をふいにしたことを気にしていたのだ。

「いいよ、そんなこと」

 本当は気にしていたし、がっかりした。ただ、その後のプリン騒動のせいで相対的にショックが矮小化されてしまっただけで。

「それより、仕事は片付いたのか?」

「ええ。だから、なんなら明日にでも仕切り直して」

 レバノン料理ディナーのリベンジ、それは良いアイデアだ。間違いなくふたりとも満足できる。だが――。

「いや、明日はやめておこう」

「……」

 栄の表情が曇った。あわてて羽多野は怒っているわけではないのだと首を振る。

「いや、明日は確か定休日だった気がするから、レバノン料理は明後日。明日は家でゆっくり飯食おう。週末もなんかばたばたしてたしさ」

 本当は、あの店の定休日がいつかなんて知らない。ただ、羽多野にとっては雰囲気の良いレバニーズレストランで栄としっぽりした時間を過ごすことよりも、プリン失敗により喪失した自信を回復することのほうがよっぽど重要なのだった。

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