まぶたを突き抜ける眩しさに、尚人は目を開く。
「……!」
朝、と呼ぶにはもはや強すぎる光。明らかな寝坊だ。一気に脳が覚醒し、体を起こしたところで今日が日曜であることを思い出す。未生が隣にいないから、つい平日であると勘違いしそうになったのだ。
「良かった」
安堵の呟きに続いて、少しずつ思い出すのは昨晩のこと。
ボランティアを終えてホテルに戻った未生と遅い時間にビデオ通話で話をした。いや、それだけではない。話の途中で未生が「むらむらしてきた」などと言い出すから……。
続きを思い出すだけで顔が熱くなる。
直接的な部分を写すことはかろうじて避けたとはいえ、真夜中のテンションと人寂しさでどうかしていたのだ。正気ではとてもあんなことできない。いや、もしかしたら何もかも夢だったりして。
しかしベッド脇のゴミ箱には遂情の痕跡である丸めたティッシュペーパーが放り込んである。画面越しの互いの姿や声に興奮しながら一緒に果てた。あれは紛れもない現実。
果ててからもつらつらと寝物語を続け、いつの間に眠りに落ちていたのか記憶にない。そもそも今は何時なのだろうか。
尚人は枕元に転がったままのスマートフォンに手を伸ばし、画面に触れたところで気づく。
「あ……落ちてる」
画面に触れても、側面のボタンを押しても画面はブラックアウトしたまま。スマートフォンの充電は尽きていた。
スマホを充電器にセットすると電池マークが浮かび上がってチャージの開始を知らせてくるが、少し待たなければ電源を入れることはできない。着替えてからトイレに行き、コーヒーを淹れて寝室に戻ってくると、表示は赤いままであるものの、一応電源を入れることはできる状態になっていた。
一体何時まで話をしていたのだろう。気になって、未生とのやり取りに使うビデオ通話機能が付いたメッセンジャーアプリを立ち上げる。
予想していたことではあるが――最終の通話履歴は数時間に及んでいた。尚人が最後に時計を気にした時間よりも、ずっとずっと後まで。
尚人が眠りにつくまで、未生はずっと回線を繋いだままでいた。いや、同じくらいのタイミングで未生も寝落ちしてしまったのかもしれない。
「あの日と一緒だな」
懐かしさに、思わず笑いがこぼれた。
拒んでもしつこく付きまとってくる未生に辟易していた。性志向や、誰にも明かさずにいた欲求不満を言い当てられたのも怖かった。関わりたくなくて、かかってくる電話もひたすら無視していたのに、うっかり一本だけ酒を飲んだ拍子に未生にコールバックしてしまった。
ずっと意地悪だった未生が、なぜだかあの夜は少し優しく思えた。尚人が眠りに落ちるまで、そして眠りに落ちてからも回線を繋いだままでいてくれた。
当然「いい話」で終わりはしない。後日、尚人の失言を盾に脅迫じみたやり方で関係を求めてきた未生だったが、そもそものきっかけである失言を招いたのも、あの夜の電話だったのだ。
もし、尚人が間違えて電話をかけなければ。
もし、未生があっさり電話を終えていれば。
尚人は未生を拒み続けただろうし、未生だってやがて尚人を口説き落とす遊びに飽きていただろう。
もしかしたら過去を美化したがっているだけなのかもしれないけど、尚人はつい考えてしまう。あの夜未生が電話を切らなかったのは、尚人の弱みを握るためだけではなく、同情や優しさゆえではなかったか。さらに言えば、未生だってひとりきりの夜に寂しさを感じていたからではないだろうか。
あえて蒸し返して確かめるような野暮なことはしない。ただ、未生と過ごす夜をいくら重ねても、「最初の夜」として時たま懐かしく、大切なものとして思い出すのは、初めて肌を重ねた夜のことではなく、儚い回線越しにつながり合ったあの夜のことなのだ。
じっと通話履歴を見つめ、じんわりと胸の奥が温まる感覚を味わっていた尚人だが――ふと、とある可能性に思い至って背筋が冷える。
尚人のスマホが充電切れを起こすまで通話が続いていたのだとすれば、未生は?
普通に考えれば、未生のスマートフォンも同様に電源は落ちていただろう。電池切れで朝のアラームが鳴らなかったとすると、当然に未生はボランティア二日目に遅刻したことになる。
「どうしよう……」
大人で、一応は教育関係の仕事に就き「先生」と呼ばれる立場の自分が、故意ではないにせよ学生である未生の遅刻を誘導してしまったとすれば、なんたる大失態。
尚人は真っ青になった。
*
結果的に、尚人の心配は考えすぎに終わった。
前日同様多忙のため日中はメッセージに既読すらつかなかったが、夜になって帰宅した未生から電話があった。長時間繋ぎっぱなしであったにも関わらず、未生のスマートフォンの充電は切れていなかったという。
「だって俺、充電ケーブル繋いだままにしてたから。それに、仮にスマホの充電切れててもスマートウォッチしてるから、そっちのアラーム生きてるし」
「よ、良かった……」
「尚人は充電しながら使うの嫌がるけど、最近はバッテリーもそこへんちゃんと対策されてるらしいよ」
充電をしながら使用するのはバッテリーに良くないと聞いて以来、使用時は頑なに充電を中断する尚人だが、どうやらその考えはもはや過去のものであるらしい。しかも寝るときにもほとんどつけたままであることを奇妙だと思っていたスマートウォッチ。あんな小さなものが単独でアラーム機能を搭載していたとは。
自らのデジタル音痴ぶりは恥ずかしいが、ともかく未生が寝坊していなかったことには安堵した。
「良かった。心配したよ。せっかく大学も課外活動も頑張ってるのに、僕のせいで遅刻させてたらどうしようって」
「仮に俺が遅刻したとしても、それは俺のせいだろ。尚人は関係ないって」
保護者じゃないんだから、そういうのやめろよ。未生は恋人の「過保護」に不満を述べるが、尚人はまともに聞いていない。
いくらバッテリーの機能が向上しているにしたって、充電を忘れることはある。スマートウォッチだってシャワーで外したまま眠ってしまうこともあるだろう。そもそもあれは、寝ている間に充電切れを起こすことはないのか? つまり、不安の解消には改善あるのみ。
「やっぱり良くない。心臓に悪いよ。大事な予定がある前の晩は、金輪際ああいうことはやめよう」
大真面目に導き出した改善策に、未生はがっかりしたように苦笑した。
「尚人は考えが極端なんだよ。一晩ちょっと寝てないからって別に平気だし、俺は昨晩、普段はできないことできて楽しかったけどな」
それから、ぽつりと付け加える。
「通話ログ完全消去するアプリ見つけたから、次はちゃんと全身ビデオで映しながらやろうぜ」
「は? だ、だ、だ、駄目! 絶対にそんなの駄目」
まさか未生がそんなことを考えていたとは。セキュリティリスクを理由になんとか昨日は一線を越えずに済んだが、次は別の言い訳を考える必要があるということか。いや、尚人だって本当はあの先も見たかった。そのアプリが本当に、本当に安全なのであれば――。
「いや、やっぱり駄目だって。未生くん、そういうのはやめておこう」
もはや未生に言っているのか自分に言い聞かせているのかわからないが、尚人は今後もその一戦だけは守り通そうと心に決めた。
「ったく、尚人は真面目だからなあ」
ノリの悪い尚人に苦笑したところで、未生はふと思い出したように更なる爆弾を落とす。
「まあ、今日のところはそういうことにしとくか。昨日は昨日で楽しかったし。通話繋ぎっぱなしにしてたおかげでいいこと聞いたし」
「いいこと?」
「やらしい寝言」
思わず手にしたスマートフォンを取り落としそうになった。
「嘘!」
寝言なんて言うタイプではない。いや、寝ているから自分ではよくわからないのだが、少なくともこれまで誰かにいびきも歯軋りも寝言も指摘されたことはない。もちろん「やらしい寝言」なんてありえない話だ。
だが未生は自信に満ちた声色で続ける。
「嘘じゃないって。やっぱりあれじゃ満足しなかったんだな。尚人って見た目と違ってむっつりスケベだなと思いながら寝たよ、俺は」
にやついている未生の姿が目の前に浮かぶようだ。
「もしかして、ちょっと飲んでた?」
きかれて、思う。未生もまた「最初の夜」を思い出していたのだと。
「昨日は、飲んでなかったよ」
「そっか」
未生の中で、あの夜はどのような記憶になっているのだろう。こんなにも明るく、優しい声で話すということは、少なくとも悪い思い出ではないはずだ。尚人の思いを裏付けるように、未生はぽつりと呟く。
「いまさらだけど、尚人、酒の勢いがなくても俺に甘えてくれるようになったんだな」
ついさっきまで意地悪くからかってきていたのに、急にこんなことを言う。焦ったり赤面したり、尚人の心もついていくので精一杯だ。
「いや、待って。やっぱり信用できない。未生くん、僕をからかってるだろ」
直球の甘い言葉が恥ずかしくて、茶化されていることにしてごまかそうとしてしまう尚人。未生はそんな気持ちも見透かしているかのように笑った。
「その方がいいなら、そういうことにしといてやるよ。……でもまあ、来週末は尚人のご希望をじっくり叶えてやるから、楽しみに待ってて」
一体自分は何を言ったのか、それとも言っていないのか。そして未生は来週何をしようとしていて――それは本当に自分が寝言で求めたことなのか。信じたって疑ったって、結局もやもやは残る。
「もう、君と寝る前に通話はしない。ろくなことにはならない」
「本当にそう思ってる?」
「……ずるいよ、そういう言い方は」
本当は、毎日隣で眠りたい。隣にいない夜は毎晩だって電話をつないだまま眠りたい。眠る瞬間まで未生の声を聞いて、眠った後の寝息も寝顔も共有していたい。
きっとお互い、同じ気持ちでいるのだろう。
(終)
2023.04.02 – 2023.04.23