Summer Dressing(4.羽多野)

 羽多野はここのところ、嫌な予感を募らせている。栄の様子がおかしいのはいつものことだが、それが隠しごとをされている気配とくれば、放っておくわけにはいかない。

 正面から確かめるのは悪手なので、朝の慌ただしさに紛れて軽く探りを入れてみる。

「そういえば、同僚からうまいタイ料理屋を教えてもらったんだけど、今日帰りに待ち合わせて行ってみないか? トムヤンクンが食いたいって言ってただろ」

 暑さが増す今日この頃、栄が「辛くて酸っぱいもの」への欲求を高めていることは知っていた。というか、三日ほど前には近所のスーパーマーケットで英国風に魔改造されたトムヤムヌードルを買ってきて、マズいのなんのと文句を言っているのをこの耳で聞いている。

 だが、適切なタイミングで切り出した誘いにぎくりと肩を震わせてから、栄はぎこちない作り笑いを浮かべた。

「えっと、今日はちょっと……積んでいる仕事を片付けないといけなくて」

 羽多野でなくたって気づくレベルで怪しい反応だ。やはりこれは、何かを隠しているに違いない。

「へえ、でも確か君、最近仕事が落ち着いてるからジムの回数増やしてるって言ってなかったっけ」

 毎週土曜と平日の仕事帰りに週1、2回というのが栄のジム通いの頻度だが、ここのところ帰宅が遅くなる日が多い。「少し腹が出てきた気がして、泳ぐ回数増やさなきゃな」などと聞いてもいないのにアピールしてくるが、本人以上に栄の裸を知り尽くしている羽多野としては、首を傾げずにはいられなかった。

「あの、その、締切が急に早まった調査があるんですよ。だからトムヤンクンはまたの機会にして……そうだ、羽多野さんこそジム寄ってくればいいじゃないですか。今日は俺は行かないからちょうどいい」

「ちょうどいい、ねえ」

 それもまた、羽多野にとっては複雑な申し出である。

 純朴ぶった英日ハーフの男につけ込まれそうになった事件をきっかけに、栄は会社近くのジムを退会した。代わりに入会したのは羽多野も通っている自宅近くのジム。土曜日などは連れ立って出かけることもあるが、「しょっちゅう一緒にいると変に思われる」という毎度の自意識過剰で、平日待ち合わせて汗を流すことは決して許されない。

 すなわち、栄がジムに寄る日は、羽多野は職場近くの別のスタジオに行くか、室内での運動は諦めてまっすぐ家に帰ることになる。大いなる理不尽であるが、栄にとってこれは当然の権利を行使しているに過ぎない。

 羽多野が不審を抱く根拠はいくつもある。

 帰宅が遅くなる日が増えたこと。栄はプールを理由にしているが――実は怒らせるのを覚悟で羽多野は一度ジムに様子を見に行って見たのだ。しかしなんと、栄は姿を現さなかった。そんな日に限って妙に率先して洗濯機を回すが、そこには水着ではなくTシャツとスウェットパンツが入っていたことも、羽多野は知っている。

 ジェレミーのことがあってさほど日も経っていないのに同じことを繰り返すほど栄は馬鹿ではない。第一、Tシャツとスウェットで浮気に出かける人間がどこにいる。いや、広い世界そんな人もいるかもしれないが、見栄っ張りでナルシストの栄に限ってはありえない。

 一体何を隠したがっているのか――問い詰めたところで喧嘩になるだけなのはわかっているし、直接対決の前には完全に外堀を固める羽多野の性格。

「……そうだな、せっかく谷口くんがそう言ってくれるなら、今日は久しぶりにじっくり汗を流してこようかな」

「そうしてください」

 羽多野の思惑を知らない栄は、ほっとしたように緊張を緩めた。

 さて、問題は外堀を埋めるための方法だ。

 ジムや残業を口実に、栄がをやっているだろうことは想像できる。だが、一体それが何であるかは皆目見当がつかない。

 待ち伏せしてジムに寄っているのが嘘だと暴くだけでは足りない。どうせ「今日は急に仕事が」などと言い訳をするだけだ。

「そうすると……」

 警戒心の強い栄は、彼と羽多野との関係に第三者を介入させることを極端に避けている。故に情報収集の方法も限定されるのだが――幸いにも「限定的な」共通の知り合いは、羽多野にとっては強い味方になってくれる。

 栄に気取られないよう、出勤してからスマートフォンを取り出すと、羽多野はメッセージアプリから迷いなくある宛先を呼び出した。

 ――久しぶり。いいタイレストランがあるんだけど、今夜の都合はどう? もちろん君の恋人も一緒に。

 の仕事は不規則だから、電話よりメッセージの方が良い。きっと休憩のタイミングでこれを読んで、返事をくれるだろう。

 

 

 メッセージの相手――アリスから電話がかかってきたのは、昼過ぎのことだった。

「もしもし、タカ? お誘いありがとう。タイ料理は大好きだからぜひ行きたいんだけど、残念ながら今日は夜勤の予定が入っているの。それにトーマスも都合が悪いみたいで」

 さすがに当日のお誘いは急過ぎたようだが、それも予想の範疇だ。だが、アリスの恋人で、誰より職場での谷口栄のスケジュールをよく把握しているトーマスも今日は都合が悪いというのは気になった。

「そうか、だったら明日か……近いうちに都合のいい日はない? こういうのって『そのうち』って言ってたら、ずるずる流れちゃうだろう」

 羽多野の言葉に、アリスが笑う。

「ええ、トーマスに聞いたわ。日本人の『是非そのうち』は『No』って意味だって」

 日本通の恋人を持つ賢い女性。さらに言えば、好奇心旺盛で他人の色恋話は大好物。羽多野にとってアリスは最も頼りになる存在と言っていい。

「だから俺は『そのうち』なんて言わないんだ」

「タカは半分アメリカ人みたいなものだものね、私たちBritishよりストレートだわ。本気で誘ってるってことはわかってるから、トーマスにも先の予定を聞いておいた。明日なら私も非番だし、彼も定時に帰れるって」

「だったら明日。店の場所は後で送るよ。時間は七時で予約しておくから」

 ありがとう、楽しみにしてるわ、と弾んだ声で答えてから、アリスが付け加える。

「で、サカエも来るの?」

 ロンドン育ち、リベラルで無邪気な彼女にとって、頑なに同性パートナーの存在を隠し通そうとする栄の心情は理解できないようだ。四人で会いたがっては、トーマスや羽多野にたしなめられる。とはいえ、ロンドンにやって来てからの羽多野と栄の経緯をぼんやり知っているアリスが、今さら彼女やトーマスに隠したって……と思うのは無理もない。

 それでも隠したがる往生際の悪さが谷口栄という男。小さな子どもがかくれんぼのとき自らの目を覆うように、栄は自分が現実から目を背ければ、他人も同じように都合の悪いことに気づかずいてくれると信じている。

「来るはずないだろう」という羽多野の返事にアリスは苦笑する。

「本当にサカエって不思議な人ね。四人で食事に行きたいのに、残念だわ」

 しかし、今回に限っては羽多野は残念でもなんでもない。なにしろこれは隠密な情報収集活動。栄がいるとむしろ困る。

 さりげないふりを装って、羽多野はまず軽い探りを入れた。

「そういえば、アリス。君の恋人は忙しいのか? 今日は定時に帰れないなんて」

 アリスはなんの疑いも持たず、トーマスの近況を伝えてくれる。それが栄の隠しごとにうながっていることなど、もちろん知る由もない。

「あら、タカあなた知らないの? トーマスは最近週に何度か、仕事の後で夏祭りのレセプションパーティで披露する和太鼓の練習をしているのよ」