羽多野は約束の時間の十五分前にはタイ料理店に到着して、友人カップルの到着を待ちかまえた。
メニューを眺めながら、前の晩、げっそりと疲れた顔で帰宅した栄の姿を思い起こす。
仕事に追い詰められているときとは違うどんよりとした表情。朝までの羽多野なら、その裏に隠されたものを探ろうと躍起になっただろうが、アリスから「和太鼓」というキーワードを聞き出したことで心には余裕が生まれていた。
栄の性格的に決して乗り気ではないであろう和太鼓チームに無理やり参加させられて、からかわれるのが嫌で羽多野に打ち明けることができない。この想像は、なかなかいい線いっているのではないか。だが、それだけではまだ何かが足りない――。
やがて長身にブロンドをなびかせた目を引く美人と、彼女を控えめにエスコートする好青年の二人組が店に入ってきた。
「タカ! 久しぶり。元気そうね」
「こんばんは羽多野さん。お誘いいただきありがとうございます」
弾けるような笑顔のアリスと比べて、トーマスの表情がいくらか硬いのはもしや、羽多野の下心を察しているからだろうか。
「いや、こちらこそ急に声をかけたのに都合をつけてくれて嬉しいよ」
ビールと、前菜の盛り合わせ。そのほか同僚が勧めていた料理を何品か頼んでから、まずは久しぶりの再会を祝って乾杯をする。
「数ヶ月ぶりよね。私がタカとサカエを誘いたいって言っても、トーマスが止めるのよ」
シュリンプトーストに手を伸ばしながらアリスが恨み言を口にすると、トーマスは羽多野の目を気にしてか気まずそうに口を開く。
「でも、ほら。やっぱりこういうのは谷口さんに悪いから」
「だったらサカエ抜きでもいいって言ってるのに、いつも何かと理由をつけて首を横に振るじゃない。タカからの誘いだからいいじゃないって説得して、やっと今日はオッケーが出たのよ」
「まあまあ、トーマスには彼なりの事情があるんだから、そう責めるなよ」
なぜここで痴話喧嘩の仲裁をする羽目になるのかはわからないが、ともかく今日はもてなす側の身だ。羽多野はアリスをなだめながらトーマスに向けてニヤリと笑う。
「四人で会おうって言ったところで谷口くんは首を縦には振らないし、俺と君たち三人で会ったと知れば欠席裁判を疑って機嫌が悪くなる。いずれにせよ面倒なことになるんだから、トーマスの判断は賢明だよ」
するとトーマスは景気付けのようにグラスのビールを一気に半分ほど飲み、恨みがましい目を向けてきた。
「そこまでわかっているのに、今日はどうして谷口さん抜きで会おうなんて言うんですか。昼間オフィスでも、後ろめたくてたまりませんでしたよ」
羽多野から誘われたら、アリスはどうしても行きたいとごねるに決まっている。美しい恋人に本気で頼まれればトーマスがノーと言えないのはわかっているはずなのに、なぜわざと火種を撒くようなことをするのか。真面目な青年は不安でたまらない様子だ。
もちろん羽多野はトーマスの反応を予想した上で誘っている。迷惑料的なものとして、今日の支払いも全額持つつもりだ。
「ちょっと聞きたいことがあって。そう、たとえば和太鼓の話とかさ」
「わ、和太鼓!?」
柄にもなく大きな声をあげたトーマスが激しく咳き込んだのは、決してトムヤンクンでむせたせいではないだろう。
「ちょっと、どうしたの? 大丈夫?」
慌てたアリスが背中をさする。
仲睦まじい恋人同士のやりとりを黙って見つめていると、やがて呼吸を整えたトーマスが声を絞り出した。
「なぜそれを」
しまった、というように舌を出すのはアリスだ。
「あら、言っちゃダメだった?」
「いや、口止めはしてないし、されてもいないけど」
不安げに視線が泳ぐのは、羽多野の予想が当たっているからに違いない。
「やっぱり、楽しい楽しい和太鼓チームの練習には谷口くんも参加しているんだな」
「それを私に聞くということは、羽多野さんはご存知なかったわけですね」
トーマスが大きなため息をつく。元はアリスが口を滑らせたとはいえ、栄が秘密にしていることを羽多野に明かしてしまった。彼にとって、その事実は重い。
「まあね。ここのところ不自然に帰りが遅い日があるのを、ジムで泳ぐとか急ぎの仕事があるとか、一生懸命言い訳してるよ」
一方でアリスは不穏な空気を理解できないようだ。
「どうして隠すの? たかが楽器の練習でしょう? 浮気しているわけでもあるまいし隠す理由なんてないじゃない」
この上なく正論だが――問題は、相手が谷口栄である限り、ときに正論が通用しないということだ。
「余興で和太鼓を叩くなんて、俺に話せばからかわれると思っているんだろう。ただ、それにしてもちょっと警戒心が強すぎる気もしてね」
和太鼓というキーワードで大体の事情は察した羽多野だが、それにしても栄の態度は過敏すぎる。ただ太鼓を叩く以上に、羽多野に知られたくない事情があるのではないか。そう、正直に話せば羽多野が確実に嫌な顔をするであろう何かが――。
「あのさ、トーマス。これは俺の予想なんだが、その和太鼓チームには他の部署の人間も混ざっているんじゃないか」
「ええ、着任一年目の方が中心ですが、和太鼓経験者や他にも希望して参加する人も何人か」
「……もしかしてそこに、自衛官の男はいない? ええと、名前は確か」
栄から何度か聞いた気がするが、面白くないので右から左に聞き流した。名前を思い出せない羽多野が眉間に皺を寄せると、トーマスがぽつりと言った。
「長尾さんのことですか。でも、それが何か」
そうだ、確かそんな名前だった。栄と同世代で感じの良い独身好青年で、独り身同志の親切心で断っても断っても食事や酒に誘ってくる男。
「やっぱりな」
予想が当たった爽快感半分。栄に気があるであろう男が、一緒に和太鼓の練習に勤しんでいる場面を想像しての不快感半分。羽多野が複雑な表情で春巻きをかじると、トーマスは恐る恐るといった様子でたずねる。
「羽多野さんがそんな顔をするということは、やっぱり長尾さんは谷口さんに……」
「やっぱり!?」
聞き捨てならない言葉に羽多野が思わず声を荒げると、トーマスは慌てたように付け加えた。
「いえ、別に館で何かがあったわけじゃないです! 長尾さんからの誘いを断るのに谷口さんが難儀しているように見えたから、私も注意しているだけです。……なのに、何も知らないあの人が長尾さんにも声をかけるから」
「あの人って何だ」
「和太鼓は企業や団体と合同での出し物なんです。今年の幹事を務めているのが地元のコンテンツ企業の担当者で――」
そういうことか。担当者とやらの名前を聞くまでもなく、羽多野は和太鼓チームを取り巻くカオスを理解した。草食動物に擬態して栄に擦り寄った、あの男。あいつもこの件に絡んでいるのだ。
「目障りな顔が一人ならず二人も……」
ジェレミーと長尾。羽多野が警戒している男がダブルで絡んでいるとくれば、栄が羽多野に話すのを渋るのは理解できる。理解はできるが、もちろん面白くはない。
明らかに不機嫌を募らせる羽多野。余計なことをばらしてしまったと罪悪感にしょげるトーマス。
絶品のタイ料理どころではない男二人と対照的に、アリスだけはこの状況を完全に楽しんでいる。青パパイヤのサラダをどっさりと小皿に取りながら、満面の笑みを浮かべて言った。
「もしかして、サカエとタカのロマンスに割って入ろうっていう人がいるの? すごい、穏やかじゃないわ! ドラマみたい!」