アリスの放言にトーマスはギョッとした。一瞬、愛おしい恋人の口を手でふさぐべきかと頭をよぎったくらいだ。天真爛漫なのは彼女の愛すべき個性だが、日本人相手だといささか遠慮がなさすぎるのは困りものだ。
「アリス、そういうことは言わないで。これはソープオペラじゃなくて現実世界の話だし、僕にとっては仕事の問題でもあるんだよ」
幸いなことに、目の前にいるのは冗談の通じない谷口栄ではなく、やや日本人離れした感性を持つ羽多野。トーマスの諫言が届くどころか、この程度の軽口は受け入れられて当然とばかりにアリスは羽多野に向かって片目をつぶって見せた。
「ときに現実はドラマよりも波瀾万丈なのよ。ねえ、タカ」
駄目だ。長尾とジェレミーという二人の要注意人物の存在に羽多野は臨戦体制だし、アリスはといえば面白がって煽り立てるばかり。突然の食事の誘いに嫌な予感はしていたが、ここまで見事に的中するとは。やっぱりあのとき「私も参加します」なんて言うんじゃなかった。何度目かわからない後悔にトーマスは唇を噛んだ。
トーマスだって和太鼓など気乗りはしなかった。日本風にいえばガチガチの文化系男子――最近覚えたスラングだと「陰キャ」を自認しているし、栄ほどではないが自意識過剰な方だと思う。人前で不慣れな和太鼓なんてやりたいはずがない。週に数度も業務時間外に練習するというのも憂鬱だった。それでも自ら手を挙げたのは、栄の不満が少しでも和らぐと思ったからだ。
大使館の現地スタッフなんていわば契約スタッフ、非正規雇用の身。いくら将来大使のスピーチライターを務めたいという夢があるにしたって、ここまで献身的な職員はそうそういないのではないか。自分で自分を褒めてやりたいくらいだ。
いずれにせよ、ここまで関わってしまった以上どうしようもない。できることは、これ以上のトラブルを避けるべく最善を尽くすだけだった。
「……羽多野さん」
トーマスは改めて低い声で切り出す。しかも日本語で。
「お願いですから、私やアリスと話した内容は全て忘れてください。何も聞かなかったことにしていただきたいんです。私の職場での安全のためにも」
和太鼓の話のみならず、練習メンバーにジェレミーや長尾がいることをばらしたと知られたら、栄とトーマスの信頼関係に決定的な亀裂が入りかねない。それだけは勘弁だった。
「心配しなくたって、話すつもりはないよ」
羽多野は受け合うが、この男の言葉はどこか軽薄で信用ならない。決して嫌な人間ではないのだが、自身の利益のためには他人との約束など簡単に反故にしてしまいそうな危うさがある。
――羽多野のそういう部分は生真面目すぎる栄とは正反対で、だからこそ二人が結びついたのかもしれない。それこそ、華やかな「陽キャ」美女のアリスと面白みのない自分が奇妙にもうまくいっているのと同じように。そんなことを思いながらトーマスは羽多野を牽制するために、さらに一歩踏み込んだ提案をする。
「ご承知のことと思いますが、私も谷口さんも和太鼓なんてやりたくてやってるわけじゃありません。仕事だから、仕方なしに参加しているんです。それを勘繰るのは大人げないと思います」
ど真ん中の正論に「確かに」と羽多野がうなずいたところで、トーマスは最後のひと押しとばかりに身を乗り出した。
「ジェレミーや長尾さんが必要以上に谷口さんに近寄らないように、私がちゃんと目を光らせておきますから。信用してください」
なんの因果でそこまでしてやらなければいけないのかという気持ちは大いにあるが、ともかく大切なのは平穏な職業生活。そしてトーマスとアリスにとっては大切な友人でもある二人の良好な関係維持。
トーマスの身を削るような申し出に、羽多野は口元に手を当ててから英語で「お目付役か、悪くはないな」とつぶやいた。突然かしこまった顔で日本語を話しはじめた恋人を胡散くさそうに見つめていたアリスも、それで状況を察したようだ。
「あら、トム。あなたがサカエをガードするの? 素敵じゃない!」
やはり彼女は何かを履き違えている……しかし誤解を訂正する気力ももはや残っていない。
自分がしっかり目配りすることと引き換えに、羽多野が栄に「スパイの密告」を打ち明けることは避けられる。荷は重いが、とりあえず厄介ごとを避ける算段がついたことにトーマス・カニンガムは心底安堵した。
ほっとしたところで、急に空腹を思い出す。夜の予定のことを考えると、何も知らない栄の視線が気になって昼も食べた気がしなかった。
改めてテーブルを見回すと、いかにも食欲をそそる赤い色のトムヤンクン、華やかな食用花のあしらわれたパパイヤのサラダ、ガーリックの芳しい匂いを漂わせる海老……目移りしながらもてらてらとした魅惑的な輝きに惹かれ、トーマスは甘辛いタレにマリネして焼いたチキンに手を伸ばした。
「それにしても、話を聞くいている限り、サカエって面倒くさいばかりで恋人としてそこまで魅力的とは思えないんだけど、どうしてそんなにモテるのかしらね」
一杯目のシンハービールを飲み終えて「コリアンダーのモヒート」という変わり種に手を出したアリスがつぶやく。それを言うなら君だって決して簡単な女性ではないけど、そういうところもまた魅力なんだ――と二人きりだったら口に出していたかもしれない。しかし礼儀正しい英国紳士としてトーマスはこの場では黙っておくことにした。
「それにしても和太鼓か。どんな顔して練習してるんだろうな」
本日の主目的であったであろう諜報活動は終えたにもかかわらず、羽多野はまだ和太鼓のことを考えているらしい。
どんな顔、と言われて思い出すのは死んだ魚のような目で太鼓のばちを握る栄の姿。ときおり周囲の視線を思い出すのかハッとしたように笑顔を浮かべるが、不本意な態度を完全には隠せていない。まあ、負けず劣らずトーマスの目も死んでいるのだろうが。
それに、栄が嫌がっているのは和太鼓だけではない。
「毎年、揃いの白い半被を着ることになっているんですけど、それも嫌みたいですね。Tシャツじゃダメなのかってぼやいていましたよ」
その点は、トーマスと栄で意見が異なる。和太鼓の演奏自体には後ろ向きなトーマスだが、実は半被を着るのは少しだけ楽しみにしているのだ。栄は剣道も上級レベルだと聞いている。日本の伝統的な衣装など軽やかに着こなしそうなのに、一体何が不満なのか。
どうやら羽多野もこの点についてはトーマスと同意見らしい。
「半被? いいじゃないか」
――いや、同意見というときっと語弊がある。さも興味深そうにニヤリと笑って、トーマスに向かってスマートフォンをちらりと持ち上げる。
「こっそり写真撮って、送ってよ」
さらには「Happyを着るってどういうこと?」と興味津々のアリスに半被の写真を検索して見せてやる始末だ。
「あら、素敵じゃない。栄ったら何が嫌なのかしら。代わりに私が着たいくらい。日本の民族衣装ってクールよね」
自分と恋人が揃いの半被を着ているところを想像し、思わず「悪くない」と頬を緩めたトーマスは、羽多野の視線を感じて恥ずかしさに目を伏せた。
「二人で着るなら半被よりも……」
羽多野はトーマスをからかうような真似はせず、再度スマートフォンを操作してから再度画面をこちらに示す。
「浴衣の方がいいんじゃないか。冬ならもちろん着物でも。日本の観光地に行けばいくらでも着付けサービスがあるし、最近は外国人向けに着丈の長いものも多いから、アリスくらい背が高くても合うものはあるだろう」
朝顔のあしらわれた美しい浴衣の写真に、半被を見たとき以上にアリスの目は輝いた。
「素敵! 着てみたい! ねえトーマス。やっぱり新婚旅行は絶対に日本に行きましょう」
近い将来実現すると信じたいウェディングとハネムーンについて夢が広がったのだから、羽多野の下心満載のお誘いはこちらにもいくらかのメリットがあったのかもしれない。
あとは、レセプション当日までなんとかやり過ごすだけ。厄介な和太鼓演奏を終えれば楽しい夏の休暇シーズンだ。本物の夏が来る前にすっかり気疲れしてしまいそうなことは、この際考えないようにしよう。