Summer Dressing(7.栄)

「……はあ」

 Tシャツとスウェットを忌々しい気持ちで洗濯機に投げ込んでから、栄は大きなため息を吐いた。

 

 大使館職員としての半ば義務である、と久保村に退路を断たれるかたちで、和太鼓チームのメンバーになって以来、週に二度ほどのペースで業務終了後に練習に参加している。

 人様の前で演奏することへの羞恥心を別にすれば、和太鼓自体は思ったほど悪いものではない。体の軸は保った上で全身の筋肉をしっかり使わないといい音が出ないので、一時間少々の練習を終えれば程よい疲労を感じるある種のエクササイズだ。

 そんなこんなで太鼓の練習だけならこんなにも憂鬱になる必要はないのだが、問題は周囲の顔ぶれだ。

「さすが谷口さん、筋がいいです!」

 たまにジムで見かける、やたら爽やかでポジティブで主婦層からの人気が高いインストラクターのノリで声をかけてくるのは長尾だ。

「さすがって、別に太鼓くらいで……」

 おだてに弱い栄だが、長尾に関しては褒め言葉を素直に受け止めることができない。というか下手に話に乗るとぐいぐい距離を詰められそうで、一歩引いた対応をしてしまう。

 だが、昨年も和太鼓チームに参加して、さらには留学時代にも日本人グループで和太鼓演奏をやったことがあるという長尾は親切心から栄に絡むことをやめない。

「いえいえ、谷口さんみたいにすぐにいい音が出せる人、滅多にいませんよ。あ、体感とかリズム感とか、もしかしたら剣道と共通点あるんですかね? だからすぐコツを掴めたとか」

「……それはさすがに、ないかと思いますけど」

 赴任一年目の職員の義務、と言われて参加したのに、二年目の長尾がいるのも計算外だった。

 初回の練習に集まった顔ぶれに長尾の姿をみつけた栄は驚いた。赴任一年目の職員の義務と言われて参加したのに、なぜ二年目の長尾がいるのだろう。遠回しに疑問を伝えると、なぜか少しはにかんだように長尾は言った。

「……谷口さんも参加するって聞いたものですから」

 正直、勘弁してくれと思った。

 さらに悪質なのは、長尾との気まずいやり取りが終わった後で擦り寄ってきたジェレミーだ。

「あの人、ミスター・ナガオでしたっけ? たまに栄さんのこと廊下で待ち伏せたり、目で追ったりしていますよね」

「は?」

「だから、太鼓のメンバー集めに回ったときに、栄さんも参加しますよって言ってみたんです。おかげで楽に人数を確保することができましたよ」

 廊下で待ち伏せ? 目で追う? 栄としてはまったく心当たりはない話だが、長尾の振る舞いはジェレミーにすらそんなふうに見えるのだろうか。

 羽多野の下衆の勘繰りのせいで、ただでさえ長尾への態度に悩んでいるところ、栄の苦悩は深まるばかりだった。何より、「半被で和太鼓なんて恥ずかしい」+「ジェレミーも関係している」という理由だけも十分すぎるのに、さらに長尾の存在が加わったせいで、絶対に羽多野にはレセプションの話はできなくなった。

 自信家で余裕ぶっているくせに、妙に疑り深く嫉妬深いところのある男だ、警戒している相手二人が一緒だと知れば、まずは和太鼓チームへの参加を反対する。さらに、仕事だからキャンセルはできないと栄が言い張ったなら――現場を確認するためレセプション会場に行くと言い出しかねない。

 レセプションは関係者限定、とはいえそれなりに幅広い招待客に声をかけるだろう。もちろん羽多野と面識のある大使館職員はトーマスくらいだし、自分という存在がある以上トーマスが栄に無断で羽多野の名前をインビテーションリストに加えるようなことはないと信じているが。

 いずれにせよ、羽多野には言うまい。絶対にこのことは言うまい。栄は決意していた。

 幸にして今のところ羽多野は、栄の極秘ミッションについては何も気づいていないようだ。帰宅の遅さをチクリとやられたことが一度くらいはあった気がするが、「急ぎの仕事」という理由に納得したのかその後は何も言わなくなった。

 

 

 

「お疲れ、水でも飲む?」

 風呂上がりに洗濯機のスイッチを入れて、リビングに行くと羽多野が労いの言葉をかけてくる。和太鼓の練習の後はTシャツやスウェットといった、水泳専門の栄がジムでは使わないタイプの洗濯物が発生する。だからここのところ洗濯当番は積極的に引き受けることにしていた。

「もらいます」

 言いながらスマホを開いて、フォトストレージのオンラインサービスからの警告メールが溜まっていることを思い出した。

 ――もうすぐ容量がいっぱいになります。

 こちらに来てから、大使館関係のイベントや視察で写真を撮ることが増えた。機密というレベルでもないオープンなイベントだと私物のスマートフォンを使うこともあり、撮った写真は連携先のオンラインストレージに保存される。そのせいでいつの間にか、無料の容量制限の上限が近づいていたのだ。

 一ヶ月ほど前から警告メールがたびたびきているが、忙しさを理由になかなか対処ができていなかった。いいかげん手をつけるべきだろうか、栄はラップトップをテーブルに広げた。

「どうした? アルバムなんか」

 水のボトルを手渡しながら、羽多野が言う。彼の手にはビール瓶。うらやましいが、ここはがまんすることにする。

「容量上限が近いから、整理しようと思って」

「めんどくさ。大した金額じゃあるまいし、課金すれば?」

 いかにも羽多野らしいアイデアだが、栄の意見は異なっている。

「そういうことしてると際限なくなっちゃいます。仕事の写真とかほとんどいらないのばかりだし。捨てるいい機会だと思って。っていうか覗かないでくださいね」

 しっしっと手を振って羽多野を追い払いながら、スクロールバーを動かし写真を確認していく。最近は仕事、仕事、たまに食べ物。少し遡ると、渡英当初で物珍しかったのだろう、ロンドンの風景写真がずらりと並ぶ。

 そして――突然現れた桜の写真に、栄はふと手を止める。

 これは確か、ストレスで倒れて休職していたときに尚人と行った花見。お互いに気持ちが変わってしまったことを認められず、やり直しを模索していた頃だ。

 なんでこんな写真を撮ったのだろう。ずっと昔に花見をしたときの写真を尚人が待ち受けにしているのを見て嬉しかったから。それとも、並んで歩くのに話題が見つからず、気まずさをごまかすためだったか。

 必死に悩んでいたのに、もはや自分が何を考えていたのかも思い出せない。その事実に気が抜ける。一体あの頃の自分と尚人はどんなひどい顔を突き合わせて日々を過ごしていたのだろう。写真の一枚でもあれば、笑い話のネタにでもなったかもしれない。

 栄の仕事量と反比例するように、尚人と生活していた頃の写真は少ない。一緒に暮らしているくせに特別な関係であると思われたくなくて写真を避けていたのも理由のひとつだ。

 実際、長い時間を過ごしたにもかかわらず、尚人の写っている写真は数えるほどしかない。旅行に出かけたときも、栄はいつだって風景写真ばかりを撮っていた。「人物写真は撮るのも写るのも苦手で」などと言い訳をした記憶があるが、き尚人は栄の真意に気づいていただろう。何度か横顔や後ろ姿をこっそり撮られていることに気づかないふりをした。尚人はあの写真をもう捨ててしまっただろうか。

 記憶力はいい方だと自負していたが、今となっては思い出せないことばかり。もっと写真や動画を撮っておけばよかったかもしれない、いや、撮らなくてよかった。そんなもの溜め込んでいたなら、きっと処分に困っていた。

 そんなことを考えながら画面を遡ると、突然袴に防具をつけた自分の姿が現れた。と同時に視線を感じて振り返る。

「ちょっと、なに見てるんですか!」

 追い払ったはずの羽多野が、いつの間にか画面を覗き込んでいた。

 一体いつから? 心臓が激しく打つ。まさか尚人と暮らしていた頃の写真も見られた?

 何か言われるのではないかと警戒するが、羽多野は剣道の装束を身につけた栄に目を輝かせるだけだった。

「もったいぶって俺には袴姿見せてくれないけど、似合うじゃないか。いや、やっぱりいいな。非日常というか色気があるというか」

「……そういう変な見方をされるから、見せたくないんです」

 重い防具を持って地下鉄に乗るのも面倒だが、それ以上に羽多野の反応が鬱陶しいせいで、結局こっちで剣道にあまり参加できていない。

 それに――剣道をやるとどうしたって青あざができる。痛々しい打身に顔をしかめつつも倒錯した興奮を覚えるらしき羽多野と、それに対して反応してしまう自分も怖いのだ。

 駄目だ、羽多野がいるときに写真の整理なんて考えたのが愚かだった。おちょくられ、邪魔をされるだけだ。栄は早くも写真整理をあきらめてラップトップの画面を閉じる。

「どっちかっていうとバタくさい顔してるけど、和服も似合うよなあ」

 隠された写真の名残を惜しむかのようにまじまじと顔を見られると、恥ずかしくてたまらない。第一、こんな言い方は褒められているのかバカにされているのかわからないではないか。

 栄は羽多野の視線から顔を背けて、小さく吐き捨てる。

「そんなに好きなら、自分で着ればいいじゃないですか」

 曰く「バタくさい」栄と違って、塩系の顔立ちをした羽多野の方が和装は似合うはずだ。栄としては嫌味のつもりだったが、意外にも羽多野ははっとしたように考えこんだ。

「そういえば、ないな」

「え?」

「和装の思い出ってほとんどない」

 言われてみると、大人になっても武道を続けている栄が特殊なだけで、普通は今どき和装の機会など稀なのかもしれない。七五三と――それ以外で男が和装といえば、成人式か結婚式。

 羽多野は成人式の頃は日本にいなかったはずだし、結婚式がどうだったかなんて聞きたくはない。仮に羽織袴だったとしてもノーカウントだ。

「……着たいんですか?」

 興味本位にきいてみると、羽多野は薄く笑って首を振った。

「青春時代に浴衣でお祭りデートくらいは経験しておいてもよかった気がするけど、今更だな。っていうか君は、そういうのはなかった?」

「ないです」

 男カップルで浴衣でお祭りなんて、そんなこと栄がするはずないのに意地の悪い質問だ。冷たく答えると羽多野はさらに畳み掛ける。

「祭りはなくても、温泉旅館とか」

 やっぱりさっきの写真、尚人との生活のところから見ていたに違いない。苦々しい気持ちで、しかし栄はふと思う。

 羽多野の浴衣姿か。一度くらい見てみたって悪くない。似合いそうな気がするし……もし似合わなければ笑ってやるだけだ。いや、もしかしたらこんなことを考えてしまうのは、和太鼓の件の後ろめたさを無意識に埋め合わせようとしているのかもしれない。

「いいですよ」

 栄の言葉に、羽多野は首をかしげた。

「いいって?」

「帰国したら旅館くらい奢りますよ。外で着るのはごめんですが、旅館の浴衣くらいなら、いいんじゃないですか」

 人目につかない個室離れで、二人で浴衣を着るくらいなら。なんなら写真の一枚くらいは撮ったっていいかもしれない。だってこのアルバムには羽多野の写真が全くないから。

 栄の申し出はきっと想定外だったのだろう。驚き、喜び――それから照れ隠しのように羽多野は軽く「いいね」と返す。

「じゃあ、そのときは浴衣で卓球対決だな」

「ちょっと、俺をバカにしないでください。卓球セットがあるような旅館ごめんですよ」