Summer Dressing(13.おまけ)

 広報担当者相手に訪問の予約は取ってあるが、打ち合わせの前にジェレミーは和太鼓チームの参加者に承認をもらいに回ることにしていた。

 昨年のイベント以降に赴任した若手――つまり、和太鼓チーム参加候補者のリストはすでに準備してもらっていた。去年の夏は若手の異動が少なめだったので、人数も例年ほどは確保できていないのだという。

 だが、そんなことはジェレミーにとってどうでもいいことだ。とりあえずは栄をからかう口実ができれば満足だし、こう見えて交渉ごとは得意だ。メンバーをかき集めるくらいどうとだってなる。

 予想どおり、谷口栄はまずはジェレミーの訪問に困惑した表情を見せた。

 困惑というのはあくまで表向きの表情で、内心では彼が心底迷惑がっているのはわかっている。わかっていても、ジェレミーが無邪気を装っている限りは拒絶できないのが栄だ。特にこんなふうに人目のある場所では、彼は決して礼節を崩すことはない。

 落ち着かない様子の栄に「もうすぐ打ち合わせが」と耳打ちするのは、秘書的な役割を担っている英国人。確かトーマスと言ったっけ。

 ジェレミーはこの男のことは、あまり好きではない。そもそもノンケの白人男など興味関心の埒外だし、ケンブリッジで学んだ流麗な日本語でエリート日本人に溶け込んでいるのも何だか鼻につく。さらにいえば、トーマスは鼻がきく。栄がジェレミーの来訪を歓迎していない空気を感じて、外面を気にする彼の代わりに、打ち合わせという口実で追い出しにかかっているのだ。

 大使館に来るなら、あの英国人がいないときの方が良さそうだ。そう思ってジェレミーはひとまず今日は、和太鼓チーム参加の承諾をもらうだけにしておこうと目標を下げた。

「えっと、俺こういうのは……」

 和太鼓チームについて説明を受けた栄は硬直していた。

 嫌がられるのは織り込み済みだ。というか、それなりの立場のある日本人外交官やビジネスマンの誰が好き好んで道化を演じたがるだろうか。

 加えて、和太鼓に参加するということはしばらく定期的にジェレミーと顔を合わせることになるのだ。「二人きりでなければ」問題はないとはいえ、栄とあの恋人の間の喧嘩の種になる可能性は十分にある。ジェレミーにとっては実に面白い。でも、栄にとってはまったく面白くないのは当然だ。

 さて、どう口説き落とそうか。

 しかしそこに、意外な場所から援軍が現れた。栄の同室で仕事をしているハンプティ・ダンプティのような小太りの男。失礼ながらジェレミーにとっては興味の埒外にいるので名前は覚えていない人物が「和太鼓チーム経験者」として、これは職務上の義務であると暗に栄を諭しにかかったのだ。

 英国企業にも上下関係はあるが、日本社会におけるそれはより強固だ。軍隊や、昔の寄宿学校を思わせるような「ルール及び年長者の命令は絶対」といった空気を幾らか弱めた程度のものがオフィスにも存在している。そして栄は見たところ、そういったプレッシャーには人一倍弱そうだ。

 栄はしばらく往生際の悪い態度で渋り続けていたが、最後の頼みの綱であるトーマスからもこの場を切り抜ける名案は出てこなかったことから白旗をあげた。せめてもの同情心からか、トーマスという余計な参加者もついてきたが――メンバー探しの手間が省けたので、よしとするか。

 セックスも、仕事も同じだ。あくまで好感度重視で低姿勢。ちょっとなめられるくらいでいい。そうすれば相手は気を抜くし、ジェレミーを無下に扱うことに罪悪感を抱く。そこで生まれた隙に乗じて、こちらは効率よく目的を果たしていく。田舎町で容姿にもその他取り立てて才能にも恵まれることなく生まれ育ったジェレミーにとっての処世術だ。

 さて、あまりしつこくして本格的に栄に嫌われるのは得策ではない。和太鼓チームへの参加という今日の目的は遂げたところでジェレミーはあっさりと経済部を後にした。

 日本人男性を好むジェレミーにとって日本大使館は楽しい場所だ。しかし平均的な企業と比べればやや年齢層が高いのと、家族帯同者が多いのはもったいない。

 保守的な社会では、自身の志向に蓋をしたままで結婚し子供を保つ無自覚なお仲間も多い。決して他人の円満な家庭を壊そうとは思わないが、異国での寂しい単身赴任中にちょっとした火遊びに誘うくらいは許されるのではないか。だが幸か不幸かそんな機会はまだ訪れていない。

 数人の若手職員に声をかけて回り、首尾は上々。「赴任一年目の人は参加するのが慣例だ」というのは有効な誘い文句だし、疑わしい顔をする相手には、すでに入手した栄とトーマスの参加受諾をちらつかせれば「それなら仕方ないか」となる。

 一通りリストに載っている顔ぶれの了解を取り付けたところで、打ち合わせ開始まではまだ少し時間があった。

 大使館の新任者が少なめであることに加え、今年は企業からの参加も低調だ。追加で何人か声をかけておきたい。と思ったところで、手洗いから出てくる人影が目に入る。

「あ……」

 広い肩幅に、伸びた背筋。一目見ただけで素人ではないとわかる体つきと身のこなしには覚えがあった。暇つぶしにはちょうどいい、ジェレミーは早足でその男に駆け寄る。

「おはようございます、長尾さん」

 長尾――日本の防衛省から大使館に出向している男のことは、大使館に足を運ぶようになった当初からたまに見かけていた。

 嫌いなタイプというわけではない。少なくとも経済部のハンプティ・ダンプティと比べればずっといい。ただ、当時のジェレミーは本気で谷口栄を落としにかかっていたので、長尾のことは「栄の周りをちょろちょろしている有象無象」だと思っていたのだ。

 ちなみに長尾の方もジェレミーを警戒すべき人間だと思っていたようで、少し前に直接声をかけられた。

 あのトーマスという英国人が事務的に淡々と栄にとって好まざる人物を遠ざけようとしてくるのとは対照的に、長尾はみっともないほど私情丸出しに栄との関係を問い詰めてきた。護衛役気取りで警戒心あらわに声をかけてくるものだから、ジェレミーもつい意地の悪い返事をしてしまった。

「あ! あ、あなた……またいる……じゃなくて、なぜここに」

 あのとき栄に片想いしていることを看破したからか、ジェレミーに気づいた長尾の声には狼狽と警戒が混ざる。

「栄さんにお話したいことがあったので」

 もちろん本日の訪問の主目的は打ち合わせなのだが、こう言えば長尾が面白い反応をすることはわかっていた。

「さ、さか、谷口さん!? 一体何の用が?」

 案の定、長尾は前のめりになる。国防を担う人間がこんなに単純で良いのかと心配になるくらいだ。第一、プライベートな用件ならばわざわざ大使館なんかに来ないで、外で会うに決まっているではないか。

「いえ、折り入ってお願いがあって」

「折り入ってって、そんな意味深な!」

 ジェレミーが少し含みのある物言いをしただけであからさまに顔を曇らせる、こういうわかりやすいタイプを誠実だと評価する人間もいるだろう。しかし長尾が憧れて止まない谷口栄はもっと複雑で、もっと厄介で、どう考えてもこの男の手には負えない。

 ジェレミーが出会ってほんの数週間で見破ったレベルのことにも気づかず、勝ち目のない片思いに一年ほども身を焦がしているおめでたい長尾が少しだけ気の毒になって、今日のところはあっさり種明かしをすることにした。

「ほら、夏祭りの前夜祭の和太鼓。あれのリクルーティングに来たんです。今年は私の会社が幹事になってますので」

 ひらひらと目の前で案内チラシを振ってみせると、まずは安堵。

「ああ、和太鼓か。そういえば、もうそんな季節ですね」

 少し懐かしそうな顔をするのは、長尾も昨年だか一昨年だか、和太鼓チームに参加したからなのだろう。それから「そうかあ、今年は谷口さんが参加するんですね」などとつぶやく。きっと、半被姿で和太鼓を叩く栄の姿を妄想しているのだろう、頬がわずかに緩んでいる。

 栄さん、パートナーがいますよ。しかもとっておきに執着心が強そうな――と喉元まで出かかった言葉を、ジェレミーは飲み込んだ。

 自分には栄とあの男のために、邪魔者を排除してやる筋合いなどない。それどころか、ほんの小さなものだろうが火種は多ければ多いほど面白いし、ジェレミーにも思わぬチャンスが転がり込むかもしれない。

「実は、メンバーが足りなくて困っているんです。長尾さんも和太鼓どうですか?」

 ジェレミーの誘いに、長尾は一も二もなく乗ってきた。

(続きます)