Xでアンケートをとったら反応いただけたのでその気になった「もしも京都に行ったら」SSです。栄×尚人、未生×尚人、羽多野×栄と全部書きたい……けどまずは久しぶりの栄×尚人から。
栄
「そろそろ終電なんじゃない?」
レポートを書いているふりをして、頭の中は完全に別のことを考えていた谷口栄の耳に、相良尚人の控えめな声が飛び込んできた。
「え? もうそんな時間?」
驚いたふりをして顔を上げるが、そんなことわかっている。それどころかもう何時間も前から、なんなら早い夕食を終えて尚人の部屋にやってきたときから、栄の頭の中はここに居座るタイムリミットと――それを打ち破るか否かの葛藤でいっぱいだったのだから。
いっそお互い課題に夢中になって「うっかり」終電を逃してしまえば、思い切りがつくのかもしれない。だが几帳面で真面目で、何より栄への配慮を欠かさない尚人に、その「うっかり」はありえないのだ。
「たに……栄は、明日も一限から講義だって言ってたよね」
それどころか、追い打ちをかけるように明日の朝の予定までリマインドしてくれる。
「うん、まあ、そうだったっけ」
本人には一切の悪気がないどころか、純粋に栄の学業を心配してくれているのだろうが、栄の気持ちは複雑だ。
入学した大学で偶然同じ講義を取っていた、というのが出会いのきっかけだった。いくら国内最高峰の大学とはいえ、学生の大半は熾烈な受験戦争を勝ち抜いた解放感に酔いしれる春。目立たない後方の席から埋まっていく大教室で、前の方に座って真剣にノートを取っている姿が栄の目を引いた。
いつもの席が空いていることに気づいて、具合でも悪いのかと気になったのが梅雨の頃だったか。面識もない、おそらく科類も違う相手に声を掛けるには多少の勇気が必要だったが、いつも見知らぬ場所に迷いこんだかのように不安そうな彼のことが気がかりでたまらなかった。
ノートを貸して、言葉をかわすようになり、一緒に出かけるようになり、そのうち尚人がひとりで暮らす学生用マンションに出入りするようになった。冷房を入れても西日で汗ばむこの部屋で、指先が触れ、友人でなくなるまでには実に一年以上の時間を要した。
恋人になって間もなく、栄は尚人に呼び名を改めて欲しいと告げた。名字にくん付けなんてよそよそしい呼び名ではなく、もっと親しく呼び合いたい。栄の言葉に照れくさそうに、しかし嬉しそうにうなずいた尚人だったが、まだ新しい呼び方に完全に馴染んだとは言えない。
だが、自分の名を呼ぶたび尚人が微かなはにかみを見せるのも、実のところ嫌ではない。きっとそのうち「栄」と呼ぶことにも呼ばれることにも完全に馴染んで、名前ひとつに特別な感情を抱いていたことすら忘れてしまうのだろう。この初々しさを満喫できるのも今だけだと思えば、もどかしさにすら胸をくすぐられた、
栄にとって、尚人は初めての恋人だ。尚人にとっての栄も、もちろんそうだろう。はっきりと言葉で確かめたことはないが、見るからに奥手な尚人に恋愛経験などあろうはずがない。栄にとって初めてのことは、尚人にとっても初めてのこと。そう考えるのは自然なことだし――だとすれば、世慣れた自分が何もかもリードするのもまた、自然なことだ。
手に触れて、唇に触れて、名前を呼んで。気持ちを確かめ合った高揚感から、そこまではトントン拍子に進んだ。問題はその先だ。
大学生で、恋人同士。まさか唇に触れるだけのキスが終着点というわけではあるまい。だが、これまでも友人としてふたりで過ごすことが多かっただけに、いかにして甘い雰囲気に持ち込み、「そういう行為」に持ち込めばいいのか。栄は、いかにして自分たちの関係を次の段階に持っていくかに頭を悩ませていた。
「じゃあ、そろそろ帰るよ」
理由をつけてもう少し居座ろうかと思ったが、やめておく。これ以上長居しても今日の自分は何もできないだろう。
「駅まで送ろうか?」
玄関先で尚人にきかれて、少し迷って首を左右に振る。本音を言えば、電車に乗るつもりはない。ここから駅まで距離があるし、栄の自宅までは乗り換えも必要になる。だったらタクシーに乗った方が早い。だが、慎ましい生活を送る尚人にそのことを告げて、浪費家だと思われたくなかった。
「いや、いいよ。ナオだって忙しいんだし。明日はバイトだっけ?」
「うん。夕方から」
「バイトの前でも後でも、ちょっとでも会えそうなら連絡ちょうだい」
甘く囁くと尚人が嬉しそうに表情を緩める。その瞬間を見逃さず、頬に手を伸ばすと顔を近づけ、唇を軽く押しつけた。
「じゃあ、おやすみ」
タイミングを計るのも、実際に唇を寄せるのも照れくさい。やり方が正解なのか自信もないから、キスは一瞬。あとは視線も合わせず、ドアを閉めて、栄は大きく息を吐いた。
大通りに出て少し歩いたところで流しのタクシーを拾った。
尚人の部屋は、京王線の駅からも少し距離のある、渋谷区の外れのマンションだ。一、二年のほとんどを過ごす駒場のキャンパスまでは、自転車では十五分ほど。一方で直通の電車がないので雨の日の通学は不便だ。なぜもっと便利な場所に住まないのかと無邪気にたずねると、井の頭線沿線は家賃が高く、予算と見合わなかったのだという答えが返ってきた。
尚人の部屋は、栄がこれまでフィクションの世界でしか見たことのなかった、典型的な「取り立てて裕福ではない上京大学生の生活」そのものだった。低層マンションの廊下には数メートルおきにドアが並んでいて、内部は二十平米ほどの細長い居住スペースに、生活に必要なひととおりが揃っている。きっとすべての部屋が同じ、うなぎの寝床のような間取りなのだろう。
男のひとり暮らしは散らかりがちだと聞くが、尚人の部屋は質素ながらも清潔で整頓されており、潔癖気味の栄にとっても居心地は悪くない。自宅では人間工学に基づいて設計された、疲労や腰痛を防ぐといわれる高級チェアを使っている栄にとって、申し訳程度のクッションだけで床に直座りしてローテーブルで勉強するのは苦行ではあるが、尚人と過ごすためだと思えば我慢もできた。
週に何度かは尚人の部屋を訪れて長い時間を過ごすから、キスより先に進むのだとすればあの部屋で押し倒すのが一番簡単だし、自然であることはわかっている。
だが――本当にそれでいいのだろうか。
尚人の経済状態を貶したいわけではないが、狭い部屋の中で一番存在感を発揮しているシングルベッドはどう見ても安普請で、しかも組み立て式。あの上に男二人の体重……しかもそれなりの「動き」を伴うとすれば、強度は足りているだろうか。マンションとはいえ部屋の壁や床だって防音性は心許ない。セックスの音がどれほど響くものかはわからないが、隣近所に自分の性生活が筒抜けになることを想像すると吐き気がする。
何よりこれは、自分と尚人にとって初めての夜だ。その特別な夜を、ベッドの狭さや耐久性、壁の薄さを気にしながら……というのはロマンティックからほど遠い気がする。
いろいろと調べて知識を蓄えてはいるが、初めて性行為を実践するのだから栄も尚人もきっと緊張する。余計なことに気を取られて失敗しようものなら、一生モノのトラウマ確実だ。
やっぱり、あの部屋は駄目だ。かといって家族と暮らす栄の自宅というのはもっとあり得ない。一体どうしたものだろう。触れ合った唇の温度を思い出して、甘くもどかしい難問に向き合いながら栄はぼんやりとタクシーの車窓を眺めた。
甲州街道を走るタクシーはやがて信号停車する。いつしか周囲はギラギラと眩しい新宿の街並み。ふと視線を上に向けると巨大なデジタルサイネージに鮮やかな紅葉が映し出されていた。続いて、見覚えのあるコピーが浮かび上がる。
――そうだ 京都、いこう。