ようやく「並んで歩く」ことへのお許しを得た羽多野は、遅いランチを済ませてから栄を誘って買い物に出かけた。ロンドンでは一緒に出掛ける機会もあったが、自身の生活圏で栄と肩を並べて歩くのだと思えば感慨もひとしおだった。
「新宿でいいの? 君は反対方向の方が慣れてそうだけど」
四ツ谷駅で思っていたのと逆のホームに向かう栄を見て羽多野はくびを傾げる。栄のようなタイプは極端な話、山の手以外を東京とは見なさない印象があったからだ。世田谷は農家の土地だとか、ベイエリアなどただの埋立地だとか、本気で考えていたとしても不思議はない。
一方の「新都心」新宿はといえば伝統ある店や洗練された店ももちろん存在するが、全体的には猥雑な印象を受ける。所要時間の差は多少あるものの銀座や丸の内へも一本で行けるにも関わらず栄が先に立って丸の内線荻窪方面ホームに歩いていくのは奇妙な気がした。そういえば今回は宿泊も西新宿だと言っていた。
「いいんです、新宿で。というか本当は駅ビルのスーパーでもいいくらいです」
きっぱりと言い切られてどういう風の吹き回しかと問い詰めれば、何のことはない職場のある霞が関の方向には行きたくないのだという。それどころかせっかくの日本での初デートは「定時になったら電車に知り合いが乗ってくるかも」と焦る栄のせいで駆け足に終わった。
「……いつもそんなにビクビクしてたのか?」
呆れ半分に聞いてみる。羽多野なりに控えめな言い方をしたのは、せっかく手の中に落ちてきてくれた栄に――しかも昨日はかなりの無茶を強いてしまったわけだし――怒らせて、気が変わったなどと言われるのが怖いからだ。
栄が同性愛者であることを隠したがっているのは理解するが、前の恋人とは都内で同棲していたはずだ。それに、こういう言い方も何だが、栄のような「優良物件」がこの年になっても独身でいる時点で何らかの疑念を抱かれたって不思議はない。もちろん面倒な性格からして同性愛者でなかったとしても栄の結婚へのハードルは高いに決まっているのだが、極めて外面の良い王子様なので周囲は彼の抱える問題には気付かないだろう。――などと正直に言えばきっと烈火の如く怒り出すだろうが。
栄は不機嫌そうに顔をしかめながら答える。
「ナオとは出かけてましたよ。大学時代からの親しい友人ですから、あなたといるところを人に見られるのはわけが違います」
それから「なんてったって旧利害関係者じゃないですか」と付け加える。要するにスキャンダルで失職した元議員秘書と一緒にいるところを知り合いに見られたくないというのだ。今の羽多野は政治とは関係ないただの無職だし、議員や秘書と官僚の夫婦やカップルだって皆無ではない。何より笠井志郎と羽多野が連日マスコミを賑わせていたあの頃からはもう一年以上が経っている。栄の心配はオーバーなのではないかと思うが、口に出すのは控えた。
短いデートを終えて帰る道すがら、羽多野の顔に物足りない気持ちが滲み出ていたのか、栄が気まずそうにつぶやいた。
「別に、ここじゃなければ。それに……」
栄が在英国日本大使館の任期を終えて日本に戻るのは二年半以上先のことになる。もちろんそこまで関係が続いていればの話ではあるが、栄が日本に戻るのならば羽多野だって同じだ。――さすがにその頃には羽多野の「悪徳議員秘書」としての過去も時効になっているだろう。
「そうだな、もうちょっと時間が必要なのかもしれない」
羽多野はそう返事をしてチェスターコートのポケットに差し込まれた栄の手にちらりと視線をやる。だが今はその手を握ることは難しい。冬の空はすでに薄闇だが、真っ暗ではないし人通りもある。羽多野は平気でも栄は気にするだろう。
夜にはワインを飲みながら食卓を囲んだ。向かい合って、くだらない近況について話をして、昨日の嵐が嘘のように穏やかに時間が過ぎた。羽多野が帰国したおかげで栄が代わりにコンシェルジュの女性の蜘蛛の巣払いを手伝う羽目になったのだと言われて、恐縮するしかなかった。
栄は決して酒に弱い方ではないが、ワインを飲むうちに表情はいくらか和らぐ。そんな姿を見て羽多野は微かな昂りを感じた。
これでもロンドンではそれなりに理性を働かせていたつもりだ。栄も羽多野のことを憎からず思っていると知った今では、毎日だって昼夜構わず学生のように体を重ねたいのが本音だ。だが栄の心や体はきっと、羽多野の年甲斐のない欲望に追いつかないだろう。
実のところ美容院の帰りにコンドームもローションも買ってきて、密かに寝室のキャビネットに格納してあるが――羽多野は我慢のきかない若い男ではない。栄のような面倒な男をまるごと受け止める覚悟を持てるのは自分だけだという自負もあるが、一方で羽多野にとっても栄は唯一無二の存在だ。人生はまだ長い。あわよくば今晩もという目論見は腹の奥に抱きつつ、羽多野は焦るなと自分自身に言い聞かせた。
昨晩あれだけ眠ったにも関わらず、時差ぼけと疲れのせいか栄は十時を過ぎるあたりで眠そうなそぶりを見せはじめた。羽多野は潔癖な彼に風呂の順番を譲り、残念ながら今日は羽多野の服ではなく持参した寝間着に身を包んでいる栄と入れ替わりで風呂場に向かった。そして、浴槽の縁に見覚えのある黄色い塊を見つける。
羽多野がロンドンの土産屋で衛兵コスチュームのラバーダックを買ったのはほんの気まぐれだった。いや、「観光をしている」と言いつつ元義父の病院に通い迷い続けていることが後ろめたく、せめて栄に何らかの観光の証を示したかったのかもしれない。
女子どもの喜ぶような玩具に喜んでもらえるとは思わなかったが、案の定栄はそれを異物とみなし、数日にわたって「ダッキー」と名付けたそれを風呂場に持ち込む羽多野と排除する栄の無言の攻防が繰り広げられた。しかし導火線が短い一方で持久力に欠ける栄は結局羽多野のしつこさに負けた。それどころか、以降はむしろアヒルとの入浴を楽しんでいるようですらあった。だから、ロンドンを去る時にもわざとあれだけは置いてきたのだ。――栄が寂しくならないように。
手に取ると、羽多野の部屋の浴槽に鎮座しているのは衛兵コスチュームではなくロンドン警視庁の制服を着たアヒルだ。こんな意趣返しをするセンスがあるのだと驚く反面、あの栄がどんな顔でこの人形をレジに持って行ったのかと思えば愉快でもあった。
「お土産ありがとう」
「何のことですか?」
風呂上りに羽多野が礼を言うと、ソファで眠そうな顔をしている栄はしらばっくれた。先にベッドに行ってもよかったのに、気を遣っているのかもしれない。
「照れなくていいのに。でもここに置いていっていいのか? ダッキーの友達にしようと思って買ったんだろう」
「違いますよ。名前までつけて可愛がっていたのに、羽多野さんが寂しいだろうと思って」
澄ました顔をした栄の耳元が赤らんでいるのを見て、羽多野は微笑みを浮かべて「そりゃどうも」と感謝の弁を述べた。まあ、どっちがどこにあろうと問題はない。どうせしばらく経てば二匹セットでロンドンの浴槽に浮かぶことになるのだから。
風呂上りの喉の渇きを癒そうと冷蔵庫を開いたところで、羽多野の目に白い紙箱が飛び込んでくる。美容院の帰りに買ってきたケーキは今日中に食べるように言われていたが、食事や飲酒やですっかり忘れていた。
「ケーキ、忘れてた。劣化するから本日中って言われてたんだけど」
羽多野の声に、栄が振り返る。
「え、でも……こんな時間」
時計はすでに十一時過ぎ。普段の栄ならば夜中の甘いものなど断固断るのだろうが、「今日だけ」と言いつつ皿の準備を始めるのは、彼は彼なりに蜜月のムードを感じているのかもしれない。
栄が紅茶の準備をする間に、羽多野は皿にケーキを出す。透明のグラスに入ったシンプルなプリンよりは、クリームの絞り方も上品なモンブランの方が栄のお好みだろう。何しろ値段だって倍以上違うのだ。
「紅茶入りましたよ」
ティーカップなどという洒落たものはないので、紅茶はマグカップで。テーブルで向かい合い、栄は彼の前に置かれたモンブランと羽多野の前にあるプリンを怪訝な顔で見比べた。てっきり気を遣っているのだと思った羽多野は遠慮するなと栄に告げた。
「それ最高級の丹波和栗使ってて、期間限定しかも一日十個の限定。昼すぎで買えるの、かなり運がいいんだってさ」
「へえ……」
栄の反応が芳しくないのはきっと照れているのだろう。こういうときはもう一押し。
「栗好き?」
「まあ、好きです」
「じゃあ遠慮せずに食えよ」
そして羽多野は、先に自分が食べれば栄もケーキに手をつけやすくなるだろうと質素なプリンにスプーンを差し込む。その瞬間、栄が小さく「あっ」と言って手を伸ばす。スプーンは羽多野の口に届く前に阻止された。
「……谷口くん?」
ぐっと手首をつかまれて、今度は羽多野が怪訝な顔をする番だ。すると栄は体裁悪そうに視線を逸らし、ようやく真意を明かした。
「栗はそれなりに好きです。でも俺はプリンの方が……」
「そうなの?」
「そうです。羽多野さんそんなことも知らないんですね」
羽多野はムッとした。良かれと思って高い方のケーキを譲ったのに、感謝するどころか「そんなことも知らない」とは。確かに羽多野は栄のことを十分は知らない。出会ってからは二年近くが経過するがそのほとんどは仕事上の付き合いのみ――しかも犬猿の仲。ロンドンで三ヶ月同居はしたが、肝心の栄がいつだって非友好的で取り付く島もなかったのだから。
「知らないさ、君がいつも喧嘩腰で自分のこと全然教えてくれないんだから仕方ないだろ。……ったく、じゃあ半分ずつにしようぜ」
苛立ちつつも喧嘩にならないようできる限り穏当な物言いをしている羽多野だが、栄はさっと手を伸ばして自分と羽多野の皿を交換してしまう。そしてこれは自分のものだとばかりにプリンのグラスにスプーンを差し込んだ。
「俺、食べ物を途中で交換するの無理です」
完全なる拒絶。羽多野は思わず「はあ?」と不機嫌さ丸出しの返事をする。もちろん栄が引くわけもない。
「人の食べかけなんて、汚い」
――ちょっと優しい態度を見せても、一度くらいセックスしても、栄はやはり栄だった。嫌悪感丸出しにケーキのシェアを拒絶され、羽多野の堪忍袋の尾が切れた。
「谷口くん、いまさら何言ってんの? 君とはキスだってしたし俺の唾液も飲ん……っ」
最後まで言い終わる前にクッションが顔面に飛んできた。
「そういう無神経なこと言うから、嫌なんですっ!」
昨日今日の素直な態度はどこにやら、目の前にいるのは羽多野がよく知る、頑固で短気でプライドが高い谷口栄の姿だった。「あわよくば今夜も」どころか、ここまで怒らせてしまえば同じベッドで眠ってくれるかも怪しいものだ。
羽多野は「二度目」の機会がみるみる遠ざかるのを感じつつ、わがままな恋人の好みをひとつひとつ探り出していくのもこれからの楽しみだと自分に言い聞かせフォークを握る。限定品の高級和栗のモンブランは少し渋くて、とろけるように甘かった。
(終)
2019.11.11