第6話

 栄、という言葉が尚人の唇からこぼれた瞬間に一度はおさまりかけた 激しい感情がさっき以上の勢いで燃え上がる。物に当たらずにすんだのは単に、すでにゴミ箱を蹴飛ばしてしまった未生の足元に何もなかったからにすぎない。

「栄が……って、言った?」

 怒りに震えつつわずかな期待を込めて聞き返してみるが残念ながら聞き間違いではなかったようだ。尚人は小さく、しかしはっきりと首を縦に振った。

「あいつと連絡取ってたのか?」

「ずっとじゃない。ちょっと……用事があったからメールしたら、電話がかかってきて」

「メールしたって、自分から? 意味わかんねえ、なんだよそれ!」

 未生はついに大声をあげる。近所に響いたって構わないくらいの気持ちだった。怒りと混乱。未生の頭の中では何もかもが繋がらない。なぜ谷口栄が羽多野のことなど嗅ぎ回るのか。なぜそれをわざわざ尚人に聞くのか。そして――なぜ尚人はそれを未生には黙ったまま、あえて真希絵を頼ろうとしたのか。

「ごめん、未生くん。話そうと思ったんだ。でも、なかなか電話では言いづらくて。ちゃんと会ってから話した方がいいだろうって」

 必死の形相で言い募る尚人をどこまで信じていいのかもわからない。

「言いづらかった? 俺、今週ずっと尚人の様子が変だって思ってたよ? どうかしたかって、悩みでもあるのかって何度も聞いたよな? 話すチャンスなんかいくらだってあったんじゃねえの?」

 こういう言い方は良くないとわかっている。相手の逃げ道をふさぐように問い詰めたところで話は袋小路に向かうだけだ。わかっているのに、未生は尚人を責めることをやめられない。未生がどれだけ栄の影を気にしているかは言葉でも態度でもずっと伝えてきた。尚人だって理解してくれていると思っていたのに、それもただの未生の思い込みだったというのか。

「それはそうなんだけど、でも。それに僕だって最初は断ろうとして……」

 未生が聞きたいのはそんな答えではなかった。尚人に触れたままだった手を離すと、代わりに冷たい視線を投げかける。

「ふうん。元カレの頼みを最初は断ろうとしたけど結局は断らなくて、そのことを俺に話そうと思ったけど結局は話さなかった。それって、迷ったことになんか意味あんの?」

 思い悩んだからなんだというのか。結局未生を裏切ることを選ぶのならば、むしろ迷われただけ惨めにすら思える。

「――ごめんなさい」

 うつむいて尚人はただ謝罪の言葉を口にした。

 いつもなら尚人の殊勝な態度には弱い未生だ。こんなふうに謝罪されれば怒りもしぼんですぐに許してしまう。でも今は違った。だって、優しげな態度と弱々しい言葉に誤魔化されてきた結果がこのざまだ。尚人は栄とのことで隠しごとをすればどんな反応が返ってくるか知った上で、それでも未生に話さないことを選んだのだから。

 このまま向かい合っていたらひどいことをしてしまいそうだから、未生は恋人から視線を背けていらいらと部屋の中を歩き回る。再会してからの十ヶ月間ではじめて尚人の顔を見たくないと思った。

「未生くん、話すから。ちゃんと話すから」

 尚人は途方に暮れたように訴えてくる。話を聞いてくれとばかりに伸ばされた手を未生は振り払った。

「今になって話せるなら、最初からそうしろよ! さっきだって、まるで様子うかがうみたいにさ。尚人、俺が気付いてなければそのまま嘘を突き通そうとしただろ?」

「だって、言ったら君が!」

「君が何だよ? 俺が嫌がるから? 谷口と連絡とってること黙っていられるほうがよっぽど嫌がるって知ってるくせに」

 出会った頃の尚人は、いつだって寂しそうで物欲しそうな顔をしていた。だから未生は尚人に声をかけた。

 家族に恵まれず愛情というものの存在を信じられなかった未生は、他人の恋愛をこき下ろすために、恋人と上手くいっていない相手を見定めては口説いてきた。愛だの恋だのと言ったところで、弱っているところにちょっと優しくしてちょっと体をの渇きを満たしてやれば、ほぼ確実に心はこちらに傾く。人の心などその程度の軽いものだとあざ笑いながらも、いつだって虚しかった。

 だから、哀れなまでに愛情や優しさに飢えていているにも関わらず、それでもひたすらに栄を擁護し愛情と尊敬を口にし続ける尚人のことが不思議だった。無理やりのように体の関係を続けたところで心はちっともこちらを向かない。仕事ばかりでこれっぽっちも顧みてくれない恋人にそれでも焦がれ続ける尚人の姿は馬鹿みたいで、腹立たしくて、眩しかった。そしていつからかそんな尚人に惹かれていたのだ。

 そう、未生が好きになったのは確かに「谷口栄のことが好きな尚人」だった。そして今も尚人の中には恋人を裏切った罪悪感が消えずに残っているのもわかっている。

 でも、だったらいつになれば尚人は本当にこっちを向いてくれるのだろう。いつになったら未生のことだけを見てくれるのか。栄のことを好きな尚人に恋をしたことは、尚人に永遠にあの男を愛したままでいて欲しいということを意味しない。栄でなくて、自分のことをあんなふうに愛して欲しい――未生は自分の本当の欲望を自覚したからこそ前を向いて、歩き出したのだ。

「尚人って今は俺のこと好きだとか言って、いつもどこかでちらちら谷口のこと気にしてんのな。長く一緒にいたから? 浮気して悪かったから? 聞き飽きたよ」

 どうしようもない感情を持て余して未生は尚人を詰る言葉を重ね続ける。こんなことを言ったら嫌われてしまうかもしれない。ただでさえガキっぽいと思われているのに、本当に呆れられて見放されてしまうかもしれない。心の中は恐怖でいっぱいなのに、なぜだか恐れる気持ちは攻撃的な態度になって表に出て行く。

 背中を向けているので尚人の表情はわからない。いや、怖くて確かめることもできない。尚人の不実が許せず責め立てながらも、それを理由に失いたくないという相反する気持ち。未生はやるせなく唇を噛んだ。

 少し間をおいて、尚人がためらいがちに口を開いた。

「荷物の片付けをしていて、栄の手帳を見つけたんだ。どうしたらいいかって思って……」

「捨てろよ、そんなもん。それか実家にでも送りつけりゃいいだろ」

 再び怒鳴り声をあげる未生に、しかし尚人は負けじと続ける。まるで覚悟を決めたかのように。

「いい機会だと思って、栄に連絡した」

「は?」

 いい機会だと? 前に栄から英国への渡航日が決まったという一斉メールが届いたときも尚人はさかんに返事をしたがっていた。やはり未練の一種なのか。返事をすることもできずに立ちすくんでいると、やがて肩に尚人の手がそっと触れた。

「君とのことを――きちんと話さなきゃと思ってたんだ」

 そのひと言に、毒気を抜かれた。

「俺とのこと?」

 未生はゆっくりと振り返る。尚人はうなずいた。

「別れる前に栄に言われた。僕は自分に自信がなくて寄りかかる相手を探しているだけだから、未生くんの家庭環境や生育環境に同情して手を取るなら、きっとまた失敗するぞって」

 前にも同じ話を聞いたことがあるような気がする。未生からすれば、パワハラ、モラハラ男がいったい何を偉そうなことを言うのかと可笑しい話だが、栄の忠告は尚人にとっては重いものであるらしい。

「で?」

 仏頂面で先を促すと、未生がようやく聞く気になったことに安心したのか、尚人の声が幾分柔らかくなった。

「……そうじゃないって言いたかった。未生くんには同情なんて必要ない。たったの一年半で嘘みたいに大人になって、僕なんかよりよっぽどしっかりしてる。だから僕は未生くんに依存するんでもされるんでもなくて、一緒に並んで立っていたいんだって。そのことを栄に伝えなきゃいけないってずっと思ってたんだ」

 ――尚人はずるい。計算しているならかなりの性悪だが、天然であればなおさら手に負えない。無意識に未生を振り回して、ひどく不安にさせておきながら、最後にはこうして何もかもを持っていく。

 未生は手を伸ばして尚人の肩を引き寄せる。最初からそう言えよ、と悔し紛れに小さくつぶやいて、それからぎゅっと抱き締めた。