第3話

「ちゃんと部屋は探すから、君の職場のことは心配しなくていい」

 羽多野の譲歩により、到着早々に大喧嘩という最悪のシナリオは避けられた。安堵というよりは拍子抜けして、カウチに背中から倒れこみながら大きく伸びをする。すると寄り添うのを避けるかのように、ちょうど人一人分のスペースを空けて座っていた栄が、珍しくいたわるような言葉をかけてきた。

「……長旅で疲れたんじゃないですか? 今日のところは風呂に入って早めに寝たほうがいいですよ。その方が時差ぼけだって引きずらないでしょうし」

 だが、それをただの親切心と受け止めるほど羽多野は単純ではない。まずは軽い否定で相手の出方を見る。

「大丈夫、座席がフルフラットだったから機内でも寝たし。仕事だって週明けからだ」

 家探しという想定外の予定は入ったが、少なくともこれから数日かけて体を英国時間に慣らしながらのんびりと過ごすことができる。第一、もし羽多野が疲れているように見えるのだとすれば、それは長旅のせいではなく目の前にいる男の気まぐれに振り回されたせいだ。

 疲れていない、と強調された栄は明らかに落胆――いや困惑した表情を見せた。それから視線を逸らして立ち上がる。

「そうですか。じゃあ、俺は今日中に読んでしまいたい資料があるのでお先に……」

「ふうん、資料ね。英語の文献なら手伝おうか?」

「いいえ結構です。機密文書なので」

 やっぱりそういう魂胆か。羽多野は眉をひそめた。要するに栄は、これ以上羽多野と同じ空間で過ごすことを避けようとしているのだ。まずは羽多野をさっさと寝室に押し込もうとし、それが無理とみるや自分が部屋に引き上げる気だ。

 羽多野はすぐさま手を伸ばし、栄の腕のあたりをつかむ。触れただけで伝わってくるのはあからさまな動揺。続いてなんと、栄は強い力で羽多野の手を振り払った。

「何だよ、せっかくの再会なのにそっけないな」

 ここまで我慢を重ねてきたが、さすがにかちんとくる。苛立ち混じりに不満を訴えると、栄はおおげさなため息をついた。

「何くだらないこと言ってるんですか。仕事なんです」

 まただ、いつもの「俺はわかっている、わかっていないのはそっちだ」という素振り。わがままと理不尽のかたまりのくせに、彼の中でこういった言動、行動はどのように正当化されているのだろう。機嫌が良ければ、そして心に余裕がある状況ならば羽多野だって笑ってごまかされてやるところだが、残念ながら今はそういう気分ではない。だからあえて意地の悪い口調で、栄の矛盾を指摘する。

「ふうん、リスクマネージメントの塊みたいな谷口くんが機密情報を自宅に持ち帰るとは思えないが。それとも一分一秒でも早く俺の顔が見たくて持ち帰り残業してくれたってわけか?」

「うぬぼれないでください!」

 わかりやすい挑発に、沸点の低い栄は案の定顔を赤くして反論した。それなりに付き合いも深まって羽多野の戦略などわかりきっているはずなのに、こういうところは学ばない。

「ほんの数週間そこらで再会だなんだって、羽多野さんはいちいち大げさなんですよ。酒が足りないなら勝手に出してひとりでやってください。俺は明日も仕事です」

 しかし今日は、羽多野も栄のことを馬鹿にできない程度には切羽詰まっていた。投げかけられた言葉の中でひっかかるのはという部分。確かに冬の休暇を終えた栄が日本を経ってからは三週間程度。だが、年末から数えれば羽多野はかれこれ一ヶ月もお預けを食らっている状況だ。

「……俺が今夜欲しいのが酒なんかじゃないって、わかってるくせに」

 ストレートな言葉とともに、もう一度手を伸ばす。まだシャワーを浴びていない栄はシャツを着たままでいる。手首を握るとカフスの下にするりと指を忍ばせて、骨張った手首を指先で撫でた。

 二度目の――しかも十分すぎるほど性的な意図を感じさせる接触に栄はひるんだ。手を引いて逃げを打つがさっきほどの勢いはない。

「そういうの、困ります」

 視線は逸らしたまま、しかし明らかにトーンダウンした口調に羽多野は気を良くした。

「このあいだは君から誘ってくれたのに、いまさら?」

 そう、あれはクリスマスの少し前。栄は自らの意志で羽多野のもとを訪れ、自ら羽多野に体を与えようとした。心底弱りきっていたところに千載一遇のチャンスが訪れたこともあり、その後の行為が強引だったことは否定しないが、栄だって拒まなかった。それを、今になって――。

「だって、あのときはあなたが騙しうちみたいに……」

「騙しうち? その言い方はあんまりじゃないか」

 確かに、リラとのことをきちんと説明しないまま姿を消したことや、故意ではなかったとはいえ電話が不通になってしまったこと。さらには仕事を見つけて再びロンドンに出向くつもりだと伝えていなかったことなど、羽多野の側にも瑕疵はあるが、そもそも弁明の機会すら与えず泣きながら出て行けとまくしたてたのは栄だ。どっちもどっち、足りない部分も悪かった部分も認めた上でノーサイド、ではなかったのか。

 それでもどうにか言いくるめて、もしくは多少強引にだって押し倒せば何とかなるかもしれない。不埒な考えを捨てきれない羽多野だが、栄は鋭い視線とともに言い放った。

「羽多野さんが何を誤解してるかは知りませんが、俺はそういう気分じゃないし……あ、ああいう役回りに納得してるわけはありませんから!」

 そして絶句と同時に脱力した羽多野の手から、今だとばかり逃れてしまう。

「いや、それはないんじゃないか?」

「『今日だけ』って念を押したはずです。そっちこそ、どさくさに紛れてを常習化するつもりだったんですか?」

 こうして再び不毛な議論がはじまる。

 同居を許してくれたかと思えば家を探せと言い出したわがまま王子は、今度は「やっぱりセックスで下になるのは嫌だ」と主張しているらしい。別に俺は騎乗位だって座位だって好物だ、と茶化すのは簡単だが、この状況で下手な軽口を叩けばお預けは二倍にも三倍にも引き延ばされそうな気配だった。

「常習化って、だったらどうすんの? 谷口くんが俺を抱くの?」

「嫌ですよ。何で俺があなたみたいなでかくて可愛げのない男を抱かなきゃいけないんですか。気持ち悪い」

「じゃあ、大人しく俺に抱かれろよ」

「……俺、そっちじゃないって何度言ったらわかるんですか」

 自信たっぷりに言われたところでうなずけるはずもない。興奮のあまり羽多野の記憶も完璧ではないが、少なくとも栄はキスをリードされることにも、触れられることにも――体の奥に押し入られることにもまんざらではなさそうだったではないか。確かに口先では嫌だとかやめろだとかほざいていたが、あんなのはただの睦言の一種だ。びしょびしょに濡らして腰を降っていた癖に、「そっちじゃない」なんてお笑い種だろう。

 しかしこの、普段の三割増の不機嫌と不安定。家賃手当て云々で悩んでいたこと以上に事情がありそうだ。ここまで頑なになってしまえば、どうせ今日はセックスどころか触れることも許してはもらえない。となれば、できるのは明日に向けて少しでも水を撒くことだけ。

「……もしかして、職場以外にも俺といることに何か不安が?」

「あなたという人間に対して不安しかありません」

「そういうこと言葉遊びがしたいわけじゃなくてさ」

 逃げるように寝室に駆け込まないところを見れば、栄もこの状況を喜んではいないのだろう。さっきと同じ、言いたいことがあるのに自分からうまく言い出せないから苛立ちを一方的にぶつけてくる。

 羽多野は今度は一切の下心なしに栄の両肘をつかみ、カウチに座らせた。距離を少しあけて正面から向き合う。

「何か気になることがあるんだろ」

 すると栄は、さっき「家を探して欲しい」理由を明かしたときのさらに倍程度の時間押し黙ってから――やっと重い口を開いた。

「年末にあなたといるところ、妹に見られていたみたいなんです」