「……それとこれとは関係ありません」
ほとんど反射的に言い返しながら、栄は思う。こうして後になって恩を売るくらいなら、昨晩無理やりにでもやってくれたほうがましだったのに。そもそも栄が嫌だと言っても、自分の欲望を抑えられないときは強引にその気にさせようとするのが常なのに、なぜ昨夜に限って。
羽多野の腹黒で強引な部分と、気障で甘ったるい部分がどのように線引きされているのかを栄はまだ十分に理解できていない。一見軽薄な男はふとした瞬間に複雑で繊細な部分を見せ、近づけば近づくほど得体が知れないように思えることもある。
「関係ない、まあそうか」
表情は見えないものの珍しく聞き分けの良い物言いに気を抜いたところで、上掛けごと抱きすくめられた。布越しであっても正確に栄の耳の位置を探り当てて低い声でささやく。
「つまり、仕切り直していいってことだな」
明確な意思を込めた言葉は直接腰に響くが、改めて確認するまでもなく今は土曜の朝だ。ここで「仕切り直す」と最低でも午前中、下手すれば今日一日の予定が台なしになってしまう。セックスをすることに異論はないがもう少しタイミングというものがあるはず――などと考えたところですでに手遅れ。羽多野はさっさと上掛けを奪い去って代わりにその身を栄の上にかぶせてきた。運動神経には自信があるのにこういうときの反射に限っては鈍い自分が憎らしい。
「暑……苦しいっ」
申し訳程度の抵抗をしながらも、本気で拒むつもりはなかった。顔や手足にひんやりとした空気、一方で触れている箇所には羽多野の生々しい熱を感じた。
寝室にはずっと弱目にエアコンを入れてある。環境に良くないのは承知だが、蒸し暑い夏にあえて空調を効かせた部屋でひんやりとした寝具に包まれて眠るのはささやかで背徳的な夏の楽しみだ。羽多野に至っては体温が高いのか、ただでさえ涼しい部屋の中でもときにタオルケットすら蹴落としてしまう。
常日頃から節制を心がけている栄から見れば、羽多野の生活態度は目にあまる。好き放題酒を飲み、肉も炭水化物も気にせず食い、それでも多少走って筋トレするくらいで四十近くになっても体型を保っている理由の一端はおそらく生まれ持った代謝にあるのだろう。いくらかうらやましくはある。
熱い唇がまず押し付けられるのは首筋。薄い皮膚を吸い上げようとする動きから身をよじって逃げる。
「ちょっと、それはなしだって言ってるでしょう」
気を抜くとすぐに「忘れた」ふりで跡をつけようとする男。しかしここのところ仕事優先で運動をさぼっていた栄は、この週末こそはプールに行くのだと決めているから決して今日は流されないと決めている。
きっぱりとした断りに、ちっとあからさまな舌打ちをして羽多野は言う。
「谷口くんは文句が多い。たまには軽く薄いのつけるくらい、いいだろう」
「あなたの〈薄いの〉は当てにならないんです。前だって……」
雰囲気に流されてやりたいようにさせたときの結果がどうだったか。痛ましいほどに噛み跡と鬱血に埋め尽くされた栄の姿を羽多野だって覚えているはずだ。
唾液を絡ませるキスは受け入れた。本来の栄とは異なる役割でのセックスや、それ以外にも口にするのもはばかられるような恥ずかしい行為をいくらでも許してきた。でも、やっぱり体に跡をつけるのは許せない。
羽多野は不満そうだが、この件で争ったところで栄が折れないことを察したのだろう。首筋をキスマークまみれにする代わりに厚い舌で執拗に舐め回しにかかった。
「んっ……うぅ」
やたらとしつこく体を舐め回すのも羽多野の癖のようなものだ。頭の先から足の指先、そして舌先が届く限りの粘膜の内側まで、最初に体を重ねてまだ一年も経たないが、栄の体のおよそ触れることが可能な場所すべてを、すでに羽多野の舌は侵略している。
ひたすら体のあちこちを舌や唇でベタベタに濡らされるというのはそれまでの人生では経験したことのない行為だ。当初はアブノーマルだとしか思えなかったが、羽多野が仕掛けてきた他のあれこれ――例えば「目隠し」とか「手首を縛って自由を奪う」とか「陰毛をすべて剃った上でいやらしい下着をはかせる」とかに比べれば圧倒的にまとも寄りであるせいか、いつの間にか二人の間では当たり前の前戯になっていた。それどころか飼い慣らされた今では羽多野の肉厚な舌で丁寧になぞられたり、熱く濡れた口の中に体の一部を含まれればどうしようもなく感じてしまう。
舌が鎖骨のくぼみをえぐるように辿り、同時に手のひらは背中や脇腹を撫で回す。ぞわぞわと背筋を駆け抜けるのは快感と期待。胸のあたりでくしゃくしゃになっているシャツを脱ごうと栄がもがくと、意図に気づいた羽多野が手を貸した。
邪魔なものがなくなったところで、羽多野は栄の胸先に口付ける。
「あっ、ん」
反対側の先端をぴんと爪先で弾かれれば、強い刺激に恥ずかしい声が漏れた。乳首を愛撫されて声を出すほど悶えるなんて、最初は信じられなかったし怖かった。それでもいつしか慣らされて、言葉にはしないものの栄はそこに触れられることを待ち望んですらいる。
指先で弾いて、揉んで、引っ張る。唇でなぶって、歯で軽く噛んで、舌先であやす。絶え間なく刺激の種類と強度が入れ替わり、栄はただ翻弄されるばかりだ。
「……はぁっ、んっ……そこっ、や」
「はいはい、いいんだろ。ちゃんとご奉仕しますから」
「ああっ」
からかいついでに、しこった乳首をキュッとひねられてまたあられのない声が漏れた。と同時にじわりと下着の前が湿る。こちらもさっさと脱がせろとばかりに、栄は密着する男の体に腰をはしたなく擦り付けた。
くすぐったい、は気持ちいい。
恥ずかしい、もまた快楽を生む。
自分は常に他人を導く側で、それはセックスにおいても同じだと思っていた。そんな栄の常識は羽多野によってほとんど粉々に砕かれていた。
さんざん胸をなぶったところで羽多野が一度状態を起こし、着ているものを脱ぐ。ブラインド越しのやわらかい朝の光に、程よく鍛えられた裸の上体が浮かび上がるのを見て栄は無意識に唾を飲んだ。
「谷口くん」
名前を呼んで、改まったようにキス。唇を緩めればすぐに熱く濡れた舌をねじ込んでくる。優しい口づけはすぐに深く激しくなり互いの吐息すら漏らさないように激しく貪りながら手では性器をまさぐった。
唇を離して一度視線を合わせて、そして羽多野は体を引く。両膝を立てて軽く脚を開いた姿勢を取らせるついでに、脛に挨拶がわりのキスを落とすことも忘れない。身を焼くような羞恥と期待感に目を閉じた栄の耳にカタンとサイドボードの引き出しが開く音が聞こえ、やがてぬるりとしたものが下肢に垂らされた。
「……っ」
唾液ではなくローションを使うのは、羽多野なりに先を急いでいるからなのかもしれない。昨晩「我慢」したのはこの男なりの痩せ我慢だったのだと想像すると、こんな状況であるにもかかわらず栄の頬は緩んだ。
「どうかした?」
場違いな微笑みに気づいたのか羽多野が問う。
「どうもしませんよ」
あわてて表情を引き締めるが、どうやらそれは羽多野を煽る結果になったらしい。
「考えごとする余裕があるなんて、面白くないな」と言って、羽多野はローションを広げるように臀部をひと撫ですると、指先をつるりと栄の内側に差し入れた。
「っ……んんっ」
心の準備ができていなかった栄の体が跳ねると、楽しそうに笑い、腰を抱き上げ愛撫の動きを強める。
羽多野の過去の女遍歴だとか、今はまだ朝だとか、男に抱かれるのは本来の自分ではないとか、くだらない考えごとはすぐにどこかへ消える。屹立した性器を舐められ、しごかれながら後孔を暴かれる。最後はきっと羽多野がいつものように、熱に浮かされたような声で栄の名前を呼ぶのだ。
「……栄」
特別な瞬間にだけ、かすれた声で呼び捨てられる名前。
栄はその瞬間が好きだ。