少しはうろたえるのではないか、申し訳ないという顔をするのではないか。そんな栄の予想に反して羽多野はどこまでもふてぶてしかった。
「だったらどうなんだ。誰かさんがどこぞのお姫様みたいに触るなとか近寄るなとか言うから、こっちだってできるだけの配慮はしたつもりなんだけど」
謝罪どころか完璧な開き直り。もちろん栄の怒りには油が注がれる。
「ふざけるな、何が配慮だ! 俺がどれだけ恥ずかしい思いをしたと思ってるんだよ」
ジェレミーから首のキスマークを指摘された瞬間のいたたまれなさは、いくら力説したところできっと羽多野には理解できないだろう。この男はきっと自分の首筋にキスマークのひとつふたつをつけられたところで気にしないどころか勲章だと笑う。だからといって羽多野に悪意がなかったのかといえば答えはきっと否。栄が嫌がるとわかっていて、わざとこういうことをしたに決まっている。
多少のいたずらは、からかいやじゃれあいで許される。恋人同士とはそういうものだ。でも、これだけ関係がぎすぎすしているときにやることではない。
怒りのあまりぐいと身を乗り出したところで、逆に襟首をつかまれた。顔と顔が近づいて羽多野の香りが鼻先をかすめ、次の瞬間には首裏をのぞきこまれていた。
「ふうん、特に意識してやったわけじゃないけど、確かにしっかり跡がついてるな」
「触るな!」
栄は羽多野の手をぴしゃりとはたいた。悪びれもしないどころか、さらに挑発しようとする態度が気に触る。だがどうやら不愉快な気持ちでいるのはこちらだけではないらしい。
「で、どこのどいつが谷口くんの首筋のキスマークに気づいて、わざわざご親切に教えてくれたんだ?」
「そんな話、今はしてません」
「いや、大事な問題だ」
普段なら、口論の最中だってどこかからかうような、余裕を装う態度を崩さない男だ。だが今の羽多野は本気だった。冷たく追い詰めるような目――ずっと前、まだ二人が仕事を介しての関係で、この上なく険悪だった時代のような――に、すっと背筋が冷えた。
「普通にしていればシャツで隠れる場所だ。お上品な君の同僚たちなら、たとえ気づいたってわざわざ本人に伝えないだろう」
「それは……」
急な形勢逆転。ひどいことをした羽多野を追求していたはずだが、栄は思わず口ごもる。羽多野はもう一度、指先でつうっと栄のうなじをなぞった。
「ジムのプールで他人の首筋を注視して、しかもわざわざキスマークついてますよって指摘してくるような〈とてつもなく親切な〉お友達は、もしかして例の日本語堪能な元英語教師か?」
しまった、と思うがすでに遅い。
羽多野がこうなることを想定して、罠としてキスマークをつけたのか。もしくはただの偶然か。いや、そんなことどうだっていい。
「話をそらさないでください」
「いいや、そらしてない。仕事に役に立つレポートをくれるからってほいほい付いていって、今じゃ待ち合わせて裸の付き合いか?」
首から上にかっと血が集まる。
「あなたって、下品です!」
わかっていたことだが、改めて言わずにはいられない。確かにプールでは誰だって半裸だ。だからって「裸の付き合い」だなんて、含みがある言い方。まるでこちらが浮気でもしているかのような口ぶりはひどい。
きつく羽多野をにらみつけながら、でもわかっている。こんなに腹が立つのは、栄自身が羽多野との関係への不安から逃げるようにジェレミーと会っていたから。そして、実行に移すつもりは皆無とはいえ、ほんのちょっとだけジェレミーのことを「いいな」と思っていたからだった。
とはいえ、羽多野は今何と言った?
確かに栄はジェレミーと出会った日のことを羽多野に話した。元ALTで日本語が堪能。アジアコンテンツの輸入に関わっているから仕事上有益な情報をくれるかもしれない。でもそれだけだ。なのに――。
「レポートをもらったこと、どうして」
話した記憶はないのに、羽多野はなぜそのことを知っているのだろうか。ここしばらくの自分の行動を思い出してみる。あのレポートは、もらった日にカバンに入れて持ち帰り、翌日にはそのまま出勤して職場の資料ファイルに綴った。羽多野が知る機会があったとすれば。
「もしかして、俺のカバン探ったんですか」
羽多野は申し訳なさそうなそぶりひとつなしに、開き直る。
「君だって、元彼のスマホの位置情報をこそこそ見たって言ったな。それと比べたらかわいいもんだ」
「それは……っ!」
まさかここでその話を出してくるとは。確かに目的のためには手段を選ばない男だ。だが、それはあくまで過去の話で、恋愛関係にある相手に対して罪悪感なしに荷物を探るような男だとは思わなかった。それどころか、責められれば悪びれもせず、栄の過去を持ち出して自らの行為を正当化する。
「羽多野さん、見損ないました」
第一、あのときと今回とでは全然話が違う。あからさまに不貞の気配を漂わせていた尚人と、今の自分を一緒にしないで欲しい。
軽蔑の視線を受けて、さすがに栄の怒りの大きさを察したのか羽多野がすっと目をそらした。
「ふうん。谷口くんはずいぶん俺のことを買いかぶっていたんだな」
でも、恥をかかせたかったわけじゃないのは本当だ。続く言葉は少し小さな声で。
「だったらどうして?」
「近づくな触るなって君が騒ぐから、俺なりに尊重しようとした結果だ。ただ――わかるだろ、男だから魔がさすことだってある」
言い逃れなのか、本音なのか。羽多野は、栄の言う通りに振る舞おうと努力をして、その上でがまんできずに首筋にキスしてしまったと言っていた。
魔がさす、が密かな口付けひとつというのは普段の羽多野からは考えられないことだ。だって、嫌だと言ってもやめろと言っても、これまで数多の無体な行為を強要してきたではないか。
とはいえ。
「それって羽多野さん、つまり」
思わず息を飲む栄に、羽多野は渋々といった様子で口を開く。
「俺たちは日々こうして不毛な口論ばかりなのに、君は三日と開けずにどこぞの男とプールで会ってる。気にならないわけがないだろう。しかもそいつの話をするときは鼻の下を伸ばしてた」
「は、鼻の下!?」
反射的に言い返してから気づく。羽多野は今、なんと言った? 栄がジェレミーと会っているのが気に食わなくて、だから堪えきれず約束をやぶってキスマークをつけてしまったと?
「おかしいか? 君はいつだって俺のことを好みじゃない好きじゃないって憎まれ口ばかりだ。普段は気にしないが、あんまりつれなくされると間に受けそうになることもある。それに、プールで会ってるそいつは、君を持ち上げていい気分にさせるのが上手いようじゃないか。谷口くんは単純だからそういうのに弱――」
栄はすかさず床に落ちたクッションを拾って羽多野の口に押し付けた。
「ふざけるな、誰が単純だ!」
その声色がさっきとは明らかに異なっているのは自分でもわかる。怒りより、照れくささ。普段は栄の憎まれ口を大人ぶったクールな顔で聞き流すか、意地悪く茶化すかのどちらかの男から漏れた生々しい不安と嫉妬の言葉。こんなの、嬉しくないはずがない。
この可愛げのかけらもない男は、やはり自分に夢中なのだろうか。「単純」というのは余計な一言だが、まあ、その前の一連の内容と相殺して許してやらなくもない。こんな台詞ひとつで怒りが萎えてしまうこと自体が単純である証拠――というのは、とりあえず考えないことにしておく。
こういう関係になる前に、職場の同僚と食事に行くことに難色を示されたことがある。抱き合うようになってからしばらくは、プールに行くなとうるさかった。最近は文句も少なくなって、気が楽な反面どことなく寂しさを感じていたのも事実。思わぬところで聞いた羽多野の本音は、栄を喜ばせた。
「羽多野さんって……」
「何だよ」
「大人の男ぶって、無駄に格好つけてますよね」
羽多野の顔が微かに赤らんだ。
「格好つけてるなんて、君にだけは言われたくないな」
それは違う。栄は確かに外に向けては常に分厚い仮面をかぶっている。だが、羽多野の前ではいつだって素の、わがままで傲慢で自分勝手な姿を晒しているではないか。
一方の羽多野は、なかなか栄に弱みを見せようとしない。だからときどき、こちらだけがいろいろなことを気にして、苛立っているようで情けなくなるのだ。たまには素直にこういうところを見せてくれたっていいのに。
「俺は、あなたには格好つけてませんよ。最初から何もかも見抜かれてるんだから、無駄だってわかってます」
「でも、素直じゃないことは多々ある」
「それとこれとは別です」
まったく、と栄はため息をつく。
「最初から嫌味や皮肉じゃなくて、膝をついて頼めばいいのに。嫉妬でおかしくなるから、他の男と会わないでくれって」
「気分屋の君だ。五十パーセントの確率で、人の行動に口出すなって冷たくあしらうだろう」
確かにそれは、否定できない。