37.羽多野

 滑稽なまでに熱心に股間に向き合っている栄を、羽多野はしばらく興味深くほほえましく眺めていた。だが、いくら自制心を総動員したところで恋人に触れられた場所が猛っていくのはいかんともしがたい。

 徐々に角度をつけたペニスが完全に反り返ったところで羽多野はそろそろ潮時だと考えた。「谷口くん」と呼んで、栄の手に自分の手のひらを重ねてやるのは制止の意味合い。

「もうそろそろ、いいんじゃないか」

 栄はぎくりと肩を震わせて、顔をあげないまま抗った。

「……もう、ちょっと」

 あきらめが悪いのは案の定。行方不明になった羽多野を探そうと元妻から直接事情を聞いたり、浮気を疑った勢いで神野小巻の面前で宣戦布告に近い行為にでたり、いざとなれば思いがけない行動力を見せるのに、こういうときはいつまでもぐずぐずと煮え切らない。

「駄目だ」

 羽多野は即座に栄の言葉を却下した。

「このまま君に任せてたら、アライグマみたいに俺のが擦り切れるまで洗い続けるつもりだろう」

 男のそこは敏感だ。ある程度丁寧に洗うのは衛生的にも望ましいが、度を超えた刺激はよろしくない。羽多野は腕を伸ばしてシャワーヘッドを手に取ると、ざっと湯を出して泡にまみれた自身のペニスを洗い流す。

 洗浄は大事だがボディソープの匂いが残っているようでは別の意味で栄は口にすることをためらうかもしれない。念入りに何度も、もちろん〈暴発〉を避けるためにやや低めの温度で。

 はあ、と栄が小さくため息をつく。これから恋人を口で喜ばせようとしている場面とは思えないほどの、心底嫌そうな顔。格好つける余裕も、もちろん羽多野に気を遣う余裕もないのだろう。たとえジェレミーにもらったあのおもちゃで自主練を行っていたとしても、栄の自主性任せでは永遠にオーラルセックスをしてもらえるチャンスは訪れなかったのかもしれないと頭をよぎる。

「ほら、この前のときよりさらにきれいだ。入念に洗ってくれたからこの瞬間はきっと、手や口なんかよりよっぽど清潔だぞ」

 女からも男からも数え切れないほど口での奉仕をしてもらったことはあるが、こういうシチュエーションははじめてだ。色っぽい雰囲気は皆無どころか負の領域なのに、過去のどんなときよりも羽多野の胸は高鳴り興奮していた。

 羽多野は栄のよくできたきれいな外面を破り、わがままで高慢で弱い内面を暴いてきた。それから押し倒して組み伏せて、彼自身が知らなかった肉体の反応を呼び起こした。

 だが、羽多野が栄を暴くのと同様に、議員会館で出会ったあの日からずっと栄だって羽多野という人間を暴き続けてきた。たとえ無意識であったにしろ、羽多野があきらめて忘れようとしてきたものの存在を再びあぶり出し、本当に欲しいもの、やりたかったことを晒し出した。

 自分はサディストではないはずだ。ただ、栄が他の誰にも見せない顔を見たいだけ。普段は王子のように高慢に、いくらだってわがままを言って羽多野を振り回してかまわない。だからこそ、こうして夜に彼を征服するときの喜びも燃え上がるのだから。

 羽多野は栄の裸の肩に触れてバスタブの底にひざまずくよう促し、自分は縁に腰掛けた。いつだったか栄の隠部を剃毛したときとはちょうど逆の構図だ。

 嫌々といった様子で従った栄は、いよいよ羽多野のペニスを目の前にして表情を曇らせる。完全に前回失敗したときと同じ状態に見える、指だってくわえて、キスもして、唾液だって飲んでいるのにいまさら何がそんなに引っかかるのか、本人は潔癖を理由にしているが、きっとそれだけではないのだろう。

 自身の本質を半ば理解しつつも、強くて優秀で常に他人をリードする男でいたいという昭和的マッチョな理想を捨てきれない栄。浮気心はないと言いつつジェレミーとの交流を絶てなかったのも、そのせいだ。

 体はすでに羽多野との関係を受け入れているにもかかわらず、彼の頭でっかちな部分は「受け身のセックスをして」「男相手に奉仕をする」自分を否定したがる。

 アンビバレンス、というよりは無自覚なマゾヒズムに近いのか。彼が望まない関係、望まない行為であると信じれば信じるほど、征服されるたび栄はひどく興奮して溺れていくのに――。

「今日は、君が泣いたってやめてやらないからな」

 同じような言葉を口にしたのは、薄く汚れた東京の部屋で初めて栄を抱いたときだったか。夢でないかと疑い、さんざん抱いて、眠って、朝起きれば腕の中から消える蜃気楼であっても不思議はないと思っていた男は今も羽多野の前にいる。

「待って、嫌だって言ってるわけじゃない。ただちょっと、もうちょっとだけ心の準備をする時間を……」

 口数が多くなるのは緊張しているから。そして、自分から行動を起こすことが苦手な栄はいつだって本当は背中を押されることを待っている。だから遠慮なんてしたのが間違いだった。

 稚拙な言い訳を続けようと栄が唇を開く瞬間を羽多野は見逃さない。後頭部に手を伸ばしてまだ濡れていない髪ごと頭を鷲掴みにすると、そのまま強い力で引き寄せた。

「……っ!」

 予告のない動き、驚いたように栄の体に力が入る。だが抵抗するには遅すぎた。軽く開いた唇はそのまま羽多野の性器の、ちょうど大きく張り出した亀頭に押しつけられた。

「何だって、案ずるより産むが易しだ」

 柔らかく温かい感触は、手で触れられるときとも狭い後ろに押し付け挿入したときとも違う。鼻腔から漏れる息が敏感な粘膜をくすぐり、自分は今欲望を恋人の顔面に押し付けているのだという実感を強めてくれた。

 栄は石のように硬直している。いや、体を引こうとする意思はあるようなのだが、羽多野にがっちりと後頭部を押さえられているため身動きがとれないのだ。

 栄が動かないので、羽多野はゆっくりと腰を動かして自ら敏感な場所を栄の唇やら鼻先やらにこすりつける。憎まれ口ばかり叩く可愛い唇に、細く高い鼻梁になすりつけているのだと思うとペニスはますます硬さを増し、先端には先走りがにじんだ。それを栄に味わせたいという残酷な欲望が浮かび上がり、羽多野は彼の髪を引き一度その顔を自らの股間から剥がした。

「な、何するんですか……っ」

 この期に及んでまだ文句の言葉が出てくる栄の唇を、すぐさま再びふさぎにかかる。もちろん唇でではなく、自らの先端を押し込むことで。

「っう」

 口を閉じることができないよう、空いていた左手で栄の顎を抑える。左右から力を加えれば嫌でも口は開くから、あとはそこにねじ込んでやるだけ。

 侵入した先はぬるりと温かく、柔らかい。きつく熱く締め付けてくる後ろとはまったく違った感触だ。

「歯は当てるなよ。痛い目に合わせてくる気なら、その分たっぷりお返ししてやるから」

 過去に一度殴られた記憶が頭をよぎるが、さすがにここでペニスに噛みつくような真似はしないだろう。

 顎を押さえ込む乱暴な左手とバランスをとるように、頭を引っ張っていた右手を離して今度は優しい動きで栄の後頭部を撫でてやる。飴と鞭。最初は思い切り強引にこちらのフィールドに引きずりこんで、あとは優しく褒めておだててやる。やっぱり栄を思い通りにするには、これが一番確実な方法なのだろう。