38.栄

 が唇に触れた瞬間、栄の頭の中は真っ白になった。

 残業と嘘をついてジェレミーと会っていたことを知って、羽多野が本気で怒っていることは理解していた。こういうときの羽多野は栄がどれほど嫌がり言葉を尽くしたところで、絶対に「やると決めたことはやる」ということもわかっている。

 とてつもなくハードルの高い行為を強要されることへの恐怖と戸惑い。だが羽多野の目の中にどうしようもない本気を見出した栄は同時に安堵してもいたのだった。これでもう自分ひとりで考えて思い悩んで、決断する必要はない。いつ? どうやって? そんなことをぐるぐる考えて動けなくなるよりは、無理やりにでも導かれた方がいっそ楽ではある。

 とはいえ、もうちょっとくらいロマンティックな展開を想像していたのも事実だ。まさか風呂場で脱がされて洗わされて、その場で頭をつかまれるなんて。

 唇に触れたものはつるんと滑らかで、しかし人肌特有の温かさや若干の湿り気がある。自らの手で徹底的に洗い清めた直後であることも影響しているのか、思い描いたような生々しさを少なくともその瞬間は感じることなかったが、反射的に栄は体を引こうとした。もちろんその努力は、後頭部をがっしりと押さえつける羽多野の手に妨げられてしまったのだが。

 逃げることもできず、かといって積極的に動く――唇を滑らせるとか、舌を出すとか?――こともできず栄は硬直する。ジェレミーにもらったディルドで練習するまでもなく、自分なりにポルノ動画や、羽多野の行為を思い出すなどしてある程度のイメージトレーニングをやってきたつもりだ。しかし、いざ現実を目の前にすれば机上の知識など一切役には立たない。

 固まったままの栄をそのままに、先に動き出したのは羽多野だ。頭を固定したままでゆっくりと腰を揺らし、ペニスを栄の唇になすりつける。まずはゆるゆると先端の面積の広い部分、それから少しずつ大胆に。

 唇は亀頭から大きく張り出したカリを経て茎へ。そして反り返ったペニスは唇のみならず栄の鼻に触れる。まるで栄の顔そのもので愛撫させようとするかのように、羽多野は栄の唇で、頬で、鼻筋で自らの欲望をなぐさめた。これはこれで屈辱的ではあるが、口腔内にこれを受け入れるよりはましなのだろうか。

 だがそう思った瞬間、羽多野はひとつ荒い息吐いてから乱暴に栄の髪を引いた。ぐいとペニスから顔が引き剥がされて、呼吸が楽になる。

「な、何するんですか……っ」

 自分でもそれが、どちらの意味なのかはわからない。

 ちょっと待ってくれと言ったにもかかわらず、強引にペニスを押し付けてきたことへの抗議。もしくは、せっかく嫌々ながらも触れていたのに、途中で止めてまた覚悟を無に返すようなことはやめて欲しいという気持ち。

 だがそんなこと、結局はどうでもいいことだった。返事もなく、栄がそれ以上の言葉を口にすることも許されず、羽多野は無言で、今度は栄の口の中に彼の性器をねじこんできたのだ。

「っ!」

 容赦のかけらもない。丸みのある先端が上下の唇を割り、ぬるりと侵入してくる。と同時に舌先にかすかな、苦味のような刺激が走った。

 これは羽多野の体液――欲情によって滲み出たものだと知るのは一瞬遅れてから。羽多野は栄に嫌がらせのように、というよりは「嫌がるからこそ」無理やり唾液を飲ませることを好む。もちろん気持ちとしては不快だが、少なくともあれは味がないだけでも異物感は薄かったのだと自覚する。

 今、栄の舌が感じているのは、はじめて味わう羽多野の味――彼の欲情の味だった。

「歯は当てるなよ。痛い目に合わせてくる気なら、その分たっぷりお返しをしてやるから」

 自分の口の中に、男の性器がある。手で触れるのとも唇の表面で触れるのとも桁違いの生々しさに圧倒される栄の耳に、羽多野の声は冷酷なほどの威圧感をもって響いた。

 ひどい、と思う。栄だって、自分なりに思い悩んできたし努力するつもりだった。羽多野を傷つけてやろうだなんてちらりとも思わなかった。それに言われるまでもなく、両の頬にぐっと力を入れて押さえられて、口を閉じることはおろか噛みつくことなどできるはずもない。

 なのにこんな、人を人とも思わないような強引なやり方に、意地の悪い言葉。しかも――意地の悪い言葉と裏腹に、後頭部に触れる手は嘘のように優しい動きに変わるから、栄は混乱してしまうのだ。

 誰よりも強引で意地が悪く残酷で。

 誰よりも甘くて優しくてロマンチストで。

 気づけば翻弄されてばかりで、悔しくて仕方ないのに抗うことができなくなっていく。

「少しずつでいいから」

 そう言って舌に押し付けられる先端から、またじわりと苦い味。鼻に抜ける男くさい香りもさっきより増した気がする。無味無臭なら大丈夫だろうとばかりに、あんなにも熱心に羽多野の局部を洗い清めたのがばかみたいだ。男の〈ここ〉なんて、興奮すればすぐに先走りをにじませるに決まっているのに。

「……吸うか、舐めるかくらいはできるだろ?」

 すでに欲情の混じった声で羽多野が言う。

 いつも俺がやってやってるのを思い出せば、どうすれば気持ちいいかわかるんじゃないか?

 彼の行為を真似させ、少しずつ好みの方法を教え込んでいく。いつもの羽多野のやり方ではあるが、今回に限ってはそう上手くはいきそうにない。だって、羽多野の口で愛撫されればあまりの快感に、いつだって栄は何もわからなくなってしまう。どこがいいとか、どうされるといいとか考える間もなく思考はとろけて、欲望を解き放つことしか考えられなくなってしまうのだから。

「……ん」

 わからない、という意思を伝えたくて、羽多野の先端を口に含んだままで栄は小さく首を左右に振った。これだけでも十分だ。裸でバスタブにひざまずいて、ペニスに唇で触れて、口内に迎え入れた。栄にしては上出来ではないか。

 だが、栄の動きはむしろ羽多野にとっては心地よい刺激となったようだ。口の中のペニスが小さく震え、頭上からも淡い吐息がこぼれる。心底嫌な行為をさせられているにもかかわらず、栄の胸は奇妙にときめいた。

 冷静ぶって栄を見下す態度を取りがちなのは普段もセックスのときも同じ。そんな羽多野が抱き合ううちに興奮し我を忘れた様子を見せるとき、栄はちょっとした優越感を味わう。それと同じ感覚だ。

「いきなり喉までなんて、言わないから。ちょっとくらいいいだろ?」

 その言葉に誘われるように、栄はおそるおそる口の中のものに触れた舌を動かしてみる。つるりと滑らかな先端を確かめるようになぞると、舌先は細い割れ目と小さなくぼみを探り当てる。わずかな躊躇の後で、細く尖らせた舌でそのくぼみをくすぐってみると、羽多野の下腹部にぐっと力が入ると同時に口の中にまた新しい苦味が広がった。

 できるだけ生々しさを感じずにすむように、栄は目を閉じる。だが、いざ視覚情報を遮断すれば浮かんでくるのはセックスのときに何度も目にして手で触れた羽多野のたくましく勃起したペニスの映像。

 意識的に観察しているわけではない――といえば、嘘になる。栄はいつだって複雑な感情とともに密かにそれには注目しているのだから。

 同性として、負けたくないという気持ちはある。羽多野の方が太さではいくらか勝るかもしれないが、形は栄の方がいいし、長さはそんなに変わらないはずだ。そんな対抗心を募らせる一方で、自分が主義主張を曲げてまで受け身で寝てやる相手なのだから〈並み〉であってもらってはこまるという気持ちもある。そして実際羽多野の持ち物は〈並み〉などではない。