おまけ3:蝋の翼(中編)

 休憩時間の教室で、小さな頭が揺れるたびにふわふわと動くのは、白いレースでできたリボン。確か昨日同じ場所についていたのは、ピンク色のふわふわしたボール状の飾り。一昨日は……。

 そんなことを考えながら揺れるリボンをぼんやりと見つめていると、きれいに結ばれたリボンにいたずらな手が伸びる。軽く引っ張られただけで蝶々のかたちはあっけなく崩れてしまった。

 いたずらに気づいた少女がはっと振り返るが、すでに手遅れだ。結び目の崩れたリボンは髪の束を滑るように外れて、はらりと床に落ちた。

 ――ほら、くるぞ。

 案の定、すぐさま女子たちが悪童に食ってかかる。

「ちょっと、そういうのやめなよ! 先生に言うよ?」

「何もしてねえよ。ちょっと手が当たっただけじゃんか」

「嘘、わざとリボン外したじゃない。昨日だってボンボンのゴム引っ張って意地悪してた」

「はあ? 何月何日何時何分何秒の話だよ?」

 口が達者な女子と、意地でも非を認めない男子。本気の喧嘩なのか、これもある種の遊びなのか。少なくとも羽多野貴明は、毎日のように起こる小競り合いに関わり合いたいとは思わない。

 口論の原因であるはずのレースのリボンは、忘れ去られたかのように床に落ちたまま。手を伸ばして拾ってやるべきか迷う。ひとりっ子の羽多野は女の子というものがあまり得意でない。というより接し方がわからないと言った方が正確だろうか。

 母親も、たまに会う親戚の女の子だって、あんなひらひらしたものを身につけたりはしない。誕生日ケーキやプレゼントの包みを結んでいるものくらいは見たことがあるが、安っぽいビニールのようなもので作られた紐状のそれらと、繊細なレース細工の施された柔らかく光沢のあるリボンはまるで別物のように見えた。

 どんな手触りなのだろう、と好奇心がわく。だが下手に手を出したら攻撃的な女子から泥棒扱いされてしまうかもしれない。喧嘩に巻き込まれるのはごめんだ。いや、拾って持ち主に渡してやるくらいなら大丈夫だろうか。

 逡巡する間に、すっと喧噪から抜け出したリボンの持ち主――クラスメイトの遠山京香が手を伸ばし、リボンを拾い上げると大切そうに埃をはらってポケットにしまいこんだ。

 やがて口喧嘩では歯が立たないことを悟ったのか、悪戯な男子たちは負け惜しみの言葉を口にしながら廊下へ飛び出していく。

 静けさの戻った教室で、女子のひとりがつぶやいた。

「でもさ、いつもこうやっていたずらされるんだから、京ちゃんもそういうの付けてくるの、やめたらいいのに」

 遠山京香は何も言わず、困ったような笑みを浮かべていた。

 

 

 その日、すでに帰り道も半分を過ぎたところで、羽多野は教室を出て以降ずっと心に引っかかっていたものの正体に気づく。

「あ、やばい。給食エプロン忘れた」

 取りに戻るのも面倒なので気づかなかったことにしてしまおうか、という誘惑はクラスメートの言葉に遮られる。

「まじで? 来週の給食当番俺なんだけど。汚ねえの使うの嫌だから、ちゃんと洗ってきてよ」

 週替わりの給食当番は、自分の当番週が終わると配膳用の白衣一式を持ち帰り、家で洗濯して次の当番に引き継ぐことになっている。つまり、羽多野が白衣の洗濯を忘れた場合、次の当番は他人が一週間着用した白衣を着ることになる。羽多野だって逆の立場だったら、取りに戻れと言うだろう。

「先に行って場所とってるから、さっさと行ってこいよ」

 誰もいない放課後の教室に一人で戻るのは気が進まない。せめて誰かが一緒に行くと言ってくれれば救われるのだが、友人たちの頭はすでに、これから公園でやるサッカーのことでいっぱいだ。

「わかったよ。取りに行けばいいんだろ」

 冷たい言葉にため息を吐いて、羽多野は来た道を引き返すことにした。

 がっかりだ。遅れていったら、良いポジションは埋まってしまっているだろう。――いや、そうでもないか。そもそも最近は少人数での「サッカーもどき」しかできていないのだから。

 中学年に入り、放課後一緒に遊び友達が少しずつ減ってきた。こんな下町でも年齢が上がるにつれて、塾や習い事に通う子どもが出てきたのだ。

 家が近く仲の良かった関根が学習塾に通い始めたと聞いたとき、なんとなく置いて行かれたような気分になった羽多野は母親に「自分も塾に行きたい」と頼んでみた。

 母は「お父さんに聞いてみなきゃ」と言ったが、数日経っても切り出す気配はない。仕方ないので夕食のときに羽多野が自ら切り出すと、父はにこりともせず「必要ない」と即答した。

「なんで?」

 塾というのは勉強をするところで、勉強をすると成績が上がる。成績が上がるのは学校では「良いこと」とされている。だから一般的には「勉強を頑張る」「勉強ができる」ことは良いことに違いないのだが、そういえば羽多野は一度も家で、勉強をするように言われたことはなかった。

 不満げな息子に向かって、父親は続ける。

「勉強なんかやったって口が達者になるだけだ。おまえは家族や仲間を大事にできて、手に職のある立派な大人になればそれでいい」

「でも……」

 何か言い返したくて、何も浮かばない。それは羽多野も父親の言うことをまったく理解できないわけではなかったからだ。

 教師が勉強の出来る子を褒める一方で、羽多野も友人たちもいわゆる「ガリ勉」をつまらない奴だと敬遠する傾向はあった。それを知っているから「塾に通う」と言いだしたときの関根も、どこか気まずそうな様子だったっけ。

「ほら、関根くんのところはお父さんも区役所だし」

 父と息子の気まずい空気をどうにか中和しようと、母がわざとらしく明るい声を出した。

 確かに関根の父親は区役所で働いている。しかも、作業服ではなく、毎日スーツを着て行くタイプの仕事らしい。羽多野は自分の父親がスーツを着ているところなど、親類の結婚式か葬式でしか見たことがなかった。

 勉強をすると賢くなって、良い大学に行くことができ、良い職業につくことができるのだという。だが、良い職業というのはなんだろう。スーツを着て行くような仕事のことだろうか? だが父は、自分の手でものを生み出さない仕事はろくなものではないと断言する。

 そもそも、大学というのが何をするところなのかがわからない。なぜなら羽多野の身近には大学生も、大学を卒業した者もいないからだ。父親も、その兄弟やいとこたちも、大抵は中学や高校を卒業して地元の工場に勤めている。

 ひとりだけアメリカで仕事をしている叔父がいるらしいが、親戚たちは「あいつは変わり者だから」と声をひそめる。羽多野にとっても、外国に暮らし一度会ったことあるかないかの叔父など他人も同然だ。

 羽多野の父も高校を卒業してからずっと、この下町にある小さな工場で金属加工の仕事をしている。手はいつも傷や汚れでいっぱいだが、本人はそれを職人の誇りなのだと思っているようだ。

 父は毎日ほとんど決まった時間に仕事に行き、同じ時間に帰ってきて、羽多野が遊びから戻る頃には焼酎を飲みはじめている。寡黙なタイプで、勉強云々だけでなくそもそも家庭内でも積極的に口を開くことはないが、性格は頑固で、家庭内の意思決定は常に父親が行っていた。

 羽多野の暮らす借家の近所は道幅が狭く、家々はもたれかかるように建ち並んでいる。あとは味気ないコンクリートの都営住宅。

 最近になって駅に近いエリアでは再開発がはじまり、まとまった数の家を壊してピカピカのマンションが建った。だが駅からもバスを使わなければならないこのあたりには、時間の流れに取り残されたかのような昭和の風情が残っている。

 食うにも着るにも困らない。勉強しろと口うるさく言われないのは気楽でもある。その一方で、テレビをつけると映し出される、高層ビルが建ち並ぶきらびやかな東京の姿はなぜか羽多野の心をざわめかせた。

 遠足では東京タワーに行ったし、家族で動物園や水族館に行ったこともある。だが小学生の日常は、徒歩にせいぜい自転車で移動できる範囲にとどまる。羽多野の暮らす「東京」は、テレビで人々が言う「東京」とは別物のように思えた。

「ああいうのは都心とか副都心とか、ごく一部だけを取り上げているのよ」と母は言う。つまり自分たちの生活と「東京」がかけ離れていたって気にすることはないのだと。

 だから、羽多野貴明は小学校中学年にして自分の将来をおおむね見通していた。

 塾には行かない。多分高校までは地元で通って、そこから父と同じようにどこかの工場に就職する。そしてずっと地元で仕事をして、二十歳くらいになったら結婚する。子どもが生まれたら、その子も羽多野と同じように育っていくのだろう、と。

 夏休みの宿題に出た作文のテーマは「将来の夢」だった。だが、夢とはなんだろう。羽多野は自分の父や、親類のような生活しか知らない。それ以外の世界を思い浮かべることもできない。

 

 

 白衣を取りに学校へ戻ると、靴箱のあたりにまだ数名の女子が残っていた。そういえば放課後はミニバレーボールで遊ぶのだと言っていた気がする。

 忘れ物をしたことを知られたら、からかわれるかもしれない。面倒を避けるため羽多野は自分のクラスの靴箱を避けて、少し離れた場所でそっと靴を脱いだ。

 聞こえてくるのは賑やかなやり取り。だが、楽しそうではない。

「なんか、盛り下がるよね。汚れるのが嫌なら入ってこなきゃいいのに」

「ママに怒られちゃう……だって」

 か細い声の物真似に、どっと笑いが起きた。

「リボンだってさ、いたずらされるのわかってて、なんで付けるのやめないんだろう」

 そこでピンときた。女子たちは遠山京香の話をしているのだ。

 普段は仲良く振る舞い、悪戯をされればかばってやるが、ひとたび姿が見えないと悪口。女子に限った話ではないが、聞いた側としては良い気分にならない。関わらないのが一番とばかりに、羽多野は教室に向かった。

 教室は無人で、羽多野の机のフックには白衣の入った巾着がぶら下がっていた。こんなに目立つものをなぜ忘れてしまったのだろう。過去の自分に八つ当たりしながら袋を取り上げた。

 あとは急いで帰って。荷物を家に投げ込んでそのまま公園に――いや、いっそ遊びに直行しようか。そんなことを考えていると。廊下の方から物音がした。

 顔を上げると、そこには遠山京香がひとりで立っていた。

「……遠山じゃん」

 それ以上何も浮かばないのは、同じクラスに所属しているというだけで、普段から二人のあいだにはほとんど接点がないからだ。もちろん京香は、羽多野が密かに毎日彼女の髪についた飾りをチェックしていることも知らないだろう。

 遠山京香は、教室では浮いた存在だ。

 噂では、彼女の父はこのあたりの出身だが、親から受け継いだ工務店を大きくして今では本社を都心に置いているらしい。大人が噂をすれば、子どもの耳にも入る。彼女がこのあたりの標準とかけ離れた生活を送っていることは誰もが理解していた。

 いつも彼女は一人だけ場違いに、「テレビの中の東京」から飛び出してきた女の子のような格好をしている。長い髪を複雑な形に編み込んで、結び目には必ずリボンか髪飾り。ひらひらしたスカートに、レースのソックス。大抵の女子は動きやすい格好で通学しているのに、京香はいつも人形のような格好を崩さない。

 ――いや、今は珍しく崩れている。 

 昼間のいたずらのせいで、ふたつに分けて結んだ髪の一方だけ、リボンがない。淡いピンクのスカートと白いレース付きのハイソックスは泥水のようなもので汚れていた。

「羽多野くん……」

 見た目は目立つが――というか、黙っていても目立つのでせめて存在感を薄くしようと努力しているかのように、京香は普段からおとなしい。お互い何を話せばよいのかわからず、気まずい空気が流れた。

 もしかしたら、こんな時間に教室に戻ってきたことを怪しまれているのだろうか。羽多野は白衣の袋を手にして、なんとか言葉を絞り出す。

「これ忘れちゃって、取りに来ただけ」

 そっちは? ときこうとしてためらった。汚れたスカートと靴下、さっき京香の悪口を言っていた女子たち。もしかしたら、関わらない方がいいのかもしれない。

 だが、羽多野の視点はすでに洋服の汚れに注がれている。何をききたがっているかはあまりに明らかで、京香もおずおずと口を開いた。

「ミニバレーやってて、転んじゃって」

「ああ」

 羽多野は経緯を察した。さっきの女子たちと放課後ミニバレーボールで遊んでいた京香は、転んで服を汚してしまった。服を汚した京香は「母親に怒られる」と思わず泣きべそをかき、そんな彼女をうっとうしく思った女の子たちは彼女を置き去りに帰ってしまったのだ。ひどいと言えなくもないが、勝手にひらひらした服をきて勝手に泣かれても、困ってしまうだろう。

 本人なりに知恵を使ったつもりなのだろうが、水道水をかけたことで泥汚れは水彩絵の具のように広い面積に広がっている。

「汚れて困るなら、着てこなきゃいいのに」

 思わず羽多野は女子たちと同じことを言っていた。だって、他の女子と同じような格好をすれば、服を汚して泣くことも、それを理由に陰口をたたかれることもないのだ。

 ほとんど話したこともない相手から、突如として辛辣な言葉を吐かれて京香は動揺したようだ。表情が硬くなり、唇を噛みしめてから、彼女なりになんとか反論しようとする。 

「……だけど、お母さんが毎日選んでくれるから」

「それでいたずらされたり、汚して怒られるんじゃ意味ないじゃん」

「うん……それは、そうなんだけど」

 羽多野の正論に、京香は黙り込んだ。

 羽多野は白衣の入った袋を握りしめた。余計なことを言ってしまった、これではまるで自分が彼女を虐めているみたいだ。

 別に意地悪するつもりはない。彼女にも彼女の事情があるのかもしれない。場違いな格好で、場違いな学校に通うこと。それは羽多野の父が塾に通うことを許さないのと同じで、多分子ども自身の意思や希望ではどうにもならないことなのかもしれない。

 多少の差はあれども、ある程度の平準が保たれている教室に、遠山京香の存在はまるで投げ込まれた石のように波紋を起こす。同じ場所にいるのに自分とは違う何か。それは違和感だったり、好奇心だったり、憧れだったり。そして女子たちは彼女を取り囲んだかと思えば陰口をたたき、ある種の男子は彼女の髪飾りにいたずらをして、羽多野は――。

 ふと、京香の左手に白いものが握られていることに気づく。昼間、いたずらで外されてしまったレースのリボン。服を汚しただけでなく、髪の飾りが外れてしまったことも、「お母さんに怒られる」原因になるのだろうか。

「それ、結んでやろうか?」

 思わず口に出していた。さっき口にした厳しい言葉を帳消しにしたいという打算もあったかもしれないが、それ以上に羽多野の心の多くを占めていたのは、あのリボンに触れてみたいという欲求だった。

 昼間、手を伸ばして拾ってやろうとしてできなかった。今なら、もしかしたら許されるかもしれない。

「できるの?」

「わかんないけど……蝶々結びはやったことがある」

 京香は疑わしげな様子で少し迷ってからリボンを差し出した。自分で結び直すことは難しくて、羽多野の申し出に賭けてみようという気になったのだろう。

 羽多野は、京香の手から白いリボンを取り上げた。近くで見るそれは信じられないくらい繊細で、触れたことのないくらい柔らかかった。

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