その指は甘い。だけではなくて(9)

 それは栄の目から見て、いやおそらくは十人に見せれば十人が「素人が作ったにしてはなかなか立派だ」と評するであろう代物だった。

 食器の美しさや果物の品質で下駄を履いている部分はもちろんあるが、プリンの出来映えも盛り付けの塩梅も、実に見事だ。栄がかつて口にした「プリンが好物である」という言葉のみならず、「少々固めのレトロな焼きプリンが特に好き」「子どもの頃、銀座のパーラーでプリン・ア・ラ・モードを食べさせてもらうのが楽しみだった」という付随情報までも、羽多野はしっかり覚えており、可能な限りの再現を試みたのだろう。

「へえ。これは確かに、す……」

 目を輝かせてプリンの皿を見つめながらそこまで言って、栄ははっと口をつぐむ。

 飲み込んだのは「すごいですね」という言葉。

 羽多野が菓子作りを趣味にしているとはついぞ聞いたことがない。もしもそんな特技を持っていたならば、きっともっと早い時期に鬱陶しいほど自慢げに披露していただろうから、きっとこれは羽多野にとっても初めての試み。そう考えると「すごい」以外の感想は出てこない。

 甘いものが食べたいという栄のつぶやきひとつに反応し、決して器用とはいえないナイフさばきで果物を飾り切りして、この皿を作り上げてくれたこと自体は心から嬉しいのだ。

 だが――ここに至るまでの経緯がまずい。望まざるサプライズのおかげで、栄は悶々と悩み、不安な時間を過ごした。そのことへの謝罪もないまま、プリンひとつで誤魔化されてしまうのも悔しいではないか。

 それに、プリンの見栄えが見事なのもはっきりいって栄にとっては面白くない。

 妹の逸が、初めて菓子作りに挑戦したときのことを覚えている。出来上がったプリンは火加減を誤ったのか加熱時間が長すぎたのか、「す」が入って軽石のように穴だらけだった。

 思ったものとかけ離れた出来映えにただでさえがっかりしていた逸は、プリンを一瞥した栄が「何それ、まずそうだな」と言った瞬間、泣き出した。今では敏腕女弁護士として栄のことなど歯牙にもかけない様子の逸だが、当時はまだ「お兄ちゃん大好き」な可愛らしい女子中学生だったのだ。

 後になって母から、逸は初めて作る菓子をマドレーヌにするかプリンにするか悩んで、栄の好物だからという理由でプリンにしたのだと聞かされた。だからこそ「まずそう」という言葉の衝撃は大きかったのだ。

 そんなこんなで、一度も菓子作りに挑戦したことのないくせに、栄は「プリンは意外と作るのが難しい」ことを知っている。だから、いくら飾り切りに苦戦したとはいえ、羽多野がこうもあっさり見栄え完璧なプリンを作ってしまったことに複雑な気分を抱いてしまうのだ。

 羽多野のような男からの奉仕は、いつだって栄の自尊心を満たす。だから彼が自分のために立派なプリン・ア・ラ・モードを作り上げてくれたことは率直にいって嬉しい。しかし栄の心の一部分は依然として羽多野を男としての競争相手とみており、そういう意味では、たやすくプリン作りを成功させた男への嫉妬に似た感情もむらむらと湧き上がる。

 羽多野は栄の正面に座り、身を乗り出さんばかりの様子で反応をうかがっている。さて、この状況で口にすべき言葉は……?

 相反する感情が胸の奥でぶつかり合った結果、栄は素直な感謝の言葉の代わりに、我ながらかわいげの欠片もない台詞をつぶやいた。

「じろじろ見ないでください。食べづらいじゃないですか」

 こんなにもじっくり反応を観察されていると、たかがプリンを食べるくらいのことが恥ずかしく思えてくるではないか。味以前の問題だ。

「第一、どうして俺の分だけしかないんですか? ひとつしか作ってないんですか?」

 栄がぼやくと、羽多野はちらりと冷蔵庫に目をやる。

「いや、まだあるけど」

「じゃあ羽多野さんも食べればいいじゃないですか。甘いものは苦手じゃないでしょう? ひとりじゃ食べづらいですよ」

「……君がそう言うなら」

 なぜだか渋々といった様子で羽多野は冷蔵庫からプリンカップを出す。豪華な盛り付けは栄の分だけで十分とばかりに型に入ったままのプリンにスプーンをさしいれながら、どこかうんざりとした表情なのが不思議だった。

 栄はその理由を深くは考えないまま、とりあえずは羽多野の注意と視線が外れたことにほっとして、そっとスプーンで生クリームとプリンをすくいあげた。

「じゃあ、いただきます」

 ひと口含んだ、それは――普通のプリンだった。

 脂肪分の強いクリームや練乳で濃厚にしているわけでもなく、特別な工夫やアレンジをしているわけでもない。パティスリーではなく、昔ながらの街のパーラーで出てくるような、卵と牛乳にほんのりバニラが香る、素朴で丁寧なプリン。懐かしくてほっとする味だ。

「どう?」

 堪りかねたように羽多野が感想を問う。栄は小さく首をかしげて、言った。

「普通です」

「普通?」

 そして、羽多野の表情がくもるのを見て慌てて付け加えた。

「あ、今の『普通』は、良い意味で」

 今風に言えば「フツーに美味しい」。栄は若者の珍妙な言葉遣いには眉をひそめるタイプだが、今ようやく「普通に」が正当に褒め言葉として機能することを知った。

「ふうん、普通に美味しい、ねえ」

 羽多野は口の中で復唱した。

 短いブランクは挟んだが、一緒に生活するようになってほぼ一年。羽多野は栄の性格を十分承知している。まさか手作りプリンを振る舞ったくらいで目を潤ませて感謝して、絶賛するとは思ってはいないだろう。つまり羽多野は「普通」が今の栄にとって精一杯の褒め言葉であることを理解できるはずだ。

 口にしなくとも本心をわかってくれるはず――という期待を押しつけて、はっきりと気持ちを伝える努力をおろそかにするのは良くない。頭ではわかっているのだが、相手が羽多野のような男であるからこそ素直になれない。

 言葉や表情で嬉しさを伝えることができない分、せめて味に満足していることを示そうと栄は二口、三口とプリンを口に運ぶ。ロンドンにやってきてからはめっきり口にすることのなかった優しい甘さが舌にとろけるのは至福で――同時に、ひと口ごとにせっかくの羽多野の「力作」の残りが少なくなっていくのがもったいない。

「あ」

 そこで、はっと思う。

「どうした?」

「いや、写真撮っておけば良かったと思って」

 深く考えないままの言葉に、羽多野がの表情が一気にゆるんだ。何か変なことを言っただろうかと自らの発言を振り返り、急に栄は恥ずかしさを覚えた。

「写真に残したくなるほど気に入ってくれたなら、また作ってやるよ」

 期せずして栄の本音を聞いた羽多野はにやにやと嬉しそうだ。

「……いや、そういう意味じゃなくて」

 どう言い逃れたって「そういう意味」以外にはないのだが、栄はもごもごと往生際の悪い反論を試みた。

 実際、そういう意味ではないのだ。また作ってくれるのはまんざらではないが、「初めて」作ってくれたことに特別な意義がある。しかも自ら「力作」を自称するくらいだから……。

 そこで、いつもなんでもさらりとこなす羽多野の「らしくない」言葉選びに気づいた。そういえば「仕事休んでまでやるつもりはなかったけど、事情が変わった」とも言っていたっけ。

 夕食が控えめだったとはいえ、たっぷりのフルーツとプリンをハイペースで平らげていく栄と比べて羽多野のスプーンを持つ手の動きは鈍い。栄は意を決して質問を口にした。

「羽多野さん……この『力作』が完成するまで何回試作したんですか?」

「え?」

「もしかして食欲なさそうなのは、何度も味見したからなのかなって」

 羽多野は少し迷う素振りを見せてから、珍しく体裁悪そうに笑った。

「この二日で、一生分くらいのプリン食ったよ」