ミカドゲーム(1)


毎年11月11日が過ぎてから「そういえばポッキーゲームネタ書きそびれたなあ」と後悔するので、季節関係なしに、覚えているうちに書いてしまうことにしました。というネタ。


 

「いや~、本当にこれ、弱っちゃうよねえ」

 大きなため息に、ちょうどコーヒーをいれて戻ってきた栄は立ち止まる。視線を向けると、久保村が見つめるディスプレイには外国為替のマーケット情報が映し出されていた。

「本当、終わりが見えませんね」

 弱っちゃうよね、という言葉には完全に同意する。

 ここ最近の極端な円安のせいで、日英貿易を主とする経済関係の情報収集や交渉ごとを主たる業務とする経済アタッシェである栄の仕事は一気に忙しくなっている。

「ドルユーロポンド、全面的にこれだけ下がると、輸出メインの企業は好況になるにしたって、輸入関係や物価にどれほどの影響が出ることになるか……」

 久保村につられて、思わず栄の口からもため息がこぼれた。

 日本の役所からも、現地日系企業から緊急で情報収集せよとの連絡があった。すでに先回りしてアポイントメントの依頼はしていたところだが、そういえばそろそろ返事は来ていないだろうか。そんなことを考えピリッとした気持ちになった栄だが、緊張の糸は次なる久保村の言葉に断ち切られる。

「こういうとき、円建てで給料もらってるとしんどいよねえ。息子の保育料も家賃も、何もかもが実質値上げ」

「……なんだ、そっちの話でしたか」

 どうやら久保村は仕事ではなく、円安が家計に与える影響に思い悩んでいたらしい。拍子抜けした栄はマグカップを取り落としそうになった。

 自分たちは国家公務員として在外公館に勤務する身で、当然給与は円建てで受け取っている。とはいえ毎年法改正は行われ、為替や物価差は一定程度給与に反映されるし、そもそも生活するには十分な賃金を受け取っている。

 とはいえ「十分」というのは比較対象次第の話。公務員である自分たちの給料など、恵まれた待遇の民間企業と比べれば大きく見劣りする。現地のコンサルに勤務する同居人の羽多野が、栄よりずっと少ない労働時間で栄よりずっといい給料をもらっている現実からは、普段できるだけ目を背けるようにしている。

 人に金の話をするのは品性に欠けるというのが栄の立場だが、かといって久保村の悩みをくだらないとまでは思わない。誰を養う責任があるでもない栄と比べると、妻と子のいる久保村の方が円安の打撃も大きいに決まっている。

 呆れた顔を見せてはいけないと思い直し、栄は表情を引き締める。

 が、そんな努力などどこ吹く風。続けて久保村は、どこまでもマイペースな悩みを口にした。

「お菓子が……」

 その単語は、栄を今度こそ完全に脱力させるに十分なものだった。

「は、お菓子?」

 聞き間違いかと復唱すると、久保村はうんうんと神妙な顔で頷いた。

「そう、お菓子。日本からの輸入品ってただでさえ高いのに、ここのところの原油高と円安の影響もろに受けてるじゃない。今後もますます値上げされるの確実だよね。輸送が遅れがちだからか品揃えも悪くなってきてるしさ」

「はあ」

 経済情勢より家計を気にする程度ならまだ理解できるが、さらにスケールダウンしてとうとう「お菓子の値段」。

 そういえば、午前十時と昼食後のデザート、さらには午後三時ときっちり訪れる久保村のおやつタイムに、日本の菓子が登場する頻度がここのところ減っていただろうか。以前は栄や他の同僚に「パイの実食べない?」などと箱を差し出してくることもあったが、そんな気前の良さも最近めっきり影を潜めている。

「それは……、すごく久保村さんらしい悩みですね」

 呆れ半分、一方でどこまでも深い飲食への愛情への畏敬半分。マグカップを手に栄は苦笑いする。

 久保村は机の中から食べかけの「たけのこの里」を取り出して、まるで宝石を扱うかのような丁寧さで中身を確認した。どうやら名残惜しくて最後のひとつを取っておいたらしい。

「奥さんからおやつ代の上限設定されてるんだけど、ここのところの値上げ続きで買える量がめっきり少なくなっちゃって」

 たけのこ型のチョコレート菓子、最後のひとつを口に放り込んだ後も、小太りの同僚はぶつぶつと日本の菓子類への愛情をつぶやき続けた。

 ――これは、まずい。

 なんとか笑顔を浮かべたままでいるものの、栄はうすら寒い気分になる。円安が解消するまで毎日おやつタイムに久保村の愚痴を聞かされ続けるのかと思うと、気が遠くなりそうだった。

「日本と同じお菓子で、普通に売っているものもありますよね」

 オレオとかキットカットとか、と普段ほとんど口にしないジャンクな菓子の名を口にしてみる。それらの代替品に目が行けば、少しは久保村の気分も明るくなるのではないか。少なくとも職場でくだらない愚痴をこぼすことはなくなるかもしれない。

 だが、菓子の知識では圧倒的に久保村に劣る栄の努力は儚く散る。

「あれは、それぞれの国でライセンス展開してるから、そもそも日本のとは味が違うんだよ」

 経済官僚としてライセンス生産の件くらいは知っているが、同じ商品でも国によって味が異なることまでは知らなかった。

 そういえば過去に日本で食品メーカーの視察に行ったとき、地方ごとの嗜好に合わせて味付けを調整しているのだと聞いたことがある。同じ国内でもそんな配慮をするのだから、首が違えば味を変えるのも当然のことなのだろうか。

「谷口さんはチョコ菓子なんか食わないからわかんないのかもしれないけど」

 拗ねたような久保村の言葉には、さすがにちょっとカチンときた。

「俺だってたまにはそういうの食べることもありますよ」

 もちろん栄のいう「たまに」は、数ヶ月に一度、数年に一度レベルの話なので久保村の指摘は正しい。しかし、少年時代からずっと「人より格の高い人間だと思われたい」という自尊心と、「とはいえ、お高く止まっていると思われたくはない」という外面との板挟みでもがき続けてきたのが栄なのだ。

 人並みにスーパーマーケットで売っているジャンクな菓子を食べることもある。家柄容姿仕事ぶり、何もかも突出しているにもかかわらず親しみやすい人間である――と主張したいがために、栄はおぼろにしか記憶していない菓子コーナーの食品棚を思い出そうとした。

 そして、絶好の存在を思い出す。

「だったら、ポッキーはどうです? 近所のスーパーマーケットで売ってましたよ」

 白い箱に青のポイントが入った箱は日本のものとは異なるが、あれは確かにポッキーだった。名前が違うので一瞬コピー商品かと思ったが、パッケージの片隅には見覚えのあるメーカーロゴが鎮座しているところからして本物だと判断した。

 と、突然背後から別の声が割り込んできた。

「ミカド、ですよね」

 振り向くと、そこには別フロアで働く同僚の長尾が立っていた。

 在外公館ではプロパーの外交官の他に、他省庁や、ときには民間から派遣された職員が多く勤務している。栄が産業開発省、久保村が保健省からの出向者であるように、長尾は防衛省から派遣された自衛官である。

 いかにも真面目な好青年――いや、同世代アラサーに「青年」は言い過ぎか――の長尾は大使館では少数派の独身仲間ということで、赴任直後から親切に声を掛けてくれた。

 英国生活に溶け込む手助けをしてもらった恩はあるし、長尾に悪い印象は一切ない。しかし羽多野という同居相手以上の存在ができた今となっては、いくらただの同僚とはいえふたりきりで飲みに行くのもはばかられ、長尾からの酒の誘いを断り続けている。それどころか、悪意のかけらもない誘いを拒絶せざるを得ない後ろめたさに耐えかねて、栄は長尾をさりげなく避けてすらいるのだった。

 そんなこんなで長尾と顔を合わせるのもしばらくぶりだが、彼は相変わらず人懐っこい態度で自然に会話に入ってくる。長尾が不義理を気にしていない様子であることに、栄は安堵した。

 そして話題は「ポッキー」がこの国では「ミカド」という奇っ怪な名称で売られている件に移る。さらに「ミカド」と「ポッキー」に味の違いはあるのか、などの雑談で盛り上がるうちに、大切な「たけのこの里」を食べ尽くし悲壮感を漂わせていた久保村の表情もすっかり明るくなった。

 何もかもは、仕事の合間のただの雑談。

 実のところ栄はポッキーにもミカドにも、その味の差異にも一切興味はない。雑談を終えれば内容はすっかり頭から消え、次に久保村が菓子の話を持ち出すいつかまで、それらの存在すら思い出すことはない。

 そのはずだった――。