「おい、俺の靴を投げるな」
寝室から響いてくる声は、無視。ここで相手にするとつけ上がってより大きな声で騒ぎ立てるのが羽多野貴明という男だ。こういうときは構わないのが一番。何より栄には余裕がない。
それに「俺の靴を投げるな」という言い分が気に食わない。どの口でそんなことをほざくのか。靴だって服だって、普段なら持ち物の管理にうるさいのは断然栄の方だ。
羽多野は選ぶものの質は悪くないし、センスだって悪くはない。いかにも米国で培った感性……といったら偏見かもしれないがやや実用主義と合理主義に偏っているのは玉に瑕だが、かつての敏腕議員秘書、現在のエリートコンサルタントとしてはどこに出しても恥ずかしくはないだけのものを身につけている。一方で所有物の扱いは決して丁寧とはいえず、それは絶望的に栄と感性の違う部分なのだった。
物へのこだわりが強く潔癖気味の栄は、私物を手入れするのも好きだ。というか、身につけるものは自分自身の一部だと思っているので、顔や髪や体に手をかけるに近い情熱をもって所有物をケアしている。
靴を例にあげれば、よっぽど仕事が忙しいとき以外は「連続で同じものを履かない」「脱いだ後は汚れを払い、風通しの良い場所で休ませる」「週に一度はしっかりクリームを塗り込んで磨き上げる」を心がけている。靴クリームはずっとフランスの有名ブランドのものを愛用していたが、やや英国にかぶれてきた最近は英国ダスコ社のものにも手を出している。
羽多野はといえば自身で行うケアは最低限。上質な皮革製品を持つ楽しみである革を育てるになどこれっぽっちも関心を示さない。合理的な男は持ち物のケアも外注派。プロの手で鏡面仕上げされた革靴は確かに美しいのだが、栄からすればどうにも風情がなく思える。
服にしたって同様で、いい値段のスーツもコートも、ブラシをかけることは稀。ひどいときは脱ぎっぱなしでカウチやベッドに放ってあり、最終的には我慢できずに栄が片付ける。
今のような関係になる前、日本に逃げ帰った羽多野を追って当時彼が暮らしていた東京のマンションに押しかけたことがあった。足を踏み入れるのも躊躇する最低最悪の汚部屋を当時「栄に拒絶されたショックによるセルフネグレクトの結果」と都合よく解釈したが、もしかしたらあの部屋を作り上げた怠惰は羽多野という男の本質なのではないかと疑いたくなることもあるほどだ。
普段の生活では「もっと持ち物を丁寧に扱え」と説教する栄に神経質とかうるさいとか眉をひそめている癖に、こういうときだけ「靴を丁寧に扱え」などと言われたところで、誰が本気に受け取るものか。やり場のない苛立ちをぶつけるかのように、栄は高級ドレスシューズを手にすると殊更に乱暴に袋に投げ込んだ。
靴や傘。コートハンガーにかかっている衣類。リビングは「念のため」なので目立つ場所にある羽多野の私物を片付け、キッチンに出したままでいた「いかにも二人暮らしっぽい、複数のカップなど」を片付けたところでインターフォンが鳴った。
電話があってからは二十分弱。少し道に迷ったのか、それとも突然の来訪だから気を遣ったのか。いや、そんな気遣いをするくらいなら最初から無理やり押しかけたりはしないか。そういえば普段は丁寧で控えめな割に、長尾という男にはたまにやたらと強引になるところがある。飲みや食事への誘いも、ときに断るのが厄介なくらい――。
集合玄関を解錠して、長尾がエレベーターで上がってくるまでの短い時間に念のためドアを開けて、もう一度羽多野に釘を刺した。
「絶対出てこないでくださいよ。俺、今という今はふざけてるんじゃなくて本気ですからね。もし出てきたら即刻叩き出しますから!」
床部分には靴やら私物やらが詰め込まれた袋が散乱した部屋で、羽多野は拗ねたようにベッドに寝転がり読書の続きをしているようだ。
そして、手元にはどこからもってきたのかグラスに褐色の液体。クローゼットに隠し持っていた高級ウイスキーは以前すべて捨ててやったはずだが、いつの間にかまたコレクションを再開していたのだろうか。まあ、今はそんなこと大した問題ではないのだが。
「わかったって言ってるだろ。どんだけ信用ないんだよ」
「だからそれはあなたがこれまで……」
「あ、インターフォン鳴ってる」
客人の正体を訝しむどころか、栄の文句から解放される好機であるかのように羽多野の声が弾んで聞こえたのはいいのか悪いのか。
今後はこういう場合に備えて羽多野の部屋に外鍵をつけた方がいいのではないかと思いながら栄は再びドアを閉めて、深呼吸してからいつもの「完璧な微笑み」を作った。
休日らしく、カジュアルシャツにデニムというカジュアルな格好をした長尾の姿は新鮮だ。
栄の趣味嗜好とはかけ離れているが、鍛えた体に爽やかで硬派な好青年といった風貌や物腰は、配偶者や恋人がいないのが不思議に思える。というか、お仲間扱いで突撃訪問など迷惑この上ないのでさっさと彼女でも見つけてこちらに構うのはやめていただきたい。
「すいません、この近くに買い物の用事もあったもので突然連絡してしまって」
差しされたビニール袋には日本の食品がいっぱいに入っていた。菓子、乾物、ビール……確かにありがたいが、値段さえ気にしなければロンドンでも手に入るものばかり。わざわざ休日に強引に押しかけてまで渡したかったのがこれかと拍子抜けしてしまうが、もちろんそんな感情はおくびにも出さない。
「助かります、ありがとうございます」
とりあえず感謝の言葉を述べて受け取れば長尾は帰ってくれるだろう。自分の背後の部屋――特に玄関から最も近い部屋の内側には興味を示すことなくさっさと引き取ってほしいという一心でいる栄だが、気がいい反面鈍感な部分のある長尾はわざわざ袋の中に手を入れてふたつの箱を取り出す。それはつい昨日オフィスで話題になった「日本で売っているポッキー」と「英国で売っているミカド」だった。
「ちょうど荷物にポッキーが入っていたんですよね。昨日の話を思い出して、途中にあったスーパーマーケットでミカド買ってきちゃいましたよ」
「……へえ、それはわざわざどうも」
感じ良さを崩さないままで「死ぬほどどうでもいい」という気持ちを伝える術はないだろうか。栄自身はポッキーとミカドの味が同じだろうが違っていようが一切興味はない。そんな話をするなら最初からこの物資は久保村に渡してくれれば、わざわざ日本から海を渡ってきたポッキーも本望なはずだ。
これ以上「目録の説明」が始まっても迷惑なので栄はさりげなく長尾の手から袋を奪い取り、用件を半ば無理やり終わらせようとした。だが、これから出かける用事があるという方便も伝えているはずなのに、なぜか長尾はもじもじと栄の表情をうかがい、立ち去りがたそうな素振りを見せる。
もしかして、部屋に上がりたいのだろうか? 死ぬほど暇なのか? それとも同じ部署の人間には話せないような悩みや相談がある? 栄はいくつもの可能性を考えてみるが、長尾の目的がなんであろうが答えはひとつ。決してこの男を家にあげることはない。
「えっと、長尾さん、申し訳ないんですが俺これから……」
背後を気にして冷や汗でびしょびしょになりながら、長尾に愛想を振り撒くのはいくら腹芸が得意な栄にとっても難題すぎる。プレッシャーに負けて切り出すと長尾は「ああ、そうでした。すみませんお忙しいところ」と言い、それでも名残惜しそうにキョロキョロと廊下を見回してから――予想外の言葉を口にした。
「すいません谷口さん。ちょっとお手洗いをお借りすることはできませんか? 駅のトイレが掃除中だったんで用を足し損ねて」
「トイレ!?」
栄はそのとき思った。さっきの自分はよっぽど動揺していたに違いない。
普通「玄関先までものを届けにくる」人間が罷り間違って家に上がるとすれば、向かう先はキッチンでもリビングでもない、バスルームだ。トイレを貸して欲しいという申し出、そのくらい想像してしかるべきだった。なのに、そんな簡単なことを想定できず、結果としてバスルームには男二人分の雑多な生活用品が置きっぱなしになっている。
「えっと……」
トイレが壊れている、といういかにもな嘘を考えて、流石に却下した。
それに、さっきから長尾がさっきからそわそわと落ち着かない理由が尿意をこらえているからだとすれば? 日本のように治安の良くない英国ではそこらのスーパーマーケットやファストフードショップのトイレが開放されているとも限らないし、場合によってはひどく汚れていたり便器が破損していることすらある。潔癖な栄には、外のトイレを使いたくない気持ちは嫌というほど理解できる。
追い詰められた栄は「1分だけ待ってください! 部屋干しの洗濯物だけ移動させるんで」と言い残し、バスルームに駆け込むと、ランドリーバッグにシャンプーリンスローションなど目につく限りの羽多野の持ち物を投げ込んだ。