言うまでもなく、羽多野は最初から怪しんでいた。
突き詰めれば多分一年くらい前。この家に転がり込んで、栄に少しずつ触れるようになった頃に「自衛官の同僚と食事に行く」と言われた、あのときから面白くなかったのだ。曖昧な感覚ながら、すでに当時の自分は栄に対して執着じみた独占欲を抱きはじめていたのだと思う。
いくら接待の下見とはいえ、ミシュラン星つきのレストランにわざわざ男二人きりで行こうというのは、どことなく勘ぐりたくなる。疑いのまなざしを向けると今日と同じように「相手は好みのタイプでもないし、そもそもノンケに決まっている」と呆れた顔をされたっけ。
その男が「長尾」という名であることは、扉越しに響いてくるやり取りでついさっき知った。さすがにのぞき見するリスクを負う気にはなれなかったので、未だにどんな姿かたちの男なのかはわからない。とはいえ一般的に「エリート自衛官」という肩書きから想像される人物が栄の好みとかけ離れていることは確かだろう。
自身が男として優位に立てる生白い文化系男に弱い、そんな栄の性質は知りすぎるほど知っている。だが、人が必ずしも好みのタイプばかりと恋愛関係に陥るわけではないことも、まさに今現在の自分たちが証明している。
プライドの高さゆえにおだてに弱く、外面の良さゆえに押しに弱い。だからこそ好みではない相手であろうが、強引に粘られるうちにうっかり……羽多野が常日頃から心配しているパターンだ。
「なんでこんなもんが入ってんの?」
袋の一番上に入っていたチョコレート菓子の箱を取り出して、嫌みったらしく栄の鼻先に突きつける。「MIKADO」と大書きされたパッケージ。どこのスーパーマーケットで売っている「ポッキー」の海外展開バージョンだ。
「昨日職場で話題になったんですよ。ポッキーとMIKADOって同じ味なのか、味変えてるのかって。だから気を利かせて、食べ比べできるようにMIKADOも買ってきてくれたみたいです。俺じゃなく久保村さんにでも渡せばいいのに」
責められているようで面白くないのか、ふてくされた表情の栄は早口にまくしたて最後にチクリと付け加える。
「っていうか、聞くまでもなく大体の経緯はわかってるんじゃないですか? あなたのことだから、どうせ盗み聞きしてたんでしょうし」
「盗み聞き!? 人聞きが悪いな。元はといえば君がこそこそ……」
「今日は、こそこそなんかしてません!」
図星をつかれて思わず反論した羽多野だが、この点については確かに栄の言うとおりだ。動揺のあまり説明が稚拙ではあったものの、栄は長尾なる男の来訪について正直に羽多野に明かした。
自分の知らない場所でこそこそ密会されるよりは、把握できる範囲でやり取りしてくれた方がずっとまし。だから栄を責めすぎるのも逆効果ではあるのだが、ほどほどには圧をかけておかないと甘く見られる。などと狡猾に計算してとるべき態度を決めていると言いきれたら、どれだけ楽だろう。
いくら言い訳を試みたところで羽多野は、どこぞの男が栄に粉をかけてくることがただ面白くないだけなのだ。
それに、どう考えても話ができすぎている。
会社でポッキーの話をした翌日に、ちょうど日本から荷物が届く? しかも、ロンドンでも手に入るような微妙な日本食材だらけで、都合良くポッキーが入っていただなんて。
おめでたい栄は疑いを持っていないだろうが、穿った見方をすればこれは「職場の雑談をだしに休日のお宅突撃を敢行した」といえるのではないか。これらの食品はジャパンセンターあたりで買い集めたと考えたほうが、いっそ自然だ。
「もしかして、そいつ、谷口くんと一緒に食べ比べしたかったんじゃないか? しつこく家に上がりたがってたし」
「百歩譲ってそうだとしたら、なんなんですか。帰ってもらったんだから、もういいでしょう」
確かにそうだ。その通り。何も間違っていない。
でもなぜこんなにモヤモヤしてしまうのか。
「……ポッキーって、なんかやらしいよな」
思わず呟くと、栄は一歩踏み出した。顔と顔が近づいて、突然色っぽい気分にでもなったのかと勘違いしかかるが、もちろんそんなわけはない。栄は羽多野の額に手を当ててから、残念そうな顔で首を左右に振った。
「高熱で脳に異常でも出たのかと思いましたが」
市販のチョコレート菓子を性的な概念に結びつけること自体が信じられないと言わんばかり。軽蔑すら感じさせる口ぶりに、羽多野は反論する。
「でも、ポッキーといえばポッキーゲームなんだろ? 若い子は誰でもやるって聞いたことある」
ポッキーゲーム、という遊びを知ったのは帰国後だったような気がする。一本のポッキーをふたりの人間が両端から食べ進めていく、というシンプルなゲームで、先に口を離そうとした方が負け。最後まで口を離すこともポッキーを折ることもなく進めば、最終的にふたりの唇は触れる。ちょっと色っぽく男女の距離を縮めるにも絶好であるため、若者が集まる飲み会や合コンでは定番だという認識だ。
もし長尾なる男が栄に良からぬ気持ちをもっているのだとすれば、このポッキーとMIKADOを口実にその手のゲームをやろうとしていた……というのはさすがに考えすぎだろうか。
あまりに飛躍した考えを、さすがに口に出すのははばかられたのだが、話の流れから気づかれてしまったようだ。栄は軽蔑を込めて羽多野を見る。
「だから、若くもないし、仮に若かったとしてもそんなことやりません。変な妄想たくましくしてる暇があったら、さっきの荷物元に戻してください。靴、つぶれちゃいますよ」
一体つぶれてしまうほど適当に、人の靴をゴミ袋に投げ込んだのはどこの誰だと言いたくなる。栄の勝手な事情で撤去したのだから、元の場所に戻すのも責任を持ってやって欲しい。……というのが正直なところだが、まあ、一緒に片付けというのも悪くはない。
何もなければ栄はすっかり仕事モードで会話も少ない午後を過ごしたところ、こうしてある種の「共同作業」できるのだから。そんなことを考えると、見知らぬ男への警戒心とも嫉妬ともつかぬ感情が徐々に和らいでいくようだった。
それに――。
「確かに君は、合コンとか、若者ノリとか苦手だろうな。体育会系の部活で、どう乗り切っていたか見てみたいくらいだ」
栄の過去についてさりげなく聞き出すには絶好の機会だ。
「苦手ですけど……これでもいろんな意味で浮かないように、努力はしていたんですよ?」
「でも、ポッキーゲームは?」
「しません! 第一、そういうのって男女でするものでしょう。絶対無理だし嫌です」
何度も断って、それでも断り切れず何度か参加した合コンで、表面上は穏やかに、しかし内心は必死に品のないゲームへの参加を断っている栄の姿を想像するのはたやすい。まあ、外向けの王子様スマイルで「俺はそういうのはちょっと」などと言われれば、周囲も無理強いできはしないのだろうが。
「確かに谷口くんは、その手のゲーム好きじゃないだろうな。やったとしてもすごく弱そうだし」
羞恥心の強い栄は、きっとすぐに動揺して自ら顔を背けてしまうだろう。そんな姿を勝手に想像して楽しくなってくる羽多野に栄は不審そうな視線を向けて、小さな声できく。
「そっちこそ、どうなんですか? ずいぶんポッキーゲームに詳しいから、きっと慣れているんでしょうね」
「ないよ」
即答するが、栄は疑わしげなままだ。
「嘘じゃないって。そういうゲームで盛り上がるような年の頃、俺が日本にいなかったの知ってるだろ」
理由を重ねると、ようやく合点がいったようにゆるく首を振る。
「ああ、そうでしたっけ」
「そうだよ」
涼しい顔でうなずく羽多野の頭に去来するのは、貧乏学生なりにたまにはクラブに繰り出したり、酔っ払った勢いできわどいゲームで遊んだ記憶。しかしもちろんそんなことは栄に言わない。羽多野はポッキーゲームをやったことはない。必要なのはその事実だけ。
ともかく明らかになったのは、ふたりともポッキーゲームは未経験であること。そして目の前にはポッキーとMIKADOがある。長尾の突撃訪問にやきもきさせられた代償として、このシチュエーションを逆手に取るくらいは許されるのではないか?
「じゃあさ、やってみる? ポッキーゲーム」
羽多野の提案に、栄は心底意味がわからないといった様子で顔を引きつらせた。