3. 尚人

 順調に仕事を終え、その日最後の訪問先である笠井優馬宅の最寄駅には約束よりも二十分早く到着した。家庭教師にとって遅刻はもちろん厳禁だが、逆に早く着きすぎるのも相手の迷惑になってしまう。駅そばのコーヒーショップで飲みたくもないコーヒーを頼んで時間をつぶした。

 ちょうど約束の二分前に家の前に到着する。決して大きくはないが高級住宅街の庭付き一戸建てはきっと億はくだらないし、カーポートにはドイツ製のセダンが駐車されている。優馬の父がどのような職業に就いているかを聞いたことはないが、間違いなくそれなりの地位の人間なのだろうと思う。

 インターフォンを押すと、女の声で「はい」と返事がある。「こんばんは、家庭教師の相良です」と名乗るとすぐにドアが開いた。

 笠井真希絵は優馬の母で、三十代後半くらいの上品な女だ。華美ではないが身につけているものは品が良く、物腰も言葉遣いも丁寧。尚人は真希絵を見るとつい、権力欲が強く息子の学歴にもこだわる男と見合い結婚した家柄の良い地味な女――そんな意地の悪い想像をたくましくしてしまう。

「先生、ごめんなさい。急に大事な用事が入ってしまって。授業が終わるまでには戻りますから、しばらく優馬を先生にお任せして良いでしょうか」

 優馬の部屋に紅茶とシュークリームを運んできた真希絵は申し訳なさそうに切り出した。特に生徒の年齢が低い場合、尚人の勤める家庭教師派遣会社では二人きりになることを禁止している。もし想定外の事故があったときに責任を取れないからだ。

 だが、現場ではどうしても買い物に行きたいとか下の子の保育園のお迎えがあるとか、様々な事情で保護者から「少しだけ外させてくれ」と頼まれることはある。実際に授業を行う部屋に親が立ち会っているわけでもないので、尚人は臨機応変に対応することにしていた。

「本当は禁止されているんですが、今回だけということならば……」

「すみません。夫の職場に書類を届けなければいけなくて。すぐに戻りますから」

 尚人が頼みを請け負うと、真希絵は安堵の表情を浮かべて急いで部屋を出ていった。

 ――僕の想像も、あながち間違っていないみたいだ。

 こんな夕方から、わざわざ自宅にいる妻に書類を届けさせる必要があるなんて、優馬の父は一体どんな人物なのだろう。きっと頼みを断ったり時間に遅れたりするとひどく不機嫌になってしまい、だから真希絵はあんなにあわてているのだ。家で栄の機嫌を伺ってばかりの自分と真希絵の姿を重ね合わせ、尚人は彼女に同情した。

「お母さんも大変だね。優馬くんのお父さんの会社は遠いの?」

 母親と家庭教師が話をするあいだ手持ち無沙汰に待っていた優馬に、尚人はなんともなしに話しかけた。

「お父さんの事務所は二つあるから、どっちに行くかによるかな。片っぽは近いけど、もう一方はちょっと遠い」

 優馬の答えからすれば、会社経営者、もしくは個人で開業している士業だろうか。だがもちろんそんな話に深い興味があるわけでもなく、尚人はにっこりと営業用の笑顔を浮かべると優馬に授業の開始を告げた。

 笠井優馬はまったく問題のない少年だ。英会話には別途通っているらしく、尚人は算数と国語を見てやることになっているが、算数についてはこの学年でつまづきやすいとされる割り算や小数についても難なくマスターしてしまっているし、男の子にしては国語の読解力も高い。宿題は忘れずにやるし、学校の内容を多少超えたところまで教えてみても、ちゃんとついてくる。

「今日も全部宿題やってるね、えらいよ。どう、難しかったところある?」

「別に、大丈夫」

 何らかの問題があるとすれば――出来が良すぎて家庭教師としては張り合いがなさすぎることくらいか。今日の午後一番に行ってきた不登校女子ときたら、授業中も大好きなアイドルグループの話に夢中で、話題を勉強に戻すだけで一苦労だった。でも、そのくらいの方が子どもらしくて自然な気もする。

「じゃあさ、そのうち中学受験の準備のときに出てくるかもしれないから、ちょっと難しいことしてみようか」

「うん」

 楽ではあるがやや物足りない授業を終えると七時半。しかし真希絵はまだ帰宅していなかった。もしかしたら優馬の言うところの「遠い方の事務所」に行っているのかもしれない。

 尚人は少し迷った。仕事は終わったのだから自分がここに残る筋合いはない。授業終了までに戻るという約束を破ったのは真希絵だ。一方で、小学三年生の優馬をひとりきりで置いていくことへのためらいはある。

「先生、時間でしょう。僕ひとりでお留守番できるから帰っていいよ」

 幼いなりに気を遣ってくる優馬がいじらしい。どうせ急いで帰宅したところで栄が帰ってくるわけでもないのだから、尚人は少しだけ優馬の留守番に付き合うことにした。優馬はお茶を淹れると言い出したが、危ないからと尚人が止めると冷蔵庫の麦茶をグラスに注いで出してくれた。

 グラスを口元に運ぼうとしたそのとき、玄関のドアが開く音がする。

「あ、優馬くん、お母さん戻ったみたいだよ」

 そう言って立ち上がる尚人に、優馬が何か言いたそうな顔をする。だが少年が口を開く前に、とても真希絵とは思えないドタドタとうるさい足音が廊下を近づいてきた。

「誰だ、あんた」

 その男はリビングに優馬以外の人間がいるのを認めると、不審そうな目で尚人をちらりと見た。優馬の父にしてはあまりに若すぎる男。身長は栄と変わらないくらいだろうか。しかし一見して爽やかでエリート然とした栄と比べると、荒んだ野生動物のような雰囲気すら漂わせている。服装も、洒落てはいるのだろうがストリート系の雑誌やテレビ番組に出てくる若いタレントのような格好は、尚人にとっては馴染みのないものだった。

「えっと、あの。僕は相良尚人と言います。優馬くんの家庭教師で……」

 尚人はあわててソファから立ち上がると直立不動で、口ごもりながら自己紹介をした。感じの悪い男だが、我が物顔でこの家に入ってくるということは笠井家の家族もしくは近しい人間なのだろう。つまり尚人にとっては顧客側の人間なので失礼をするわけにはいかない。

「ふうん、家庭教師。そんなの頼みはじめたんだ」

 男はそう言って、値踏みするような視線で改めて尚人を眺め回した。