一体何が気に食わないのかわからないが、一夜明けても栄の機嫌は直らなかった。寝室から出てくるときには既に小脇にラップトップを抱えていて、そのままダイニングテーブルに座りこむと尚人が入り込めない結界を築いた。
結界――栄が家で仕事するときの状態を、尚人は密かにそう呼んでいる。
栄の仕事に高度な守秘義務がかかっているのは知っている。家で仕事の話をしたがらないのはそれゆえだ。根っから真面目な栄は移動中の資料紛失や情報漏洩のリスクを恐れてできるだけ仕事を持ち帰らないようにしていて、それが帰宅を遅らせる大きな原因にもなっている。
家で仕事をするのは本当にどうしようもない場合だけで、そんなときも周囲に積み上げた資料やラップトップで開いている画面は少しも見られてはいけないとばかり、尚人を遠ざける。
せっかくの日曜日におはようの一言もなくキーボードを叩き続ける恋人の姿にそっとため息をつきながらも、尚人はケトルで湯を沸かし久しぶりにドリッパーを使ったコーヒーを淹れた。集中している栄の邪魔にならないよう、テーブルの上少し離れた、しかし手の届く程度の場所にそっとマグカップを置くが反応はない。
あと一晩で、尚人が心の中で決めた一年間の期限が過ぎることを栄は知らない。尚人がそんな期限を作っていることも、それどころか自分たちがもう三百六十五日も肉体関係を持っていないことにも、きっと気づいていないのだろう。
最初にカレンダーに印をつけたときは、ほんの戯れの気持ちだった。寝室を分けられセックスの頻度が少なくなり、思いつきのように日数を数えることをはじめた。ひとり寝が続くことに寂しさを感じるようになり、一年という期限を最初に思いついたときだって、心の奥底ではそんなにも長い期間栄が自分に触れないことなどあり得ないと思っていた。
浮気を疑ったことがないといえば嘘になる。そもそも性欲の薄い尚人ですら、一年間という年月は体の渇きを感じるに十分な期間だ。栄だって旺盛なタイプではなかったが、まだ二十代の男だ。もしかしたらよそに恋人ができたのかもしれないと不安に襲われることもあるが、仕事で疲れ果てた顔を見るたび下世話な疑念を持ってしまう自分を恥じた。
リビングのソファでコーヒーを片手に新聞を読んでいるふりをして、文字なんてまったく頭に入っていかない。ほんの一メートルくらいの場所に座っている恋人へのどうしようもない距離感と、カレンダーにもうひとつ印を付け加えた後で自分が何を思いどんな行動に出るのか、ということで尚人の頭はいっぱいだった。
椅子を引く音にはっと顔を上げると、栄がラップトップを閉じて立ち上がろうとしていた。仕事に一区切りついたのだろうか。
声をかけようとして、言葉が出てこないことに気づく。昨晩のやり取りで自覚なしに栄の機嫌を損ねてしまったことを思うと、ただ名前を呼ぶことすら躊躇してしまう。
栄は仕事道具をまとめると自室に片付けに行く。リビングに戻ってきたときにはスポーツジム用のバッグと上着を手にしていた。
「泳ぎに行ってくる」
忙しい中でも時間があれば栄はジムに泳ぎに行く。ずっと剣道をやっていて就職してもしばらくは近場の道場に顔を出していた栄だが、いつからか防具は物入れにしまわれたままになった。代わりにジムのプールに通うようになったが、栄曰く一番短い時間で効率的に体を鍛えることができるのだという。週に一度か二度、三千メートルをゆっくりと泳いでいるらしい。
機嫌が良いときの栄だったら、尚人の運動不足を指摘して一緒にジムに通わないかと誘ったり、出かけるついでに何か必要な物があれば買ってこようかと申し出たりしてくる。もちろん今日はただ一方的に外出を告げるだけだ。
「そう、行ってらっしゃい」
尚人の返事を聞いているのかいないのか、すでに栄の姿はリビングから消えていた。
せっかくの休日を一緒に過ごせない寂しさがいくらか。しかし正直なところを言えば尚人も栄の不機嫌にはややうんざりしていたから、リビングから重苦しい空気が消えたことへの安堵の方が大きかった。飲み終わったコーヒーカップを洗うため立ち上がると、ダイニングテーブルの上には中身が丸々残ったままの栄のカップが残されていた。
洗い物を終えて、明日以降の仕事の予定を確認してから教材を見直していると電話が鳴った。そこに笠井未生の番号が表示されているのを見て、心臓が大きく脈打つ。
相変わらず自分勝手で非常識だ。恋人がいるだろうと指摘しておきながら日曜の昼間に電話を鳴らすなんて、まともな神経の持ち主はやらない。しかし手が滑ったとはいえ金曜深夜に電話をかけてしまった尚人なので、普通であれば恋人と過ごしているであろう休日にもどうせひとりきりだと見透かされているのかもしれない。
失礼な行為こそあったが未生はあくまで尚人にとっては生徒の保護者のひとりだ。その彼に迷惑をかけてしまったのだから、金曜の晩のことをちゃんと謝らなければいけない。そんな言い訳で自分をごまかしながら、迷った挙句に尚人の指先は通話ボタンに伸びた。
「はい」
「もしもし、俺だけど」
未生はまるで旧知の付き合いのような気軽さで名乗りもしない。礼儀など持ち合わせていない相手だとわかってはいるが、尚人は思わず返事に詰まった。
「……あんた、優馬のセンセーだよね?」
沈黙に不審感を持ったのか、再度呼びかけてくる声は少しだけ用心深かった。背後にざわめきが混ざっているところからすると外にいるのだろうか。
「はい、そうですけど」
素面だと距離感がつかめない。必要以上にかしこまった尚人に、未生は安堵したように笑った。
「なんだ良かった。反応がないから俺、一瞬電話かける相手を違えたのかと思った」
屈託ない口振りは、先週と先々週の二度にわたって険悪なやり取りを繰り広げたことなど完全に記憶から抜け落ちているようだ。もしくは金曜の夜の一件ですべては水に流されたと思っているか。尚人には相変わらず未生という青年のことがわからない。
「あの、君」
未生がまた妙なことを言い出してはたまらないので、尚人は先手を打って本題を切り出す。笠井さん、未生くん、どう呼べばいいのかわからないので名前を口にするのは避けた。
「何?」
「金曜は、夜中に電話なんかかけてすみませんでした。酒に酔って手が滑ってしまって。よく覚えていないんだけど、朝起きたら長い通話履歴が残っていたから、迷惑をかけたのならば申し訳ないと思って、謝らなきゃと思っていたんです」
「別に、謝るようなことじゃないでしょ。嫌だったら俺だってすぐ電話切ってるし」
未生はあっさりと尚人の謝罪を受け流し、冗談めかして続ける。
「心配しなくても、センセーすぐに寝ちゃったから別にたいした失言もなかったし」
「し、失言? 僕は何か言ったのか?」
そう言われると、酔いとまどろみの中で自分が妙なことを口走ったのではないかと逆に不安になる。焦った尚人は、今日はあくまで未生を優馬の保護者として扱うつもりだったにも関わらず思わず敬語を崩してしまう。
「あ、素が出た」
電話口の向こうで未生が小さく笑う。尚人のよそよそしい態度の綻びを面白がっているような、少し意地の悪い笑い方だった。
「センセーどうせ暇なんでしょ。金曜の夜に何を話したか知りたいんだったら、電話なんかじゃなく会わない? 実は俺もう近所まで来てるんだけど」
「は? 近所!? なんでそんなこと……」
まさか電話番号だけでなく家を知られているとは。ますます動揺する尚人に、未生は楽しそうに種明かしをする。
「優馬に相良センセーはどこに住んでいるのかって聞いたら、麻布のマンションらしいって言うから。家庭教師なんて薄給っぽいのに、意外と良いとこ住んでんのな。俺、六本木にいるんだけど出てこれる?」
全身から力が抜ける。
少しは良い奴かもしれないなんて思った自分が馬鹿だった。休日に家の近くまでやってきて、酔っ払って話した内容を人質に呼び出すなんてまっとうな人間のやることではない。未生は完全に尚人を脅しにかかっている。目的は何だろう、金でもゆする気なのだろうか。
「……センセー聞いてる? 六本木なら来れるよね」
返す言葉もなく呆然とする尚人に、未生が畳み掛けた。