未生がアルバイトを終えて家に着いたのは日付が変わった頃だった。
個人経営の居酒屋でのアルバイトは大学に入って間もなくはじめたのでもう二年目になる。愛想を振りまくのは大の苦手なので厨房希望で入ったはずなのに、若い女に受けが良いとかで最近はホールに出されることも多い。正直不本意ではあるものの、給与に色をつけてもらうということで納得している。
いくらだって稼げるだけ稼ぎたいのが本当のところなのに、妙なところで真面目な店主が学生の本分は学問だと言ってあまり深夜の時間帯にはシフトを入れてくれない。週の前半で客足の少ない今日も十一時過ぎには上がるように言われてしまった。
門扉に手をかけたところで嫌な予感がした。猫の額ほどの庭に面したリビングの窓から明かりが漏れているのだ。優馬は十時には寝るようにしつけられているし、真希絵だって日付が変わる前には寝室に入るのが通常だ。この時間にリビングにいるとすれば父親以外には考えられなかった。
資料置き場という名目で都心にもマンションを借りている父がこの家に戻ってくるのは週の半分程度だ。事前に予定が分かっている場合はできるだけ顔を合わせないよう努力をしてきたが、今日のところはノーマークだった。
引き返すという選択肢もあるにはあるが、昨晩も外泊している以上さすがに三日も同じ服で過ごすわけにはいかない。未生は足音を忍ばせてポーチを歩き、玄関のドアにそっと手をかけた。極力音を立てないように靴を脱ぎ、そのまま二階へ向かう階段へ足をかけたところでリビングの扉が開いた。
「おい、未生。何時だと思ってるんだ」
振り返ると険しい顔をした父親が立っていた。ひとりで晩酌でもしていたのか少し顔が赤い。酔っ払っているということはそれだけ説教をする口の滑りも良くなるということで、未生は小さく舌打ちする。
「……そんなでかい声出すなよ。優馬が起きるだろ」
ちらりと二階に目くばせして父のお気に入りである弟を理由にその場を切り抜けようと試みるが、未生の作戦はうまくいきそうにない。
「優馬を起こしたくないなら、こっちに来い」
父は有無を言わさず未生をリビングに連行した。
部屋の隅には土産菓子の紙袋がいくつも無造作に置いてある。そういえば真希絵が、父は週末地元で会合だと言っていたような記憶がある。毎度のごとく支援者から大量の土産や特産品を押し付けられ東京へ戻ってきたところなのかもしれない。
「おい未生、おまえ毎日遅くまでどこをほっつき歩いているんだ」
ソファにふんぞり返って水割りの入ったグラスを一口飲んでから、父親はドアの近くにふてくされた表情で立ったままの未生へおもむろに説教をはじめた。
「うっせえな、バイトだよ」
必要以上に噛みつくような返事をしてしまうのは、毎日と断言できるほど未生の行動を把握しているわけでもないのに偉そうな父の態度が気に食わないからだ。
「アルバイトなんかやめろと何度も言っただろ。まだ未成年のくせに酒を出す店で働くなんて、まったく何を考えている」
その言葉に思わず失笑が漏れる。
「俺、このあいだ二十歳になったし。それに別にバイトしてるだけで店で酒なんか飲んでないから」
未生の二十歳の誕生日の日、父は連絡のひとつもよこさなかった。もちろん祝ってもらいたいという気持ちもなかったからその日も未生はアルバイトを入れて、それから確か樹とホテルに泊まった。朝になって家に帰ると冷蔵庫には真希絵が準備したのであろうホールケーキがそのまま入っていて、未生のベッドの上には優馬の下手くそな字で書かれたバースデーカード付きのマフラーが置いてあった。
思わぬ反論に一瞬体裁の悪そうな表情を浮かべたものの父は続ける。
「昨日も外泊したらしいじゃないか、母さんが心配してたぞ」
「俺の母さんじゃねえよ」
すかさず未生が言い返すと、父の顔が真っ赤になった。もちろんこれは酒のせいではないはずだ。
「まったく、いつまで子どもみたいなことを言ってるんだ」
身を乗り出した父が拳を固めてテーブルを叩く。だが未生はそんな脅しには動じない。
「事実だろ。あの人のガキは優馬だけで、俺は違う」
「法的には、真希絵とおまえは親子だ」
「そんなの、あんたが勝手にやったことで俺には関係ない」
父の言い分はある意味では正しい。親権が父に移り未生がこの家で暮らすようになったときに養子縁組を結んでいるので、法的には真希絵と未生は親子と言える。だが、その手続きすら知らないうちに父が勝手に進めたものだから、いまも未生は真希絵のことを母親だとは認めていないし、今後も彼女を母と呼ぶ気は一切ない。
「年齢を重ねて少しは落ち着くかと思ったが、相変わらず勉強もせず遊び呆けてばかりで。就職できなくたっておまえみたいな奴、俺の会社では雇わんぞ」
一切反省の態度を見せない未生に父はいつもと同じ捨て台詞を吐く。幸い今日の説教は短い時間で終わりそうだ。
おまえみたいなろくでなしはまともな大人になれない。人並みの仕事にも就けず路頭に迷うに決まっている。そのときに親を頼ろうとしたって、助けてやらない――すっかり聞き飽きた。
「てめえの会社なんか、こっちから願い下げだよ」
そう吐き捨てると未生は父に背を向けてリビングを出て行こうとし、ふと思い出したようにドアの前で足を止める。
「あのさ、偉そうに父親面して説教するけど、俺はあんたがあのとき俺たちに何したか忘れてないんだよ」
すっとリビングの空気が冷たくなるのを感じた。だが父が未生を脅すなら、未生だって持てる武器すべてを使って反撃するまでだ。
「わかってんの? 俺がその気になればあんたの人生も優馬の未来も台無しにできるってこと。こっちには失うものなんかないんだから」
犯罪だろうがなんだろうが、未生が大事を起こせば父はそこまでだ。何十年とかけて積み上げてきた地位も名誉も滅茶苦茶にしてやることができる。そして父も、ひとつ間違えば未生がそれくらいのことはやりかねないと恐れている。だから最終的に長男の放蕩をある程度は許しているのだろう。
「未生……」
呆れたような父の声は少しかすれていた。
「バイトはやめないし、外泊したくらいでうだうだ言われる筋合いねえよ」
未生は振り返らないままリビングを後にして、今度こそ二階へ向かった。
自室に入ってエアコンを付けて、上着を脱いだところで控えめなノックの音が聞こえる。少し遅れて小さな高い声。
「未生くん、開けてもいい?」
礼儀正しく許可を求めてから優馬は未生の部屋のドアを開けた。九歳の弟はパジャマの上に丈の長いガウンを羽織って廊下の寒さに身を竦ませている。
「なんだよ、起こしちゃったか」
あわてて招き入れるがエアコンを入れたばかりの未生の部屋も寒さはたいして変わりない。ベッドに座った優馬にいま脱いだばかりのダウンジャケットを被せてやった。
「ううん、起きてた。眠れなくて」
ぽやんとした目元はどう見ても寝起きで、優馬が嘘を付いているのは明らかだった。でもそんな些細なことで弟を責めるようなことはしない。何より優馬が目を冷ましたのは、階下で言い争う父と未生の声が聞こえてきたからに違いないのだから。
「パパとけんか?」
白い息を吐いて、優馬が心配そうに上目遣いで未生を見る。そんな目で見られるといたたまれなくて、未生はダウンジャケットに付いているファーに縁取られたフードをつかむと、優馬の頭に勢いよく被せた。
「優馬には関係ないって。明日も学校なんだから寝ろよ」
大人用のフードは大きすぎて優馬の顔は鼻先まで覆われてしまう。表情の見えない弟がくすぐったそうに「ふふ」と笑うのを見て、ふと今日――いや日付が変わってしまっているので厳密には昨日――が火曜日だったことを思い出した。
「……そういえば今日、家庭教師の日だったのか?」
「うん。先週の振り替えで月曜に来てもらったから、二日連続だった」
人生初の無断外泊アンド一年ぶりのセックスの翌日ではあったものの、尚人はちゃんと仕事はこなしたようだ。朝帰りして、ご自慢の彼氏とは顔を合わせたのだろうか。あれだけ乱れて腰や尻は痛まなかっただろうか。
だがもちろんそんなことを優馬に聞くことなどできない。頭に思い浮かんだ昨晩の尚人の痴態を振り払いながら、未生は弟の頭からフードを外してやると柔らかい髪をかき混ぜた。
「あの先生、T大出ててすっげえ頭いいんだろ? 優馬だって賢いんだから色々教えてもらってさ、俺みたいな素行不良の馬鹿になるなよ」
「未生くんは馬鹿じゃないよ」
きょとんとした顔をして優馬は反論する。
賢いが運動が得意でない優馬は学校でもどちらかといえばおとなしいグループに属しているらしい。小学生くらいの頃はスポーツが得意で自己主張が強いタイプの子どもに人気が集まるのはよくあることだ。目立たない自分に劣等感を持っているのか、優馬ははっきり物を言い運動能力に優れた未生のことを過大評価している節があった。
もちろんこんなキラキラした目で見つめてくるのはあと数年で、そのうち優馬だって未生が賢くもなく素行も悪い劣等生だということに気づいてしまうのだろうが――そんな将来が来ることを柄にもなく寂しく感じてしまったから、未生は余計な考えを振り払うように弟へ笑いかけた。
「ガキがお世辞いうもんじゃないって。それに、あいつだっておまえを後継にする気だぞ」
そう、父は未生のことはすっかりあきらめている――いや、正確には最初から未生には一切期待などしていない。その代わりに次男にすべての期待をかけて、こんな子どものうちから塾だ英会話だと通わせているのだ。優馬自身もいまのところ勉強が嫌いではないというのは不幸中の幸いだ。
だが未生から「後継」という言葉を聞いた優馬は、特段嬉しそうでもない。
「でもパパいつも忙しそうだし、僕あんまり政治家にはなりたくないなあ」
首を傾げながらそう言うと、再び睡魔に襲われたのかひとつ大きなあくびをした。そろそろベッドに戻る時間が来たようだった。