50. 栄

 猥雑な路地に足を踏み入れるのにはためらいがあった。尚人を裏切ろうとしていることへの後ろめたさと、本当に自分がそんな店に入ることができるのか疑わしく思う気持ち。

 栄の母親は、自身が小児喘息を患った経験があったからか栄と妹のことを過剰なほどに清潔な環境で育てた。部屋はいつでも完璧に片付けられて、床も家具もぴかぴかに拭き上げられていた。おかげで兄妹は完全な健康体に育ったが、その反動で衛生面の基準は高くなる。病的とまではいえないし生活する上で大きな不便はないが、おかげで栄は潔癖になった。

 恋人相手のセックスですら避けている行為はいくつもある。尚人のことは愛しているつもりだが、愛情とは別次元の問題で、栄は性行為のときに尚人のペニスやアヌスを舐めることができない。口淫をされること自体は嫌いではないが、自分の局部を口に含んだ後の尚人とキスすることには抵抗がある。自分ができない奉仕を恋人に一方的に強いる引け目もあり、いつからか二人のセックスからフェラチオは消えた。

 そんな栄が体を売っている人間を相手にすることなどできるのか、自信はない。不特定多数と触れ合った粘膜と接触すること、不特定多数の人間が性行為をした後のベッドに横たわること、いずれも簡単には受け入れられない。だがそれに負けないくらいいまの栄にとって、自身の男性機能を確認したいという欲求も切実だ。

 こんな界隈をうろついているところを人に見られたらどう思われるだろう。落ち着かない気持ちで、栄はなんとか足を進める。

 さっき別れた同期の二人は隣駅の近辺にあるお気に入りの店に行くと言っていたからきっと大丈夫。職場の同僚がときおり行っているらしき界隈とも離れている。気持ちはまるで、初めて書店でアダルト本を手に取った中学生の頃のようだ。まさか三十手前で再びこんな気分を味わうなんて思いもしなかった。

 大量のけばけばしい看板を横目で眺めながら立ち止まる勇気もない栄は、ぎくしゃくと歩いているうちに通りを抜けてしまう。それでは目的を果たせないので意を決してさっきよりも少しゆっくりした歩調でいま来た道を戻る。

「お兄さん、いい娘いるよ。遊んでいきなよ」

 客引きに声をかけられればますます気まずくなり、話を聞くどころかうつむいて足を早めるしかない。あっという間に二周目を終えると、さすがにこれ以上同じ通りを引き返すことにも気まずさを感じる。あまり何度も行き来していると変な奴だと怪しまれるかもしれない。

 やっぱり自分に風俗など無理だ――最終的にたどり着いたのはもっともな結論で、栄は今日のところはひとまず家に帰って頭を冷やそうと心を決めた。そのときだった。

「お兄さん、遊んでかないの?」

 軽薄な声をしつこい客引きだと思い、無視して立ち去ろうとしたところで背後から肩をつかまれた。

「うるさいな」

 振り払いながら思い切りにらみつけてやった栄だが、意外なことにそこにいたのはさっきの客引きの男ではなかった。

「よお、谷口くん。せっかくここまで来たのに店に入らず帰るのか?」

 極彩色のネオンに照らされた長身。そこで嫌な感じの笑いを浮かべているのは、いまや栄の天敵と言っても差し支えのない相手――羽多野だった。

「……っ、何でおま……あなたがここに」

 思わず言葉が乱れそうになり、あわてて立て直す。

 それこそ書店でアダルト雑誌を買っている現場を親か教師に押さえられた中学生の気分だった。まだいくらか残っていた酔いが一瞬で冷めて、同時に全身の血がざっと下がっていくのを感じた。よりによってろくでもない場面を、一番見られたくない相手に見られてしまった。

 だが、落ち着け。自分にそう言い聞かせる。栄はこの近くに飲みに来ていただけだし、決していかがわしい店に足を踏み入れたわけでもない。それに風俗街をうろついているという意味では羽多野だって同じ立場なのだから、決して栄ひとりが気まずさを感じる必要などないはずだ。

 あからさまに動揺する栄を見てかすかに眉を動かして、羽多野は肩越しに後ろの方を指で示して見せる。

「俺はね、あれの引率。うちの先生の後援会の面々が上京しててさ、たまにあるんだな。せっかくだから東京の店で遊んでみたいっていうやつ」

 羽多野の数メートル後ろでは五人ほどのスーツ姿の男がいままさに一件の風俗店に入ろうとしているところだった。遠目に見る限りその面々には見覚えがなく、特例法の関係で栄に陳情を繰り返している人々とは別グループのようだ。

 それにしたって政治活動で上京したついでに風俗店とは、いささか不健全にも思える。そんな栄の呆れた表情に気付いたのか、羽多野は普段あまり見せない取り繕った笑みを浮かべた。

「まあ皆さんもたまには息抜きが必要ってことで。勝手に変な店行ってトラブル起こされても困るから、俺は優良店のご案内。格好悪いがこういうのも秘書業務のうちってことで」

「はあ、そうですか……」

 正直死ぬほどどうでもいい。仕事ではない場所で好き好んで羽多野と顔を合わせる義理などないから、とにかく栄はこの場を立ち去りたかった。だが羽多野は馴れ馴れしく栄の肩を叩き、隣に並ぶ。

「で、谷口くんこそ、今日はちょっとした息抜きってわけ? もしかして声かけて邪魔したかな」

「だから、誤解です!」

 ――いや、完全にそうとも言えないのだが、すでにその手の店に行くことを断念していた以上誤解だと言い切りたい。苦手な相手に弱みを握られる瀬戸際に立たされて、栄は必死に否定する。

「久しぶりに会う友人とこの近くで飲んでいて……」

「飲んだついでに下半身もすっきりしたいって?」

 衆議院議員のブレインとしてはあまりに品のない言葉に言葉を失う。口も感じも悪く、横柄でしかも品がない。もしかしたら政策には詳しいのかもしれないが、笠井志郎がなぜこんな男を政策秘書に据えているのかは理解に苦しむ。

「前から思っていたんですが……いえ、何でもないです。失礼します」

 思わず正直な所感を述べたくなり、何とか思いとどまる。この手の男は自身の品性のなさを自覚している割に正面切って指摘されれば逆上するものだ。これ以上羽多野との関係を悪化させても栄に得はない。

「いいよ、言えよ。いまなら酒のせいってことにしといてやるから。うちの議員や俺に不満が溜まってるんだろう。くだらない案件に本省のエリート補佐様の貴重な時間と労力を浪費させやがってって」

「そんなことは……」

 もしかしたら羽多野も幾分酔っているのだろうか、普段以上に口が回る。だが言いたいことを先回りされてしまうと、あえて追認する気にもなれない。栄が口ごもると羽多野はさらに調子に乗った。

「前にも言ったけど、そういういい子ぶった役人って俺本当に嫌いでさ。谷口くんがそういう態度なら議員に話して主意書の一本や二本……なんだ白けた顔して、冗談だとも思ってるのか」

「思ってませんよ。あなたはそういうことをやりかねない方ですから。でも、いくら議員秘書だからって役所に対して強要みたいなことは……」

「なんだよ、国民の知る権利の正当な代理行使だぞ!」

 力強く言い返されて栄はため息を吐く。ろくに食わずに酒ばかり飲んだせいか、胃がしくしくと痛みはじめた。何が悲しくて酔っ払った議員秘書と風俗街で言い合いになった挙句、仕事で意趣返しされなければいけないのか。呪われているとしか思えない。

「ですから、私は普段から誠心誠意対応させていただいてますし、これからもそのつもりです。なので、笠井先生や羽多野秘書も理性的に……個人攻撃のようなことは控えていただけると」

 さすがに自分の言動が原因で主意書爆弾は勘弁して欲しい。栄ひとりのみならず、省内のあらゆるところに迷惑をかけてしまう。

「ふうん、谷口くんは俺が君を個人攻撃していると思ってるのか。実に立派な官僚のかがみだな。個人攻撃されても健気に我慢して、おおかた、うちの先生の政務か役付きが近いから刺激するなって上に言われて粛々と対応してるってとこかな」

 低姿勢になった栄に、羽多野は気を良くしたようだった。

 あからさまに職責を明かしての会話はどうかと思うが、幸い夜道での男二人の小競り合いに通りすがる人々は関心を示さない。細い路地の隅に立ち止まって、栄はこの酔っ払いをどうあしらうべきか途方に暮れた。悪質な絡み方をしてくる割に言っていることが正論なので、対応に困る。

「……羽多野さん、あなた酔ってますよ」

 真顔で告げる栄に、羽多野もふと真剣な調子になる。

「……大体、谷口くんは役人やるには真面目すぎるしプライドも高すぎる。いつも顔色が悪いし、さっさと白旗あげて暇な部署にでも動かしてもらった方がいいと思うけどな」

 その言葉に疑念が確かなものになる。羽多野は単なる仕事上の利害関係を超えたところで栄という人間に対して悪意を抱いている。

 心当たりはないが、この世の中には特段意味もなしに気に入らない相手を痛めつけようとするろくでもない人間もいる。羽多野もそういった人間なのかもしれない。もしくは無能な上司への苛立ちを弱い立場の栄相手に解消しようとしているとか。いずれにせよ迷惑な話だった。

「あの、羽多野秘書が私のことを個人的に嫌っているのはわかります。ですが、私個人への悪意と特例法の件は分けて考えていただかないと困ります」

「俺は確かに性格が悪いかもしれないけど、性分なんだよ。折れそうなとこ無理して突っ張ってる奴見るとへし折りたくなるの。だから、谷口くんがそういう取り澄ました態度取る限りは特例法以外にもいろいろお願いすることも多くなるかもしれないなっていう……」

「待ってください。一体何の話を?」

 これは完全な脅迫だ。何が気に食わないのか知らないが、羽多野は栄がいまのポストから去らない限り特例法以外にも栄の業務範囲への嫌がらせを続けると言っているのだ。これまでにも癖の強い議員や秘書の対応はずいぶんやってきたつもりだが、目の前の男は群を抜いている。

「前にもやりとりしていた役人が倒れて急に担当が変わったことが何度もあるんだよな。ろくな引き継ぎもなしに。ああいうのは迷惑だからやめてほしいんだけど」

 これでは遠回しに、ポストに居座れば潰すと言われているようなものだ。だが、ここまで直接的に脅されればむしろ栄の負けん気は駆り立てられた。

「お言葉ですが、私は健康が取り柄です」

 おまえの脅しになど決して屈したりしない、そんな気持ちを込めて栄は力強く言い切った。

 もしも笠井事務所の無茶振りに負けて体調でも崩そうものなら、それこそ羽多野の思い通りだ。栄はいままでだって無理難題だと言われる仕事を片付けてきた。自分にはそれだけの能力があるし、だからこそ次の異動先には出世ポストを提示されている。

 言葉は穏やかに、しかし栄は羽多野を力の限りににらみつけた。冷徹な男と視線が絡み、数秒の後に目を逸らしたのは羽多野の方だった。

「ふうん、まあどうでもいいけどね。とりあえず下半身処理やめたなら君、今日のところは帰って寝たほうがいいんじゃないか」

 少なくともにらみ合いには勝ったというささやかな優越感。栄は口元に笑いを浮かべて慇懃無礼に頭を下げる。

「そうですね。ショートノーティスで頻繁に難しい宿題を下さる先生もいらっしゃいますから、休めるときに休ませていただきます」

 いくら議員事務所に対して圧倒的に弱い立場だからといって、いつまでもやられっぱなしでいるとは思われたくない。少しでもやり返せたという満足感のままにその場から立ち去ろうとするが、そんな栄に羽多野は思い出したように言葉を投げる。

「あ、そうだ谷口くん。今日、役所宛てにパーティーの招待状送ったから」

「は?」

 栄は思わず聞き返す。パーティーというのは、笠井議員の後援会が主催する政治資金パーティーのことだ。通常は支援者などが数万円のパーティー券を購入して出席するものだが、付き合いのある省庁の幹部などには賑やかしのため献金を伴わないかたちでの招待状が送られることがある。

 立食パーティーへの形式的な出席であれば国家公務員倫理法上も問題がないため政治家への顔つなぎを兼ねて出席する上司や同僚もいるが、栄はそういった付き合いを好まない。それもまた周囲から潔癖と呼ばれる所以だった。

「羽多野さん、恐縮ですが私はそういう席はすべてお断りしているんです。仕事も忙しいですし」

 栄は何とかこの場で断りを入れようとするが、羽多野は意地悪く笑うだけだ。

「へえ、忙しいって、風俗街うろついてる暇はあるのに? 別に遊びってわけじゃなくて、地元の支援者も来るから今後のために挨拶してもらいたいと思ってるだけだよ。赤坂だから近いだろ。三十分でいいから顔出せよ」

 有無を言わさずそう告げて、羽多野はこれまでのしつこさが嘘のようにあっさりときびすを返した。栄は呆然とその背中を見送る。

 少し遅れて湧き上がるのは猛烈な悔しさだった。たかが議員秘書のくせに何様のつもりで命令をしてくるのか――絶対に、死んだってあんな男に負けるもんか。もはや中森とのやり取りに感じたもやもやなどすべて頭から消え去った。

 いまの栄の頭の中は、何とかして羽多野を見返してやりたいという気持ちだけ。だから体の芯を蝕む疲れも、尚人との膠着した関係への悩みも、いまこの瞬間も栄を苦しめる胃の痛みも、何もかも見ないふりをする。

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