52. 未生

 尚人が恋人のことを「栄」と呼ぶのを聞いたことは何度かある。本人は意識していないのだろうが、柔らかく甘い声色で呼ぶその名前はいつだって特別な響きを持って未生の耳をくすぐった。

 栄というのはそこまで珍しい名前ではないけれど、ありふれているというほどでもない。尚人と同じくらいの年恰好で中央官庁勤務。この程度の一致は偶然のうちだろうか、それとも。迷いはすぐに、言葉では説明しがたい確信に打ち消されてしまう。

 目の前に立つ谷口栄のたたずまいは、未生の中で尚人が愛おしそうに話す恋人のイメージとぴったり重なった。

「もしかして、谷口さんって麻布十番に住んでます?」

 思い切って問いかけると、栄は虚を突かれた顔をした。それも当然だ。初対面の相手にいきなり住んでいる場所を指摘されて驚かない人間がいるはずない。

「ええと、確かにその通りですが……どうしてそれを?」

 いかにも訝し気に、しかし礼儀と微笑みは崩さずに栄は聞き返す。未生はあわてて即興の言い訳を紡いだ。

「いや、サークルの関係でよくあの駅使うんで。なんか、見かけたことあるかもって思っただけです。気にしないでください」

「そうですか、私は通勤には六本木を使うことが多いんですけど、休日なんかは十番から乗ることもあるから、どこかですれ違っていたのかもしれないですね。覚えていただけていたなら光栄です」

 未生のその場しのぎの嘘を、栄は軽やかに受け流した。

 スマートな立ち居振る舞いに紳士的な態度。尚人が話す栄の姿そのものの、文句の付けようのない男が目の前に立っている。これまでも特段栄と張り合おうという気持ちを持っていたわけでもないが、なぜだか未生の心は男としての敗北感に満たされた。

 ちょうど会話が途切れたところで、宴会場の中央にあるステージからスピーカーを通した声が響いてきた。

「では皆さま、このあたりで来賓の皆様からご挨拶を賜りたいと――」

 全員の視線がステージに向く。ちょうどいい頃合いだと思ったのか、「では私はここで」と再び会釈すると、栄は受付に背を向けて招待客の波の中に歩いて行った。

「……未生くんは記憶力いいんだな。通りすがりの人の顔を覚えるなんて」

「偶然だよ」

 背後に立つ羽多野から感心したように言われてひどく居心地が悪い。根拠も何もないのだが、この男は何もかもを見透かしたような態度をとることがあって、だから無性に不安になる。

 自らの嘘を葬るためにはこれ以上栄の話はしないほうがいいとわかっている。だが自制心に好奇心が勝り、未生は振り向いて羽多野に問いかけた。

「――あの谷口っていう人。何の関係があってここに来てるわけ?」

 政治の世界にも社会の動きにも関心はないから、役人がなぜ政治家のパーティーに足を運ぶのかわからない。しかもよりによって未生の父の。

「ああ、彼の部署が作った法律に改善してもらいたい点があるから、先生からたびたびお願いをしてるんだ。公務員から金は取れないから招待客扱いで、まあ顔つなぎだよ」

 言われている意味はよくわからないが、ともかく栄をここに呼ぶ必然性はあるようだ。とはいえ尚人の言うように日々激務に忙殺されている男が呑気にパーティというのには違和感が残る。

「でも官僚ってすっげえ忙しいんだろ? パーティなんか来てる暇あるのかよ。タクシー帰りの日も多いって……」

「未生くん、詳しいんだな」

 何気なく口にする羽多野の言葉にいちいち後ろめたさを感じてしまうのは、自分が尚人の恋人についての情報をこそこそ聞き出そうとしている自覚があるからだ。

「……いや、友達が公務員目指してて、やばいくらい残業あるらしいって言ってたから」

 もちろん未生のような三流大学生の周囲に官僚を目指す友人などいないのだが、思いつく言い訳はそれが精一杯だった。

 羽多野はちらりと視線を人波の方へ向けた。人混みに紛れてしまって未生にはわからないが、羽多野の目には栄がどこにいるのかが見えているのかもしれない。

「確かに忙しそうではあるな。あいつも一応見た目はぴしっとしてるけど顔色悪いし、シャツの襟も袖口も余ってるから過労で急に痩せたんじゃないかな。まあ、ああいう奴らにとってはここに顔出すのも仕事のうちだよ。どうせ三十分もしたらまた役所に戻って仕事だろ」

 事もなげに羽多野は言うが、仕事が原因で短期間にシャツのサイズが変わるほど痩せるというのは未生にとっては恐ろしい話に思えた。

「本当に忙しいんだな……」

 思わずつぶやきがこぼれる。

 未生はこれまで心のどこかで尚人の言葉を疑っていた。エリートの恋人とやらは残業を言い訳に外で遊んでいるのではないか。間抜けな尚人が気付かないだけで恋人の心は既に離れてしまっているのではないか――。だが、どうやら尚人の言っているとおり、栄の多忙は単純に仕事のせいであるようだ。

「まあ、俺の言うことじゃないけど因果な商売だと思うよあいつらも。議員や秘書ってのも大概だがな」

 ふう、とひとつ息を吐く羽多野は羽多野でいくらか疲れているように見えた。

 いいかげん帰ろうと思ったところで、ちょうど秘書の女性がドリンクの入ったグラスを二つ持ってきた。未生の年齢がわからず配慮したのかわからないが、勧められたグラスの中身は酒ではなくオレンジジュースだった。もうひとつは烏龍茶。羽多野も仕事中だから酒は飲まないのだろう。

「あ、俺はいいよ」

 未生に先んじてドリンクの勧めを断った羽多野の手に、女は半ば強引にグラスを押し付ける。

「でも受付もだいぶ落ち着いてきましたから、羽多野さんも少しは休憩してきてください。昼から水も飲まずに走り回っていたじゃないですか」

「……じゃあ五分だけ。せっかくだから未生くんも五分だけ俺の休憩に付き合えよ」

 羽多野は未生の手の中にもグラスを押し込むと、来賓挨拶の続く宴会場の外に出るよう促してきた。この何の意味があるのかわからないパーティのために、羽多野や他のスタッフも相当な負担を強いられてきたのだろう。

 会場の外に出ると、客がほぼ中に入ってしまったせいか人影もまばらになっていた。あふれかえる人の圧やそれぞれが好き勝手に話している声に疲れを感じていた未生は、泳ぎ終えて水上に顔を出したときのような気持ちになった。

「すっげえ人だったな。あの中にいるだけで、ちょっと酔った」

 窓際のソファに座り込んだ未生がうんざりした声を上げると、並んで腰掛けて羽多野は笑う。

「これだけの人が集まってくれてるんだ、未生くんも少しはお父さんを尊敬する気持ちになったか?」

 馬鹿げた質問を未生は鼻で笑う。

「なるわけないだろ、笑わせるな」

「まったく、子どもだねえ。まあ、君の生い立ちや境遇には同情しないわけじゃないけどさ」

 事情を知っている他の人間ならば怖がって決して言わないようなことを、羽多野はためらわずに口に出す。こういうのもこの男の怖いところだ。さっきの男のことだって「谷口くん」と馴れ馴れしく呼び「議員からお願い」などと殊勝な物言いはしているが、もしかしたら尚人を苦しめる恋人の残業地獄のいくらかは他ならぬ羽多野によって作り出されているのかもしれない。

「いらないよ。あんたに同情されたって一銭の得もないからな」

 ともかく相手が誰だろうと未生は同情など欲してはいない。ただ一日でも早く自立して父親ともあの胡散臭い家庭とも縁を切りたいだけだ。

 だが羽多野は周囲に人がいないことを確かめてから声を潜めた。

「ただまあ、君の生い立ちの関係は俺たちにとって頭が痛いところでもあるんだな。先生も今年の総選挙で再選されれば四期目だろ? そうすると党の役職とか、どこかの省庁の政務三役あたりもあり得るからって、最近はあれこれ嗅ぎまわってる奴もいるみたいなんだよな。有り体に言えば、金とか女性関係のスキャンダルとか」

 要するに議員としてのキャリアを重ねれば重ねるほど、敵も増えるということだろうか。だが、誰かが父を陥れるのなら望むところだ。

「……なんか出てきたら面白いな」

 報道に疎い未生でも、ときたま国会議員の不祥事で世の中が吹き上がることは知っている。不倫だとか不正献金だとか、果てには家族の不祥事が問題視されて役を退いたり、ひどい場合は議員辞職するケースだってあるだろう。父がそんな不幸に見舞われるところを想像すると無性にわくわくしてくる。一方で羽多野にとっては一蓮托生である議員の不祥事は面白がることなどできない深刻な事態だ。渋い顔で未生の不謹慎な物言いを諫めた。

「おいおい、未生くんにだって他人事じゃないだろう。笠井先生が政治の世界を目指すに当たって糟糠の妻と幼子を捨てていた、なんて法的に問題がなくたって週刊誌は面白がるに決まってるんだから」

「議員になるために水商売女を捨てて地元の名士の娘と再婚するのがそんなに珍しいか?」

 未生は笑う。そんな話、父を古くから知る人々の間では周知だ。いまさらスキャンダルとして取り上げられるとも思えなかった。

「人は地位のある人間のスキャンダルが大好きだからな。以前は誰も問題にしなかったことが、立場変われば糾弾の材料に使われることなんていくらだってある。捨てられた先妻が心を病んで失意の中で世を去ったなんて絶好のネタだと思うし、きっと奴ら、捨てられた息子のコメントも欲しがるぞ」

「さすがにそういうのは面倒くさいけど……それであいつに傷がつくなら悪くないのかも」

 自分がマスコミに追い回されているところを想像するとうんざりするが、いざ父と刺し違える気になればそういう手段もあるのかもしれない。未生の笑いを横目に、羽多野はすっかり呆れた様子だ。

「完全にこじらせちゃってるな」

 ため息を吐く男に、未生は空になったグラスを押し付ける。谷口栄なる人物をこの目で確かめることができたのは収穫かもしれないが、長居しすぎたし喋りすぎた。

「じゃあ、俺、帰る」

 そう言って未生が立ち上がると、羽多野もグラスに残った烏龍茶を飲み干して椅子から立つ。

「おう、今日は助かったよ。高くついたけど先生にどやされるよりはな」

 この男が父親に怒鳴られ責められているところを想像して、あまりの不似合いさに未生は肩を竦めた。

「俺はなんであんたみたいに賢い奴が、あんなくそ野郎にいいように使われてるのかが不思議だよ」

「そこへんは坊ちゃんにはわからない世の中の仕組みがあるんだよ」

 羽多野もニヤリと笑い、腕時計に目をやると未生に背を向けて宴会場に向かって歩き出した。

 世の中の仕組みというのがどれほど重要でご立派なものなのかは知らない。だが、そんなもののためにあの男が好き放題に周囲を振り回し、未生や母をどん底の生活に追い込んだのだとすれば――未生は決してそれを知りたくも理解したくもない。