77.  栄

 想像はしていたが、聞かされた話は栄にとって快いものではなかった。

 栄の生活が仕事中心になり自宅での態度が冷たくなるにつれて尚人が息苦しさを感じるようになっていたこと。栄には尊敬や憧れそして愛情を持っているが、その一方で他人への評価の厳しさが自分自身にも向けられることにプレッシャーを感じていたこと。大学院を辞めて以来、栄のあからさまな落胆に対してどう振る舞えば良いかわからなくなったこと。そして――セックスレス。

「自分から言いだすべきだってわかっていたんだけど、栄はそういうの嫌かもって思ったらどうしても。仕事が忙しいこともわかっていたし、いまの僕にはそういう気にもならないのかとか……色々考えすぎちゃって」

「ナオ」

 すべてのことが耳に痛い。何も言ってくれなかった尚人を責めるのは簡単だが、そういった話題を切り出せない空気を作った責任の一端は栄にもある。

「一年間続いたら一日だけ他の相手を探そうって思ってた。毎日カレンダーにバツ印を付けて、今日こそはって思って。最初はただの気晴らしの妄想のつもりだったのに、いつの間にか捕らわれて」

 その話を聞いて、以前尚人の部屋で見かけた卓上カレンダーを思い出す。たくさんのバツ印に埋め尽くされた、あのときそれが何なのかに気づいていれば、栄は尚人を止めることができたのだろうか。

「あのカレンダー、そういう意味だったんだな」

 思わずつぶやいた栄に尚人は一瞬驚き、それから体裁の悪そうな顔をした。

「見られていたんだね、ごめん。それで……ちょうど一年経つ頃に言い争いみたいなこともあって、ほとんど衝動的に。一度だけだと思っていたんだけど」

「ずるずると?」

「うん……」

 さすがに尚人も栄の顔を見ることができないようだ。うつむいて、声も小さくなる。

 いまさら考えても仕方ないこととはいえ、カレンダーの件といい、あのタイミングで余計なことを言ってしまったことといい、要所要所で尚人を止めるきっかけを逸し続けていたのだと思えば栄にはただ後悔しかない。それだけではない。起きたこと自体は正直に語っている尚人だが、まだ何か言葉にしていないことがあるような気がする。そして二人のこれからの関係にとって一番大切なことはきっと、まだ語られていない中に潜んでいるのだ。

「本当にそれだけ? そんな風に言われると、あいつとはただセックス出来ればいいってだけで会ってたみたいに聞こえるけど。だったら俺にバレた時点で別れるのも簡単だった? あいつへの気持ちは一切ないって信じてもいいのか?」

 できるだけ冷静に栄が訊ねると、尚人はあからさまにうろたえる。それだけで笠井未生への気持ちがゼロではないことが想像できる。

「……わからないんだ」

 尚人はしばらく考えてから、そう言った。

「僕はただ君との関係がうまくいかないのが寂しかった。彼は刹那的な性格で、後腐れのない相手と面倒じゃない関係を望んでた。だからそういう約束で会いはじめて、僕もずっとそのつもりでいたんだ。でも……たまに、少し」

 途切れがちな言葉は栄の胸を傷付ける。

「それって、ナオはあいつに未練があるって言っているように聞こえるけど」

 隠しきれない苛立ちが滲んだ言葉に、尚人が顔を上げた。困り果てたような、苦痛を感じているような表情で、心の中にある混乱は整理されることないまま尚人の唇からあふれ出る。

「そんなはずはないんだ。僕は君のことが好きで、ずっと好きで、彼に抱かれてるときもいつも栄のことを考えていた。それは嘘じゃない。それに僕が仮に彼を好きになったとして、別に未生くんは――」

 泣き出しそうな尚人を見て、不愉快ではあるが同時に痛ましさも感じる。あの日ホテルから出てきた尚人を見たときのような攻撃的な怒りが浮かばないのは、時間が経って少しは栄の心も落ち着いたからなのだろうか。

 ただ、こんな風にあからさまに心の揺れを告白されて栄の混乱は深くなるだけだ。完全に自分の方を向いていない恋人とどう付き合って、どうやって暮らしていけばいいのか。それとももしかして――。

「怒らないとは言ったけど、気に食わないよ。俺は確かにナオにひどい態度を取ってきた。おまえが能天気に頑張れって言うのに傷ついてきたって言ったけど、逆のこと言われたらそれはそれでムカついてた自信あるし。でも、だからってこういうのはあんまりじゃないか」

 隣に座る尚人の髪が風に揺れる。潤んだ目を何度か瞬かせて唇を軽く噛む。何かを考えているような、覚悟を決めているような。

 そしてゆっくりと口を開く。

「僕が栄に甘えているっていうのはわかってる。こんなことしても側に置いてくれて、僕を必要だと言ってくれて。でもこれだけは信じて、もう彼と連絡は一切取ってない」

 その言葉から、揺らぐ気持ちを抱えながら尚人は尚人なりに栄に誠実であろうとしている努力だけは伝わってきた。

「それは、ナオはこのまま俺といたいと思ってるってこと?」

「栄が許してくれるなら……」

 尚人ははっきりとそう言った。

 ここしばらくずっと栄が心の中に抱いていた、尚人は本当に自分の元に留まりたいと思っているのだろうかという疑問――それに対しての一応は明確な答えだった。

 栄は手を伸ばし、尚人の手のひらの上にそっと重ねた。

 人目を気にする二人は屋外で手を繋いだことも一度だってない。だがいまは、たとえ誰かに変な目で見られたとしても尚人の手に触れたいと思った。

「俺にはナオのいない生活は考えられない。まだ心に引っかかりはあるけど、少しずつでも昔みたいな関係に戻れるならって思ってる」

 ぎゅっと手に力を込める。尚人の手が少し冷たいのは寒さを感じているからなのか栄との会話に緊張しているからなのか、わからない。

 尚人がひとまずやり直す気でいてくれるなら、それでいい。ただ栄にはどうしても一つだけ尚人に言っておきたいことがあった。たとえ狭量な男だと思われようが、これだけは譲れない。

「ただ尚人、俺とあいつ両方をいいようにしようなんてことは絶対に考えるなよ」

 尚人がそっと手を動かす。そのまま逃げられるのかと思ったが、尚人は手のひらを上に向けるとぎゅっと栄の手を握り返した。

「……うん」

 その声は力強く、精一杯の誠意が感じられた。だから栄も気の重い会話はここで切り上げようと決めた。

「よし、帰るか。俺の胃もだいぶ調子いいし、デリに寄って何かちょっと美味いものでも買ってく?」

 栄ができるだけ明るい声でそう言うと、尚人もうなずく。二人は立ち上がって公園出口へ向かって歩き出した。いまはまだお互い気持ちの整理がつかないけれど、もしかしたらそれすら時間が解決してくれるのかもしれないと考えながら。

 

 四月下旬に栄は復職した。

 予想通り人事課付き――要するに明確な業務はない。診断書には残業禁止の指導区分が指定されていて他律的な仕事に関わるのは難しいので、閑職に置かれたところで文句など言えるはずはない。

 復帰初日にはまず復職プランについて人事課長とミーティングを行い、ゴールデンウィーク明けから本格化する採用活動の手伝いをして欲しいと言われた。主に公務員試験受験者や合格者へのセミナー講師や、採用面接を担当することになるのだろう。

「あとは、体調や診断結果と相談しながら本格復帰を考えていこう。ああ、そうだ谷口くん。この状況でたいへん言いづらいんだけど、以前話した夏の異動の件は――」

 その先は言われるまでもなくわかっている。口ごもる課長に申し訳ない気持ちもあり栄は言葉を先取りした。

「わかってます。こんな状況で重要ポストに置けないっていうのは、私でも同じ判断をしますから。逆に今回の件で、山野木さんへのことも含めて人事にもご迷惑をかけて、本当にすみませんでした」

 六月に予定されていた異動が白紙になるということ。人事課長としてはこのことを告げた栄が落胆する、もしくは抗議することを危惧していたのかもしれない。あっさりと現状を受け入れられたことに心底安堵したのは表情を見ているだけでわかった。

「そうか、でも谷口くん、あまり思い詰めないでくれ。誰にだって一度や二度の失敗くらいあるし、ちょっと体調を崩したくらいで将来が閉ざされるわけじゃないから」

「はい……」

 その言葉がただの慰めなのか事実なのか、栄にはわからない。ともかくいまはただうなずいて、何もかもを受け入れることしかできないのだ。

 面談を終えて席に戻る。臨時にあつらえられた机の上には執務用のパソコンと内線電話だけ。書類の一つも置かれていない広々とした机が、栄にとっては逆に落ち着かなかった。

 採用活動と言っても頼まれて面接を何度かやった経験があるくらいでスキーム全体への知識はないので、栄は知り合いの補佐の席へ出向いて必要最低限の資料のありかを聞くことにした。

「パンフレットはこれで、全体の流れは共有フォルダのここにマニュアル化して入れてあるから。あ……そういえば谷口、あのニュース見た?」

 とりあえずの情報をすべて伝え終えたところで、彼は栄を見てニヤリと笑う。

「あのニュース?」

 復帰初日で挨拶回りやら面談やらでネットニュースを見るような暇もなく夕方になっていた。意味ありげな態度が理解できない栄が聞き返すと、彼はニュースサイトを開きながら楽しそうに続けた。

「明日の週刊春秋で、笠井代議士のスキャンダル出るらしいぞ。谷口、あそこの事務所に散々いじめられてたんだろ。やっぱり理不尽に役人をいびるような議員には天罰が下るんだな」

「何だよ、スキャンダルって!」

 思わず身を乗り出してスクリーンを覗く。

 ――総選挙前特集第一弾・ベテラン代議士の黒い過去/息子が語る鬼畜の所業

 センセーショナルな見出しに栄は言葉を失った。