80.  未生

 指定されたホテルへ到着すると、未生はフロントでカードキーを受け取った。

 羽多野の言うような騒ぎになっているのだとすればホテルのロビーに記者が待ち受けているようなこともあるのではないかと危惧したが、さすがにそれは考えすぎだったようだ。特に誰から注目されることもなく未生はエレベーターに乗り込んだ。

 アルバイト先には電話で休みを伝えた。「家族にちょっとしたトラブルが」と告げたところ、病気や怪我かと思ったようで、明日以降もシフトのことは気にせず必要なだけ休んで構わないと言われた。善人である店長は、未生が家族の不祥事を雑誌に売ったがために騒動が起きているなどとは夢にも思わないだろう。

 部屋に着いたら鍵を開ける前にインターフォンを押すように言われていたので羽多野がそこに待機していること自体は想定していた。だが、ドアの向こうに広がっていたのは予想外の光景だった。

「……なんだよ、騙したのか?」

 ドアを開けた羽多野の後ろに見える応接セットに座るのは父、真希絵、さらに羽多野以外にも父の秘書が二人ほど同席していた。

 未生はてっきり当座の騒ぎを避けるための避難の場だと思ってここに来たのだ。まさか家族会議がセットされているなどとは想像していない。

「ドアを閉めろ、誰かが見ていたらどうするんだ!」

 父の鋭い声が飛んだ。その顔には怒りがみなぎっている。

 未生は思わず後ずさりかけた。いまここで父と対峙する覚悟はできていない。このまま部屋を出て逃げ出せば、騒ぎを嫌う父や秘書たちは追っては来ないのではないか――そんな考えが頭をよぎる。

 だが、未生が行動を起こす前に羽多野がすっと背後に回りドアを閉める。逃げ道は完全に塞がれてしまった。

「あんた、卑怯だ」

 悔しさからそうつぶやいた未生に羽多野は冷たい視線を向ける。

「何とでも言えばいい。君だって子どもじゃないんだから、逃げないで自分のしでかしたことと向き合うべきだろう」

 普段ならば父と未生が険悪な状況にあるときに非力ながらもあいだに入ろうとする真希絵も椅子に座って硬い表情でうつむいている。四面楚歌の状況で未生はようやく覚悟を決めて室内へ足を踏み出した。

 羽多野は用心深く扉にチェーンまで掛けた。カーテンもしっかり閉じてあり、完全に人目は遮断されている。

 未生が渋々応接セットの前まで歩み寄ると、父がやにわに立ち上がった。

「この、馬鹿がっ!」

 そう叫んだ父の握りしめた拳は震えていて、秘書たちがいなければ確実に未生を殴り飛ばしていたことだろう。

「おまえが馬鹿でろくでなしだということはわかっていたが、よりによって家族を売るなんて、どういうつもりだ!」

 だが、父の怒鳴り声は未生の感情に火をつける。

「は? 家族だって!?」

 まさかここで、よりによってこの男の口から「家族」という言葉を聞くとは思っていなかった。

「一度だって俺のこと家族だなんて思ったことないくせに、都合のいいときにだけ、よくも抜け抜けとそんな口きけるな」

「何だと? おまえの母親が死んだ後、誰がおまえを引き取って家に置いて、この歳まで何もかも面倒見てやったと思ってるんだ」

 ――冗談じゃない。

 ただ家に置いて飯を食わせて、費用を払って学校に行かせればそれが家族だと言いたいのだろうか。未生だって望んで父や、赤の他人である真希絵と同じ家にいるわけではない。そんなに嫌ならば未生のことなど引き取らずどこかに放り出してくれたならば、その方がよっぽどましだったのに。自身の世間体ばかり気にして嫌がる未生を自宅に囲い続けたのはどこの誰だ。

 未生の憎しみと恨みを買うことばかりを十五年間も続けて、いまになって息子に裏切られたなどと言いだす。一体人のことを何だと思っているのだろう。

「……俺はな、絶対に忘れないよ。あんたが最初に出馬するときに世間体が悪いからって母さんと俺を捨てたことも。母さんが病気になったときに俺が助けを求めても一切相手にしてくれなかったことも」

 未生が震える声でそう絞り出すと、父の顔はかっと赤くなった。怒り、そして真希絵や秘書たちの前で過去の恥部を口にされた羞恥のせいかもしれない。

 最初に倒れた時点で未生の母の体調は相当に悪化していた。精神の病の他、不摂生から肝臓の具合も相当に深刻だったようだ。しばらく入院してアルコールは控えるようにと言い含められ家に帰ってくるのだが、決まってその日のうちに酒を買ってくる。半泣きで禁酒を頼んでも酒を隠しても無駄だった。母が寝ているうちにこっそり酒を捨てたときにはつかみかかって文句を言われ、正気を失った瞳の奥には本気の殺意すら感じるほどだった。

 当然そんな状態で体が回復するはずもない。もらった薬もろくろく飲んでいなかっただろう。血を吐いたり昏倒したりするたびに救急車を呼び、そのたびに入院期間は伸びていった。

「俺、一度電話したよな。母さんの具合が悪いから助けてくれって。でもあんた、俺の養育費ならともかく別れた女の面倒なんか見きれないから困ったなら役所を頼れって、それだけで電話を切っただろ。一度だって見舞いに来ることもなく」

 母の言葉のままに顔も覚えていない父親を憎んでいた未生だが、心のどこかではまだ期待を持っていたのだ。もし本当にどうしようもない、心底困った状況になれば父は未生や母を助けてくれるのではないか。一度は妻にした女と自らの血を引く息子にその程度の愛や情は残っているのではないか。

 押入れ中をひっくり返して見つけた父の連絡先に電話をかけ、しかし未生の甘い考えは完全に砕かれた。

 未生は以後二度と父に連絡しようとは思わなかった。あまりに慌ただしかったため当時の記憶ははっきりしないが、未生の生活自体は病院が役所の福祉とつないでくれたおかげで何とかなっていたのだと思う。ただ、入学した中学校に登校することは一度もなかった。そして約二年後に、未生の母は病院で死んだ。

「あの頃は……国政二期目に入ったばかりで忙しかった。東京にいることが多くて地元に戻る機会もあまりなかったし――それに、おまえの母親が死んだときに残った借金や病院代の一切を出したのは私だぞ」

 父の無様な言い訳に怒りを通り越して浮かんでくるのは笑いだ。だから何だ。いざ母が死ねば未生の身柄が問題になる。出来るだけことを荒立てたくなかったから金を払い未生を東京に連れてきただけで、その行為に情はない。

「後始末だけはきれいに、ってわけか。だよな、俺を無理やり東京に連れてきたときも、これまでのことを聞かれても都合の悪いことは何も言うなって釘を刺して」

 気づけば未生は父の元で育てられることになっていた。生まれ育った街から、これまで一度も訪れたことない東京へ。そして連れて行かれた家には見知らぬ新しい母と、幼い弟がいた。

 未生が一度も中学校に通ったことがないことを知った父は舌打ちをして「これからはそんなわがままは決して許さない」と言い、実際それから約一年半の間、未生は中学校を皆勤した。

「友達もいないし勉強もついていけないし、最悪だったけど、あんたが怖いから俺は言う通りにしたよ。全然楽しくなかったけど高校も行って、クソみたいなレベルだけど大学にも通ってる。なのにまだ何が不満なんだよ、そんなに俺が気に食わないなら放っておけよ」

「そんな子どもみたいなことばかり言って、だからおまえは……」

 終わることのない父子の言い合いに割って入ったのは羽多野だった。

「先生も未生くんも、お二人の問題は後日ゆっくりお二人で話してもらえませんか。いまはそんなことでもめている場合ではありませんから。まずは目の前のマスコミ対応をどう切り抜けるかを相談しなければ」

 父がはっとした表情を浮かべる。散々言いたいことをぶつけた未生も、この場でいつまでも修羅場を続けることに意味がないことは理解していたので、黙ってベッドに腰掛けた。

 そこからはほとんどが大人の話し合いで、未生はただ聞いているだけだった。事務所にやってくるマスコミへの想定問答。父を、そして家族をマスコミから守るためにどこに身を隠すか。そういったことが淡々と決められていった。

 一時間弱で大体の話がまとまった。未生はこのホテルにとどまり、父は別のホテルに移動して党の幹部との話し合い。真希絵は知人の家に身を寄せることになった。

 不機嫌なままの父は羽多野と第一秘書を連れて未生とは目も合わせないまま部屋を出て行く。続いて真希絵が立ち上がった。今日これまで一度も口を開いていない継母の顔は唇まで蒼白で、表情はこわばったままだ。

 未生はどうしても気になっていたことを真希絵に聞く。

「優馬は?」

 これだけの騒ぎが起きて父も母も兄も一ヶ所に集まっている中、弟はどうしているのだろう。まだ九歳の弟は事態をどこまで理解しているのだろうかと心配になる。すると真希絵は顔を上げて、ぞっとするほど冷たい目で未生を見た。

「優馬なら、仲の良い信頼できるお友達の家に。これから私が連れに行くわ」

「そう……」

 未生は何も言えない。父には恨みがあるし、極端な話これだけのことをされるだけの罪もある。だが真希絵や――何より優馬はどうだろうか。父と兄の醜い泥仕合がマスコミ沙汰になることをどう受け止めるのだろう。

そんな未生の後悔を見透かしたかのように真希絵は言った。

「未生くん、あのとき志郎さんと結婚することを選んだ私があなたに憎まれることは仕方ないと思っているし、受け止めるつもりでいままでやってきたわ。でも……あなたは優馬を傷つけるようなことだけは決してしないと信じていたのに」

 羽多野の叱責より、父の怒号より、その言葉は何より深く未生の心を抉った。