97. 栄

 尚人が優馬の元を訪れた二日後、週明けになって笠井志郎事務所は一連の騒動について正式なコメントを出した。

 後援会主催のいくつかの集会やイベントについて政治資金収支報告書への記載が漏れていた点については事務処理上の誤りであり、すでに記載修正を済ませた。補助金を受けている企業からの別団体経由での政治献金について悪質な迂回献金ではないかとの指摘を受けている件については、法的には問題はないことを確認した。とはいえ秘書から後援者に対して圧力に近い形での金銭支援を求めたとされる件も含め、今後は国民の疑念を招くことがないよう、よりクリーンな活動を行っていきたい――。

 もちろん「議員本人としては今回の件について直接の関与はおろか、報道されるまで把握していなかったが、管理者として責任は感じている」というお決まりの文句もきっちり織り込まれている。

 これだけの謝罪で世の中に染み付いた負の印象が拭い去れるはずはないので、笠井志郎の次期選挙戦が難しいものになるのは変わらない。とはいえ既にスキャンダルも出尽くした感はあり、翌日に現職大臣の駐車違反が大きく報道されたこともあってバッシングは見る間に下火になっていった。

 栄が羽多野に連絡を取ってみようと思った直接のきっかけは、デスクの横に置いたままの段ボールの中身をようやく片付ける気になったことだった。

 突然倒れて出勤できなくなり、そのまま前の部署を去ることになったため、机やロッカーに入れていた栄の私物はとりあえずすべて適当な段ボールに詰め込まれたまま人事課に運ばれていた。半分職場に住んでいるといっていいほど滞在時間が長かったので、箱の中は洗面用具やちょっとした着替え、買い置きのインスタント食品。さらにはもらったは良いが家に持ち帰るのが面倒でロッカーに放置していた内祝いや旅行土産といったものまで、雑多な品々に埋め尽くされている。

 さすがに見目の悪いがらくた箱をいつまでも放置しておくわけにもいかず整理をはじめたところ、その中から輪ゴムで乱雑に束ねられた大量の名刺が出てきた。仕事柄名刺交換の機会は多く、かといって後々まで連絡先が必要になるような相手は一握りだ。前の部署で業務上のやり取りが多かった相手についてはメール履歴を残してきたし、大井だって関係者は把握しているはずだ。いまさらこれらの名刺が必要になることもないだろうとまとめてシュレッダー用のボックスに投げ込もうとしたところで、しかし栄はふとした懐かしさを覚える。

 法案作りは激務で、利害調整やその後の陳情処理などとにかく辛かったが、反面やり甲斐が大きかったことも確かだ。様々な人と会い話を聞き意見を戦わせ、いまこうして省外に出る機会すらなく日がな自席に座っている生活と比べれば間違いなく刺激的だった。

 あんなに辛くて倒れるまで追い詰められたのに、喉元過ぎれば懐かしさを感じてしまう。そんな自分を愚かな社畜だと自虐しながら、栄はノスタルジーに近い感情で名刺の束を繰る。

 弾丸出張で意見聴取した地方自治体の職員や視察先企業の社長。他省庁のカウンターパートに侃々諤々の予算折衝をした財務省の担当者。そしてレクや部会で何度も顔を合わせた国会議員――ちょうど束の真ん中あたりに笠井志郎の名刺、そしてその少し後ろに羽多野の名前を見つけ栄は思わず紙片をめくる指を止めた。

 ニュースや情報番組から羽多野の名前が消えて、二週間ほどが経っていた。経理担当者と共に今回の不正処理や疑惑の責任を丸ごと被せられた格好になったあの男がまだ笠井事務所に籍を残しているのかも怪しい。

 仕事上のやり取りがあった頃であれば、さりげなく事務所に連絡して状況を確認することもできただろうが、人事課で窓際に座っているいまの栄にとっては笠井議員も羽多野も一切関わりない相手だ。

 ――衆議院議員 笠井志郎 秘書 羽多野貴明

 栄のように巨大組織に所属する人間からすれば簡素すぎるようにも見える肩書の名刺には、事務所の電話番号の他に緊急連絡用の携帯番号も記載されている。ただしおそらくはこれも事務所から貸与された業務用携帯の番号で、羽多野がすでに退職しているのであれば電話は繋がらない可能性が高い。

 しばらく迷った。彼の顛末を知りたいというのはどう考えてもただの野次馬根性だ。その一方で尚人も言っていたように、見舞いに来てもらったことへの礼を果たしていないという引け目もしくは建前はある。

 最終的に、栄は席を立つとフロアの隅の目立たない場所まで行ってから名刺に書かれた電話番号を自身の端末に打ち込んだ。

「……もしもし、羽多野ですが」

 意外なほど即座に羽多野は電話に出た。さすがやり手秘書――というのも奇妙だが、反応の早さといい聞き取りやすく堂々とした発声といいその様子は騒動前と寸分の違いがない。

 自分から掛けたくせにいざ相手が平然と応答すれば怖気づく。栄は思わず言葉に詰まり、数秒の沈黙ののち羽多野が怪訝な様子で訊ねた。

「もしもし、どちら様ですか?」

 電話で話したことは数えきれないほどあるが、いつだって職場から議員事務所に掛けていたから羽多野は栄の携帯番号を知らない。あれだけのマスコミ攻勢を受けた後だけに見知らぬ番号からの無言の電話を不審がられるのは当然だった。

「あ、あの、谷口ですが」

 いたずら電話だと疑われたのだと思い、栄はあわてて名乗った。

「ああ谷口くんか。知らない番号だから誰かと思った。……その後、調子はどう?」

 羽多野の声からは途端に緊張感が消え、いつもの飄々とした調子に戻る。あんな報道が全国にばらまかれたあとで、しかも突然の電話であるにも関わらず平然としていられるのはいかにもこの男らしい。

「一週間ほどで退院できました。胃潰瘍と過労だと言われて一か月ほど休んで、いまは異動して人事課にいます」

 その後、というのを入院後の話だと受け止めた栄は近況を簡潔に伝える。すると羽多野は笑い混じりにつぶやいた。

「あー、定番の『人事課付き』ってやつね」

「違います!」

 栄は思わず言い返す。それ自体に悪い意味合いがあるわけではないが、役所では不祥事でポストを追われ処分を待っている期間に人事課付きの辞令を受けることが多い。もちろん羽多野も本気で言っているわけではないのだろうが、こんな状況になってもまだ自分がからかわれる側であることは正直栄にとって面白くない。

「一応ちゃんとしたポストはありますよ。……確かにまだ残業もできませんし、実質窓際みたいなものですけど。で、その、遅くなりましたが救急車呼んでもらったお礼もちゃんと言ってなかったので」

 羽多野の側は特段気にしている様子もなかったが、栄はどうしても自分から連絡したことへの言い訳をせずにはいられなかった。だがもちろん狡猾な相手にそんな言葉は通じない。

「先に言っておくけどさ、快気祝いの菓子折りとかそういうのいらないからな。やっすい鉢植えひとつ持って行っただけだし、第一事務所に行ったって俺もういないし」

 先回りして見舞いの礼を断られたことは正直どうだっていいことだ。それよりも大事なのは、羽多野の言葉の後半。

「やっぱり事務所、辞めたんですか」

「そりゃそうだろ。グレーゾーン献金の黒幕、後援者に圧力かけまくる極悪秘書を雇い続けるなんてもう出馬辞めますっていうレベルだぜ」

 即答だった。悲壮感はなくむしろさばさばした調子なので栄もどう反応すればわからず戸惑う。

「それは、気の毒というか災難というか」

 栄としては正直な感想だったが、なぜだか電話口の羽多野は吹き出した。

「心にもないこと言うなよ、いい気味って思ってるくせに」

「別にそういうわけじゃ」

 確かに羽多野に対しても多大なる恨みがあるはずだが、あれだけ社会の敵として理不尽に叩かれる様子を見た後だと、さすがにいい気味などとは思えない。とはいえ電話をかけたきっかけは単なる興味本位だったわけで、自分から連絡しておきながら何をどう話せば良いのかわからず、栄はただ困惑しながら携帯電話を握りしめていた。

 そんな栄の動揺を知ってか知らずか、羽多野は突然奇妙なことを言い出す。

「あ、そうだ。やっぱり救急車の恩返ししてほしくなった」

「は?」

「やっと後任秘書への引継ぎも終わるし無職で暇なんだ。小うるさい先生の呼び出しに備えて酒も控えてたけど、やっと解禁。谷口くんもどうせ病休開けで干されてて暇なんだろ? 今夜一杯付き合えよ」

 脈絡のない誘いを、栄は反射的に断る。

「何言ってるんですか、嫌ですよ。俺、その手の付き合いは基本断ってますから」

 議員や秘書との飲み会に顔つなぎと称してまめに顔を出す同僚も少なくないが、栄は仕事上の相手と酒を飲むことがあまり好きではなかった。パーティで同席するような場合を除いて、基本的に個別の酒席は断ることにしている。

「公務員倫理法だっけ? 相変わらず谷口くんは潔癖だな。でもあれって割り負けしなきゃいいんだよな。奢ったりしないから問題ないだろ」

「倫理法以前に、俺、胃潰瘍の治療中だから酒飲めないんです」

 ただその後どうしているかが気になっていただけなのに妙な方向に話が流れつつある。持ちうる札を全て使って断りを入れる栄だが、毎度の如く老獪な相手に敵うはずはなかった。

「つまんねえけど、だったらウーロン茶でいいや。世間も認めた極悪秘書となれば潮が引くように周囲の人間も消えて退屈なんだよ。あ、この携帯も今日返さなきゃいけないからちょっと待って」

 マスコミを挙げて強引な物言いを叩かれたにも関わらず反省のかけらもない態度で、羽多野はプライベートの携帯番号を栄に告げた。