サマータイム・マシン(1)


「心を埋める」未生×尚人、本編終了後しばらく(「きいろとあかと」→「(ある邂逅)」の後くらい。


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「あ、電子辞書忘れた」

 リュックの中身をすべてひっくり返しても目的のものが見つからず、未生は思わず舌打ちをした。家を出るときあわてていたので、どうやら机の上に電子辞書を置き忘れてきたようだ。

 未生は人生で初めて――いや正確に表現するならば、人生で初めての「真剣に臨む」大学の期末試験をようやく終えたところだ。残るは二本のレポートだけで、これらを提出すれば無事夏休み突入となる。

 試験前は余裕がなく生命線であるアルバイトのシフトすら減らす有様だったので、未生が尚人の暮らす中野富士見町のマンションを訪ねるのは数週間ぶりのことだ。

 付き合いはじめてすぐにお預け。その後久しぶりの逢瀬となった昨晩は当然のように盛り上がった。存分にベッドの上でいちゃついて、いくら若くて体力と精力に自信のある未生でもさすがに出し尽くした感がある。おかげで今朝はすっきりと賢者モードで課題図書を開いたところ、電子辞書が手元にないことに気づいたというわけだ。

 指定の書籍を読んで意見をまとめるという一般教養の課題を、周囲の学生たちは「ただの読書感想文じゃん、ラッキー」と喜んでいるようだった。だが、ほとんど読書の習慣もなしに生きてきた未生にとっては本一冊を読み通すこと自体それなりの困難を伴う。

 当然ながら手の中の本は大学の教材なので漫画でも雑誌でもない、活字ばかりがぎっしり詰まった本である。情けないことだが読めない漢字や意味のわからない単語もちらほらあり、辞書は手放せないのだ。

 尚人は少し前に、昨晩の行為で汚れたシーツや衣類を抱えて洗濯機のある洗面所へ向かった。

「なあ尚人、電子辞書貸して」

 未生が廊下越しに少し大きな声で呼びかけると、すぐに声が返ってくる。

「ごめん、紙の辞書しかない。それで良ければ本棚の右の方」

 言われてみれば、尚人が電子辞書を使っているところは見たことがないような気がする。立ち上がり、たくさんの難しそうな本の並ぶ書棚をのぞくと尚人の言うとおり右端の方に数冊の辞書が並んでいた。どれも年季が入っていて、もしかしたら大学入学もしくは高校時代から使ってきたものなのかもしれない。自分の知らない過去の尚人の気配を感じて未生の頬は自然とほころんだ。

 いまどき電子ではなく紙の辞書派だというのも、よくよく考えれば尚人らしいな。そんなことを考えながら国語辞典を手にしたところで、未生は辞書の群れのすぐ近くにある大判の冊子の存在に気が付いた。

「あれ、これってもしかして……」

 確信に近い予感をもって棚から抜き出すと、案の定表紙には見たことのない高校の名前と「卒業アルバム」の文字列。過去の気配どころか、その中には高校生の頃の尚人の写真や作文が収録されているのだ。未生は一瞬にしてレポート課題のことも辞書のことも忘れた。

 ベッドに腰掛けるとおもむろにアルバムを開く。尚人の出身校はそれなりに大きな規模の公立高校らしくクラス数も多いが、幸いにも割と前の方のページに尚人の名前を見つけることができた。もちろんその上には学ラン姿も初々しい――。

 だがその瞬間、洗面所から戻ってきた尚人が未生のいたずらを見とがめた。

「未生くん辞書の場所わかった……って何見てるの? それもしかして」

 朗らかな声色には途中から焦りの色が混じり、弾かれたように未生に駆け寄ると尚人はアルバムを奪い取ろうと掴みかかってきた。

「何見てるんだよ! だめだって!」

 思いのほか激しい反応に驚きながら、未生も簡単には譲らない。尚人の手を避けるようにアルバムを胸に抱え込んだ。

「なんだよ卒業アルバムくらい見せてくれたっていいじゃんか、尚人のケチ」

「嫌だよ。返せってば」

 二人はしばし一冊のアルバムを挟んでの攻防を繰り広げる。尚人はよっぽど卒業アルバムを見られなくないのか、ベッドの上に未生を押し倒し、腹に馬乗りになって必死の形相で手を伸ばしてくる。

 最初はむきになってアルバムを守っていた未生だが、尚人があまりにむきになるので面白くなってきた。尚人に押し倒されるという極めて珍しいシチュエーションにも悪い気はしない。

相手がそういうつもりでないことは百も承知だが、つい出来心で近づいてきた顔を捕まえ軽いキスをひとつ。だが、それで尚人がおとなしくなるかといえば――。

「ちょっと、そういうので誤魔化さないでくれる」

 唇が離れれば降ってくるのは不満げな声で、甘いムードとは程遠い。こうなると未生もだんだん面白くない気分になってくる。

 第一自分は尚人の恋人だ。恋人の昔の姿を見たがっただけで、なぜこんなにも激しい抵抗に遭わなければいけないのだろう。思わず口調も激しくなった。

「誤魔化してねえよ。だいたいアルバムくらい、別に後ろめたいもんが載ってるわけでもあるまいし」

 そう言ってアルバムの表紙を指先で叩きながら、未生はふと、必ずしもその可能性がゼロではないことに思い当たる。尚人は大学時代から交際していた谷口栄が初めてにして未生以外唯一の恋人であり肉体関係を持った相手だと言っていたはずだが、もしかしたら付き合っていないにしろ密かに思いを寄せていた男がいるとか。

「……もしかしてこの中に元カレがいるとか」

「そんなわけないだろ! ただ……」

 妄言が口からこぼれるかどうかのタイミングで尚人が猛烈な勢いで否定したのは幸いだった。だが、だとすればこうも抵抗する理由は一体なんだろうか。

「ただ?」

 真顔になって聞き返すと、見下ろしてくる尚人がすっと視線をそらしてその頬が赤く染まった。

「昔の写真は恥ずかしい……」

 絞り出すようにそう言った尚人が妙に可愛らしく見えて、腰ごとぎゅっと抱き寄せた。

「恥ずかしくないって。昔の尚人がどんなんだったか見たいじゃん。絶対笑ったりしないから」

 ベッドの上で重なりあったまま安心させるように背中をぽんぽんと叩いてやると、尚人の動揺も少し落ち着いたようだ。ぴったりとくっついた状態に未生が邪な気持ちを抱きはじめるギリギリ直前で、尚人はのそのそと起き上がり未生と並んで座った。その横顔には微かに緊張の色が滲むが、どうやら未生の言葉に一応は納得したらしい。

 卒業アルバム閲覧を許可されたこと自体は嬉しいが、密着が解かれたことは残念で、複雑な気分ではあるが未生も続いて起き上がると、腕に抱え込んでいたアルバムを膝の上で広げた。

「3年2組、相良尚人……へえ、かわいいじゃん……」

「未生くん、笑うの我慢してない?」

「してないって」

 必死にかぶりを振る、その半分は本心で半分は嘘だ。

 絶対に美容院ではなく、軒先で三色のサインポールがぐるぐる回っている馴染みの床屋で切ったんだろうなと思わせる髪形。母親が日々栄養バランスの行き届いた手料理を作ってくれていたのか、今より頬がふっくらとして年齢以上に幼く見える顔立ち。一切気崩した気配のない学ラン。真剣にレンズを見つめる黒い瞳――。十八歳の尚人はこれっぽっちも垢抜けたところのない田舎の高校生で、それを含めてものすごく可愛らしかった。だがもちろん正直にその感想を伝えれば尚人は怒る、というより傷ついてしまうだろう。

 未生は緩む口角をなんとか引き結びながら、この気持ちをどのように伝えれば角がたたないものかを考えた。考えて、考えて、そのうち胸の奥に引っ掛かりを覚える。

「あれ……」

 そう首を傾げた瞬間、ページの隙間からぱさりと何かが床に落ちた。思わず手を伸ばして拾い上げると、半透明のビニール袋に入った写真だった。

「あ、それ修学旅行の」

 と言った尚人が手を伸ばす前に中身を取り出すと、そこにはアルバム本体のかしこまった写真とは異なる恋人の姿があった。

 十人ほどの男子がTシャツ姿でカメラの方を向いている。中心のあたりでおどけたポーズを取っている数名は髪形や着ているものもそれなりに小洒落ていて今でいう「陽キャ」のオーラが出ている。だが未生の目は自然と端の方で姿勢正しく微笑む尚人の姿に引き寄せられた。

 白いTシャツに下はジャージのズボン。冴えない髪形にセルフレームのお世辞にもセンスが良いとはいえないメガネ。

「メガネ?」

 思わずそうつぶやきながら現実の尚人の顔をじっと見た。もちろんそこにあるのはいつもの尚人の顔で、手元の写真よりは多少大人びて、雰囲気もかなり違っている。

 今の尚人も奇抜な格好や目立つ格好は一切しないし、身に着けるものは基本的にベーシックなものばかりだが、どれもシンプルではあるものの品は良い。おっとりして内気な性格や物腰が一見田舎臭い雰囲気を与えはするものの、よく見れば上品でそれなりに洗練されている。

 それは、つまり――。

 このクソダサい田舎のガキを今の姿に変えたのは――。

「数年前にレーシック受けたんだけど、以前は近眼だったんだ。昼間はコンタクトレンズで、夜はメガネを……」

 未生の表情の変化にきづかず、呑気にメガネ着用の理由を説明する声は未生の耳を右から左へ抜けていく。

 代わりに、正式に尚人の恋人にしてもらえてからは多少思い出す機会が減っていた谷口栄の勝ち誇ったような笑顔が、目の前にくっきりと浮かび上がった。


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