サマータイム・マシン(2)

 


←もどるすすむ→


「どうしたの?」

 急に真顔で押し黙ってしまった未生に気づいた尚人が不思議そうに見つめてくる。

「いや、改めて見ると、尚人も十八歳のときからはずいぶん変わったんだなって」

 未生としては偽らざる感想を伝えただけだが、どうやら尚人はその言葉を異なった意味に受け止めたらしい。まったく迫力がないながらも眉間に皺を寄せて詰め寄ってくる。

「失礼なこと言うね。そりゃあ僕は君よりずいぶん年上だし、大学生からすればおっさんなのかもしれないけど」

「え、いやそういう意味じゃなくてさ」

 未生はあわてて首を振る。別に老けたとかそういうことはこれっぽっちも思ってはいないのだ。しかし懸命の否定にも関わらず尚人の顔色は戻らない。

「じゃあ、どういう意味だよ?」

 凄むように顔を近づけてくる顔を改めてじっと見つめる。別に年齢差なんて気にしなくたって年より若く見えるのは、大学にいた期間が長いからだろうか。それとも邪気のない性格ゆえなのか。

 カラーリングしていない黒い髪はオーソドックスだがすっきりと、決して古臭くはないカット。ごく自然に見えるが眉も無駄なくきれいなラインを描いていて、どうやら髪と同程度には手入れされているようだ。疑いはますます濃厚になり、未生は尚人に思い切ってたずねる。

「尚人ってさ、髪の毛どこで切ってるの。オーダーはなんて言ってる?」

 戦闘意欲を前面に押し出していた尚人は急に会話の矛先が変わったことに目を丸くする。

「……急にどうしたの?」

「いいから!」

 しかし未生がやたら真剣で思いつめた様子だったからか、それ以上真意を問うことなく戸惑いながらも尚人は質問に答えた。

「南青山にある、大学時代から通ってるお店。髪の毛のことはよくわからないから、いつもと同じ感じでってお願いするだけだよ」

 未生は自分の予想が正しかったことを確信した。

 この鈍くさい男が自ら南青山のサロンなどという小洒落た場所に出向くはずがない。きっと尚人は、幼少のみぎりに母親に連れていかれた床屋に高校卒業まで通い続けるのと同じくらい何も考えず、栄に連れていかれたヘアサロンに通い続けているのだ。そして、センスと技術を兼ね備えたスタイリストは「いつもと同じ」と言われれば、にっこり笑って「いつもと同じ」でありつつ「さりげなく今どきの雰囲気を取り入れた」カットに仕上げるのだろう。もちろんついでに眉もさっとグルーミングして。

 だが不愉快なヒアリングはそれだけでは終わらない。いや、本心では終えたいのだが未生はもはや後に引けない心理状態になっていた。

「じゃあさ、服ってどこで買ってる?」

「今度は服の話!? そんなに頻繁には買わないけど、えっと……確か……」

 はっきりと店の名前すら記憶していないことからも、尚人がどれだけファッションへの関心が薄いのかをうかがい知ることができる。それでもぽつぽつと出てくるのは銀座や青山、麻布といった界隈。

 手元の写真の少年がそのまま育てば、良くて駅ビル、普通でファストファッション、最悪スーパーマーケットの吊るし衣料を着ていたっておかしくない。しかし店名を聞き出した限り尚人は普段そこまで高価ではないがセンスのいい品をそろえたセレクトショップで買い物をしているようだし、スーツやシャツに至っては、こしゃくにもテーラーでセミオーダーしているのだという。

「でもセミオーダーってお店によっては意外とお手頃だし、直しもいらないしさ」

 贅沢だと思われることを懸念したのか尚人は言い訳するが、もちろんそれはとんだ見当はずれだ。ぴきぴきと額に青筋が立ちそうになるのを必死に我慢しながら未生は尚人に正直な気持ちを打ち明けた。

「あのさ、こういうこと言うとまたあきれられるかもしれないんだけど。要するにそれって、今の尚人の髪形とか服のセンスとか、そういうの全部あいつの見立てだってことだよな」

「あいつって?」

 天然、もしくは無神経。本心からそんな無垢な顔で聞き返しているのだとすればよっぽどたちが悪い。

「言わせんなよ、名前」

 さすがに不快感を隠せない未生が言葉に苛立ちを滲ませると、尚人はようやく合点がいったようにため息を吐いた。その様子はあきれ半分、笑い半分といったところだろうか。

「ああ、そういうことか」

 冷静に返されると急に恥ずかしくなる。未生はがっくりと肩を落とした。結局いつも同じ。尚人のあれこれに勝手に谷口栄の影を見出して、勝手に嫉妬して空回りする間抜けなひとり相撲。

「またガキだって笑うんだろ」

 頰が熱くなるのを感じながら未生が拗ねたようにつぶやくと、尚人も笑いながら唇を尖らせる。

「そっちこそ、さっき笑うのがまんしてたくせに。どうせ高校時代の僕がダサいって思ってたんだろ。いくら鈍くてもそれくらいわかるよ」

 必死に平静を装っていたにも関わらず、どうやら未生の我慢はバレバレだったらしい。尚人が本気で怒っているなら無理矢理にでも嘘を通すところだが、幸い状況は「痛み分け」。

「別にダサいっていうか、素朴で可愛いなって」

 表情を緩めて未生が素直な感想を述べると、尚人はうつむいて頰を赤らめた。

「いいよ、わかってるから見られたくなかったんだから」

 要するに尚人としても過去の自分がいけていないという自覚があり、だから未生に見られたくなかったということだ。

 未生は尚人のことならなんだって知りたい。でも尚人が未生に対して格好つけたいとか見栄を張りたいとかそんな気持ちがあるのならば――多分それは未生によく思われたいと思っているからで、だから、そんな感情自体を責める気にはなれない。

 それより何より体裁が悪いのは、自分の幼稚な嫉妬だ。

「別にさ、わかってんだよ。八年間って長いし、今になって張り合ったところでどうしようもないってことも」

 尚人と栄は大学に入って間もなく出会ったと聞いているから、交際前から合わせれば多分一緒に過ごした時間は八年間よりもっと長い。

 未生がここ数年――とりわけ尚人と出会ってからほんの一年半でどれだけ変わったかを振り返れば、地方から出てきたばかりの冴えない尚人が栄と出会うことでどれほどの新しい世界に触れ、どれほど変わったかは想像に難くない。そして、そこで学んだ全てが大人の男としての尚人のベースになっているのは、仕方がないことなのだ。

 そして、今の尚人はもう十分に自我の確立した大人だ。――つまり、栄が尚人に与えたような深い跡を未生が尚人に残すことは不可能。そう考えると未生の心はどうしたってかき乱される。

 一方の無神経な恋人は完全に美しい思い出モードに入り込んでいるようだ。

「東京に出てきたばかりで右も左もわからなかったから、見てられなかったんじゃないかな。僕はものを知らないし、センスのかけらもなかったから。もちろん今もだけど」

 ひどいモラハラや、浮気が原因であるとはいえ暴力的なセックスを強いたような相手をいまだに美しい思い出に留めているというのも当然未生にとっては面白くないのだが、尚人の中で谷口栄はいまだに良い印象を保っているようだ。

 女は「上書き」、男は「名前を付けて保存」だと、過去の恋愛についての認識の違いで女性が男性に不満を抱くというのはよく聞く話だが、気づけば未生の方が女々しい嫉妬を募らせている。理不尽この上ない話だが、湧き上がる感情はどうすることもできない。

「髪も、服も、あの瓶底メガネやめろっていったのもあいつ?」

「昼間はコンタクトだったんだけど、家の中でメガネかけてるの最初に見たときすごい顔してたな。すぐ次の日に、新しいのを作りに行かされた」

 そして、コンタクトレンズが目に合わなくなってしじゅう目を赤く充血させている尚人にレーシック手術を勧めたのも栄だったというわけだ。悔しいが、かつて尚人が「忙しくないときは」と留保つきで語っていた王子のような谷口栄の姿は、それはそれで嘘ではないらしい。

「あれみたいだな。なんだっけ、オードリー・ヘップバーンの」

 悔しながらも未生は、「田舎娘をレディに仕立て上げる紳士」の姿を思い浮かべずにはいられなかった。

「『マイ・フェア・レディ』? そんな格好つけたもんじゃないよ」

「どうだか。でもあいつのことだ、どうせ『一緒にいる俺が恥ずかしくないような』って思って押し付けてたんだよ」

「はは、どうだろう」

 懐かしむように笑う尚人の心にはきっと今、栄の姿が浮かんでいる。たまらなくなって未生はアルバムを閉じた。切り出したのは自分とはいえ、ろくでもない展開だ。

「あーあ、せっかく初々しい尚人の写真見られると思ったのに、結局あいつの話か」

 そして、いくら手を伸ばしたところで過去の尚人に手は届かない。わかっているのにふとした瞬間にたまらない気持ちになる。情けない気分で背中からベッドに横たわると、尚人が笑いながらその手を握った。

「でも、僕が高校の頃のままのダサい男だったら声かけてないくせに」

 未生は黙り込む。それは事実で。あの頃の未生はきっと尚人があれ以上田舎臭かったら声をかけていないし、そもそも他の誰かのものでなければ欲しがりはしなかった。栄という存在があったから未生は尚人に声を掛け、尚人を本気で欲しがるようになり、紆余曲折を経て良い方向に変われたつもりでいる。だからといって死んだってあの男に感謝などしたくない。

 複雑な気持ちに悶々としていると、ちょうど洗濯機が終了のブザーを響かせた。

「あ、洗濯終わった」

 尚人は立ち上がると、軽快な足音を響かせ廊下へ掛けていく。その後姿を横目で眺め、未生は思う。

 変わったと言いながらも自分の本質にはかつてと変わらない部分がある。求めても届かないものがあり、どれだけ貪欲になっても満たされない気持ちがあると知っているからこそ強く求めてしまう――だからこそ、決して取り返せない過去を持つ尚人にこうも惹かれるのだろうか。

 この渇望は、尚人への愛情と表裏一体。だからずっと飢えて渇いて、完全に満たされることはないまま求め続けることこそが未生にとっての愛なのかもしれない。

 少し経って戻ってきた尚人は重そうな洗濯かごを抱えていた。

「なんで乾燥までしないんだよ。せっかく乾燥機ついてるのに」

 学生向けの安い家電しか所有していない未生にとっては羨ましい限りだが、尚人の洗濯機はファミリータイプのドラム式洗濯乾燥機だ。わざわざ外に干さなくたって乾燥まで一気に仕上げてくれる。だが尚人は未生の言葉を否定するどころか、家事への参加を促した。

「シーツがあるから時間かかるし、こんなに晴れてるのに電気代もったいないよ。ほら洗濯もの伸ばすの手伝って」

 主婦のような言い分だが、積もり積もれば電気代も馬鹿にはならないことを今の未生は知っている。

「はいはい、わかりましたよ」

 億劫な気持ちを隠さない返事をして立ち上がった。

 洗濯かごを未生に託した尚人が窓を開けると。外の熱気と蝉の鳴き声が一気に部屋の中に流れ込んできた。いつの間にか本格的な夏だ。

 未生にとっては、尚人と過ごす初めての夏。

 家庭教師業にとって夏休みは繁忙期なのだと聞いているが、お盆くらいは休めるだろうか。車を借りて海に行くとか、花火を見に行くとか、何かしら恋人らしいイベント。いや普段あまり会えない分、ここに入り浸って堕落して延々と抱き合っていたい気もするけれど、そんなことを言ったらまた叱られるだろうか。

 むせかえる夏の匂いを胸に吸い込みながらもうじきはじまる夏休みに思いを馳せ、手にした洗濯ものにふと未生は目を留める。

 グレーのボクサーブリーフ。三枚いくらというやつではなく、もうちょっといいやつだ。昨晩この手で脱がせた記憶があるそれを目にして、やっと頭から追い払いかけた嫌なことを思い出す。

「なあ尚人」

「なあに?」

 伸ばし終わった洗濯ものを受け取るつもりで手を出してきた尚人に単刀直入に聞いてみた。

「もしかして、このパンツもあいつの趣味なの?」

 髪の話でも服の話でもそう感情を害した様子はなかったので気を抜いていたが、どうやら下着の話題はとりわけセンシティブだったようだ。

「何言ってるんだよ! もう、手伝わなくていい!」

 そう言って尚人は未生の手から下着を取り上げ、それどころか洗濯かごまでもひったくると窓をぴしゃりと閉めてしまった。


←もどるすすむ→