「心を埋める」番外の「王子と蝸牛」翌週のお話です。
その日の執務室は暗かった。
冬のロンドンは曇りが多く日も短い。窓の外が薄暗いのは当たり前なのだが、天候上の理由を別にしたところで今日はひときわ暗い。というのも、栄と部屋をシェアしている経済部きっての癒しキャラ・久保村弘忠一等書記官が浮かない顔をして、朝から十分に一度ほどのペースで大きなため息を繰り返しているからだ。
「……谷口さん」
静かな室内を気にしてか、トーマスが足音を忍ばせて栄のデスクに寄ってくると耳元でささやく。
「久保村さん、何かあったんですか?」
それはまさしく栄がトーマスに訊こうと思っていた内容だった。
「さあ。トーマスこそ、心当たりはない?」
二人で顔を見合わせ首を傾げる。昨日退庁するときは普通だった。いや、むしろ来週の水曜に大使の随行で高級ホテルの食事会に参加することが決まったのだと普段以上にご機嫌だった。
明るく温和で、頭の回転も悪くないし多少のトラブルに動じない肝の座ったところもある。もしセンスの良いイケメンであればカチンとくるところだが、ころころとした体型やお世辞にも美男子と言い難い容貌のおかげで栄は久保村に悪い感情を持ってはいない。もちろん日本に戻れば別省庁勤務で違いにライバルになり得ないというのも大きな理由なのだが。
しばらく観察を続け、先に動いたのはトーマスだった。そっと久保村のデスクに近づき、そっと声をかける。
「あの……久保村さん」
「……何?」
久保村は顔をあげるが、その目はどろりと濁って生気がない。それどころか――。
「参事官からおやつをいただいたんですけど、いかがですか? ウィリアム・カーリーのチョコレートケーキ、お好きでしたよね」
「ケーキ? いらない。君たちで食べちゃっていいよ」
瞬間、落雷のような衝撃が走る。なんと久保村がケーキを断った。しかもウィリアム・カーリーといえば「ここは奥さんが日本人だからなのか、英国らしからぬ繊細なケーキが多いんだよ」とベタ褒めしていたではないか。風邪をひいても腹を壊しても甘いものには目がないのが久保村だ。彼が差し入れのケーキを断る場面など栄がここにやってきて半年、一度として見たことはない。
これはただごとではない。栄も思わず椅子から立ち上がった。
久保村は明日、製薬企業団体の会合でプレゼンテーションを行うことになっている。もしも彼が急病で倒れ、同僚である栄が代打を頼まれるような展開になれば最悪も最悪だ。スライドを見て原稿を読むくらいはできるが、医薬分野の専門的な質疑応答にはとても対応しきれない。
「あの、どこか具合でも?」
「違うよ」
あっさり否定されてほっと胸を撫でおろす。だが、体調不良でもないのにケーキを断るのはますます尋常でないような気がする。
「だったら仕事で悩みでも? 私でよければ手伝いますけど……」
「違うんだ、そういうんじゃなくて」
人当たりの良い男には珍しいそっけなさで首を振り、それから久保村はまるで世界の終わりを予言するかのような重々しい口調で告げた。
「……息子が、反抗期なんだ」
「は、反抗期?」
完全に予想外の言葉に栄は言葉を失う。トーマスもおそらく同じだろう。息子が反抗期? 久保村の息子はたしかまだ三歳かそこら……いや秋ごろに誕生日だったから四歳? いずれにせよ栄の想定する反抗期まではまだ十年ほども猶予がある。
「あの、反抗期には早くないですか?」
思わずそう訊ねると、久保村は疲れた顔で違うよとつぶやいた。
「谷口さんが想像してるのは思春期のやつでしょう。それは第二次反抗期で、うちのは第一次。イヤイヤ期も軽かったから手がかからなくて楽だと思ってたら、なぜか今になって急に……」
久保村曰く、反抗期には二種類あり、第一次反抗期は二歳前後の何をしても嫌がる「イヤイヤ期」から、俗に「魔の三歳児」と呼ばれる自我が芽生え自己主張が激しくなる時期まで数年にもわたるのだという。
子どもが好きでない栄からすれば、幼児が何かと泣き喚いたり機嫌を損ねたりする時期が数年続くのは想像を絶する苦痛だが、しょせんは幼児だ。暴力に走ったり犯罪を犯したりするわけでもあるまい。
「でも、反抗期っていってもしょせん子どもでしょう?」
「谷口さんまで、ひとごとだと思ってそういうことを言うんだ!」
そんな大袈裟に落ち込まなくても、という気持ちが伝わってしまったのか、久保村はじっとりと恨みがましい目で栄を見た。
「大変なんだよ。言葉が増えてくる時期だから、こっちの反応を面白がってひどいことばかり言うんだ」
そういえば昨年の正月に会った従姉妹も、天使のようだった娘が保育園に通うようになって以来悪い言葉ばかり覚えてくるのだと嘆いていた。谷口一族らしく情操に悪いテレビや動画は禁止して幼児教育も熱心に行っているようだが、いくら家庭内で純粋培養したところで外に友達ができればどうしようもないらしい。
「ひどい言葉って?」
興味本位でつい訊ねてみる。
「パパ大嫌い、ママがいい! とか、パパの馬鹿とか、昨日なんてどこで覚えたのかパパのブタ! だって……」
栄とトーマスは再び顔を見合わせた――笑いをこらえながら。
なんと、久保村は息子にブタ呼ばわりされたことがショックで食欲をなくしているのだ。並大抵のことでは落ち込まない男にここまでの衝撃を与える子どもとはおそろしいと思う一方で、好き好んで子を持っておきながらこの程度で落ち込む親は自分勝手にも思える。
だがまあ、そういう本音をぶつけるわけにもいかないので、栄は心底同情しているような顔をしてみせた。
「……それはお気の毒ですね」
慰めの言葉に、まるで感情のダムが崩壊したかのように久保村はわっと声をあげて嘆きはじめる。これでは仕事が進まないが、つついたのがこっちである以上、最後まで聞いてやるしかないのだろうか。
「子どもって残酷だよね。ひどいことを言って僕がどんな反応するか楽しんでる節もあって、妻の後ろに隠れてニヤニヤこっち見てたりするんだよ。悔しいからせめて豚って言われないようにダイエットしようかと思って」
「乱暴な言葉を使わないよう、叱ったり言い聞かせたりはしないんですか?」
「するけど、効き目なんか一時的だよ。ちょっと反省したふりして、また同じことの繰り返し」
子どもって本当に面倒くさいんですね、と思わず心の声がこぼれそうになった瞬間、机の上に置いてある久保村のスマートフォンが光る。手を伸ばして通知内容を確かめた瞬間、死人のようだった瞳にぱっと光がさした。
「あっ!」
「どうしたんですか?」
自信たっぷりに差し出してきた画面には、三歳か四歳くらいの少年の写真。手には画用紙を掲げている。人間を描いているのかすらわからない拙い絵の下には、みみずがのたくったような「I love you daddy」の文字。どうやら謎の円形は久保村の似顔絵だったらしい。
――今日、ナーサリーで描いたんだって。パパに見せるの楽しみにしてるから早く帰ってきてね
「やっぱりケンちゃんはパパが大好きなんだ……!」
写真に添えられた妻のメッセージを見つめ、久保村は涙を流さんばかりに感動していた。
本気で心配したのに、あまりにあっけない結末。思わぬ茶番に呆然と栄が立ちすくんでいると、トーマスがポンと肩を叩いて、耳打ちしてくる。
「真面目に付き合って損した、って思ってます?」
大正解。だがもちろんそんなこと口が裂けたって言えない。職場での谷口栄は常に温厚、優秀、紳士的。他人の喜びを我がことのように喜ぶ善良な人間なのだから。
「まさか。久保村さんのご家族が円満で良かったじゃないか」
にっこりと笑うと、トーマスも笑い返してきた。
機嫌の良くなった久保村はすぐにダイエット宣言のことなど忘れ、ケーキとお茶の準備にかかる。きっと「ケンちゃん」の反抗期が終わるまでは定期的にこれに付き合わされるのだろう。まあそれも職場での人間関係を円滑にするためだと思えば仕方あるまい。
冷蔵庫からケーキの箱を持ってきたトーマスがふと思い出したように久保村に話しかける。
「……そういえば久保村さん、息子さんみたいなのも『ツンデレ』っていうんですよね?」
「ツンデレ?」
「若者とか、漫画やアニメが好きな人が使うって聞きました。普段は冷たいけど、たまに甘えてくるっていう」
久保村は首を傾げながら、そうだなあ、そうなのかも、と生返事。すでに心は三つあるケーキのどれを選ぶかという問題でいっぱいらしい。
折り目正しい日本語を使うトーマスが、「ツンデレ」などという日本語を知っているとは意外だ。彼の場合は近年多いというオタクカルチャーから日本文化に興味を持ったタイプとも違っており、妙なスラングが口から飛び出すことはまずない。
「トーマス、そんな言葉どこで覚えてくるんだ」
思わず栄が質問すると、なぜだかトーマスは一瞬「しまった」というような顔をした。それからにっこり笑っていつもの調子に戻る。
「最近、よりくだけた日常会話も勉強したいと思って、日本のドラマを観ているんです」
勉強熱心なのはいいことだが、そんな言葉を覚えたところで実践の機会があるとも思えない。不審を拭えないままでいる栄だが、熱い紅茶の入ったカップを差し出されて余計なことは忘れてしまう。
「谷口さんはケーキ、どれにする?」
先週の羽多野の度を越した悪戯のせいで、しばらくプールには行けない。健康と体型のことを思えばケーキは遠慮したいところだが、下手に久保村を刺激して「パパのブタ」問題を蒸し返すのも困る。栄は夕食の炭水化物を抜くことを決意しながら、ケーキ箱の中をのぞきこんだ。
(終)
2020.02.06