「そんなに高くないって言っても、コースなんだろ?」
知る人ぞ知るというオーナーシェフが切り盛りする店は過度に高級ではないものの、夜にはドレスコードが必要だと聞いた。だが、ドレスコードと言われてもピンとこないし、当然昼はカジュアルでOKだと言われてもよくわからない。
いくらなんでもパーカーにハーフパンツではまずいだろうか。服装に迷う未生に、尚人は「一応上着はあったほうがいいかも」と助言した。未生は上着が必要な店になど、人生で数えるほどしか入ったことがない。父と真希絵と優馬は年に何度かめかしこんで食事に出かけていったが、未生は毎度誘いを断り、やがて声すら掛からなくなった。それを寂しいと感じた記憶もない。
「フルコースじゃなくて、ランチのミニコースだから。そんなに高くもないよ」
金額を気にしていると思われたのか、尚人は取って付けたような言葉でフォローした。そんなこと言われたところでフルコースとミニコースがどう違うのかもわからない以上、あいまいな笑いを浮かべるしかないのだが。
尚人の前で格好悪いところを見せてしまうのではないかという不安と、一方で初めてのかしこまったデートに浮き足立つ気持ちもある。未生はまさしく複雑な心境にあった。
ちなみに貧乏学生の未生と、奨学金返済中の尚人――普段は慎ましい生活を送るふたりがなぜコース料理など食べに行こうとしているのかといえば、尚人が臨時ボーナスを手にしたからだ。尚人が中心となって進めてきた新規事業が好調で、その報奨金が支給されたのだという。
不登校の児童生徒へのオーダーメイド支援に尚人はずいぶん入れ込んでいた。帰宅後や休日にも暇があれば調べ物をして資料を作って、ときに過労を心配してしまうほど頑張った結果の金一封だと言われれば、これが正しい用途なのか心配になる。
「他に何かあったんじゃねえの? 尚人の頑張りの成果なんだから、欲しいもの買うとかさ」
金額の大半は奨学金の繰り上げ返済に充てたと聞いている。あくまでこれは端数の使い途だと尚人は力説するが、それすら未生にはもったいないように思えた。
「ちょっとだけ好きなことに使おうかなって考えて、未生くんと美味しいもの食べに行きたいなって。……あれ、もしかして別のものの方が良かった?」
未生の懸念を否定しながら、今度は尚人の顔に不安がよぎる。
確かに、うら若い男子である未生にとって「美味しいもの」と言われて浮かぶのはイタリアンでもフレンチでも懐石でもない。もっとわかりやすい、例えばそう、焼き肉とか寿司とかラーメンとか。でも、尚人がわざわざ未生のために一ヶ月も前から予約してくれた「ちょっとおしゃれで特別な店」はそれらに勝る。
喋りながらしばらくほど歩いたところで、尚人が「ほら、あそこだよ」と指し示す。コンクリート打ちっぱなしのシンプルな外観の建物は洗練された雰囲気で、近づいてみても、昼時のレストランでは一般的な店外へのメニュー掲示も見当たらない。
直接店で待ち合わせるという選択肢もあったが、やはり他で待ち合わせて良かった。動揺を悟られないようにしながら未生は、よくよく注意しなければ気づかないくらい控えめな看板を見上げた。
ふと、知っている声を聞いたような気がしたのは、いざ扉に手をかけようとしたときだった。
「へえ、ここか。名前は聞いたことあるけど、店に来るのは初めてだな」
そう。聞き覚えがある声――だが、誰だろう。瞬時には思い当たらない。家族や友人というほど親しくない、むしろ懐かしさを感じるくらいの距離感。第一未生にはこんな店に来るような友達はいない。
奇妙なことは続くものだ。先ほどの声に応じる別の声を耳にして、隣に立つ尚人もまた、ぴたりと動きを止める。
「日本にいた頃は、昼も夜もときどき来てましたけど、すごくいい店なんですよ。……あ、もしかしてせっかくの一時帰国だから和食三昧が良かったって思ってます?」
どこか冷たい雰囲気のある一人目よりはずっと柔らかく品の良い話し方をする男。だがその声色はどこかしら偉そうにも聞こえる。
未生と尚人は二人して動きを止めたまま、近づいてくる話し声に聞き耳を立てた。互いの顔を見ようとしないのは、これが不穏な展開であることに半ば気づいているからだ。
だが、背後の二人組は脳天気なグルメトークに夢中で、レストランの前で硬直している未生と尚人に気づく様子はなかった。
「いや、寿司も食ったし、昨日は天ぷらだっただろ? ちょうど、そろそろワインとイタリアンなんかも食いたいって思ってたとこ」
「あー、改めて食べたもの羅列しないでください。毎日こんな食生活して、ロンドンに戻ったらしばらくは三食グリーンスムージーですよ。ジムの回数も倍に増やして……」
「そういうこと考えず、楽しむべきときは徹底的に楽しんだ方がいい。余計なこと考えると消化に悪いだろうが」
「は? 何他人事みたいに言ってるんですか? あなたもランの距離倍にするんですよ。それとも醜く中年太りしたいんですか?」
聞けば聞くほど、その声は未生の記憶にあるものとぴったり重なっていく。
きっと尚人も同じだろう。近づいてくる人物の正体に確信を持ちつつあるのか、落ち着きなく視線をさまよわせながら店に入るべきか、後ろを振り返るべきか迷っているようだった。
未生は、どちらかといえば振り返ることには反対だった。だってそこにいるうちの一人は、未生がこの世で最も会いたくない相手に違いないのだから。
そんな二人の逡巡になどまったく気づかないかのように背後から柔らかい声が響く。
「すみません。ちょっとそこ、通していただけますか?」
おそらく会話に夢中な「彼ら」は、通路を譲ってもらおうと声をかけるまで、店の前に立っている人物をろくに見ていなかったのだろう。だが、これだけ近づけばいくら後ろ姿だって、気づかずはいられない。
「え、あれ……?」
気まずい沈黙。
それからわざとらしく脳天気な声をあげたのは、この場で最も過去の因縁から遠くにいると思われる男だった。
「未生くん?」
名前を呼ばれた未生はゆっくりとした動きで振り返る。つられたように尚人も同じ動きをした。そして、未生が懐かしさを感じてた声の主――羽多野貴明はじっと尚人の顔を見つめた。
「……と、確か君は、相良尚人くん」