レストランを出てから、栄はひと言も口をきかなかった。
早足で大通りまで出るとタクシーを拾い、ホテルの名前を告げてあとは不機嫌に黙り込む。いっそ羽多野を振り切ったって構わないくらいの気分でいたが、ホテルの宿泊階でエレベーターを降りてからも背中にはぴったりと追ってくる男の気配があった。
日本のホテルでは外国にいるときのような解放感はなく、部屋はそれぞれ別にとってある。とはいえ、どちらの部屋を使ってもいいようにベッドはどちらもキングサイズで――外出前に、使っていない方のベッドのリネンを申し訳程度に乱すのが毎朝のルールだ。
羽多野の宿泊費が出張費用でカバーされているとはいえ、使わないベッドに金を払うのは無駄ではある。だが体面のためには必要な出費だし、今みたいな状況になった場合に備える意味でも、やはり部屋を分けておいたのは正解だった。
部屋のカードキーを取り出したところで、背後にいる羽多野に向けて栄は低い声ですごむ。
「来ないでください。あなたはあなたで、自分の部屋があるじゃないですか」
あれだけのことをしでかしておきながら平然とした顔で栄と同じ部屋に入ろうとする無神経さは、とても理解できない。
だが、タイミングの悪いことに、ちょうどもう一台のエレベーターが到着して、人が降りてきた。廊下で口論しているところを見られるわけにもいかず、栄は仕方なしにキーをドアにかざした。
センサーがぱっと緑に発光するのを確認してドアノブを引く。「来るな」と言われたにもかかわらず、羽多野は当然のように部屋の中までついてきた。
清掃を終えた部屋はきれいに整っている。栄は上着を脱いでカフェテーブルに放ると、ネクタイを緩めながら次にどう動くかを考える。わざとらしく羽多野を無視しつつ、彼のさっきまでの行動への当て擦りになるような何か――。
結果、目についたのはバーエリアのミックスナッツ。興味もないそれを手に取ると紙ナプキンの上にぶちまけた。普段の栄はこんな風に食べ物を乱雑に扱いはしないし、そもそも晩酌のつまみを除いて食事以外でものを口にする習慣もない。
「めずらしいな、間食なんて」
とっておきの嫌味のつもりだったのに、呑気にそんなことを言われれば怒りも沸点に達する。
「あなたはメインまでしっかり食べてたけど、俺は半分も食べてないんで!」
食べ足りないのは事実だが、空腹など感じてはいない。ただ、栄がどれほど気分を損ねているか察して羽多野の側から謝るのが筋だと思うから、できうる限りの不快感をアピールしているだけだ。
短い沈黙の後で、羽多野が口を開いた。
「……だったら夜はどんな高いものだって、谷口くんの食いたいものを奢るよ。予約が必要な人気店じゃなきゃ嫌だって言うならロンドンに戻ってからでもいい」
いや、本格的なイタリアンじゃなきゃ気が済まないならいっそ次の休みにイタリアまで足を伸ばしたって――と、羽多野はどんどん譲歩する。だが栄はそんな言葉にごまかされたりはしない。
「へえええ、ずいぶん気前がいいんですね」
振り向くと、自分より少しだけ高い位置にある羽多野の目を正面からにらみつけた。
羽多野だって、栄が問題にしているのが「食事を途中でキャンセルした」ことなどではないのはわかっているはずだ。その上で、自分のやったことを食事の問題に矮小化してやり過ごそうとするのは卑怯だ。
「そんな低姿勢になるくらいなら、最初から余計なことしないでください。あなたが同席しようなんて言い出さなければ、あんなことにならなかったんです」
ランチの席の空気を思い出すだけで、改めて鳥肌がたつ。
羽多野が余計なことを言ったせいで、栄と未生はテーブルで一触即発、その板挟みになった尚人も居心地悪そうにしていた。栄に比べたらまだ向こうの二人は食事を楽しむ余裕はあったようだが、それにしたって同席などしない方がお互い幸せだったのは間違いない。
「でも、尚人くんと話できて良かっただろ」
「それは、仕方なく……っ!」
この期に及んで羽多野は自身の行為を正当化しようのいうのか。ずっと気まずさを抱えていた栄と尚人に話をする機会を与えようと考えての善意? まさか、この男に限ってはそんなことはあり得ない。
確かに、尚人と話をしてお互いちゃんと新しい一歩を踏み出してそれなりに幸せにやっていると確認できたことは良かった。だが、それだって羽多野にお膳立てしてもらう必要などなかったのだ。
「余計なお世話ですよ。結果的に良かったとしても、タイミングもシチュエーションも、俺はもっとちゃんと、自分でコントロールしたかった」
いつか尚人と会う日が来るかもしれない。そのときは尚人の幸せを心から祝福しよう。自分もちゃんとやっているから心配いらないと、自信を持って告げよう――たまにはそんなことを思い浮かべもした。なのに現実は、みっともなく追い詰められて、逃げ込んだトイレの手洗い場での対話。理想のシチュエーションからはほど遠い。
吐き捨てるような栄の言葉に、羽多野の表情がようやく真剣なものに変わった。
「じゃあ聞くけど、彼らに会ったからって、どうしてあんなに動揺する必要がある? 俺といるところを見られるのが、そんなに嫌だった?」
「それは……」
核心を突いた問いに、栄は言葉に詰まる。それを後ろめたさの証明と受け止めた羽多野は苦笑いを浮かべた。
「それもまた傷つくな。別に尚人くんは、谷口くんの役所の同僚ってわけでもない。俺とのことを知られて何の不都合がある?」
わかっている。これは羽多野の作戦だ。
羽多野はすべて理解している。栄が何に気まずさを感じていたのか、尚人に何を隠したかったのか。その上でわざと栄の罪悪感を煽って、彼の無神経な行為を正当化しようとしている。
だが、現在一緒に暮らしているパートナーとしては、存在を前の恋人に隠そうとされて「傷つく」というのも本音ではあるのだろう。
「別に、他意はないです。俺はナオと付き合っているときだって誰にも紹介なんてしなかったし、交友関係を人に知られるのがあまり好きじゃないってだけで」
「ふうん」
納得していない返事。しばしのにらみ合いの結果、分の悪さを感じた栄はふいと目をそらした。
「そんなのどうでもいいでしょう。結局あなたのご希望通り、全部ばれたんだから」
羽多野に抱かれているということを、尚人に知られたくなかった。正直に言えばこの世の誰にも知られたくないのだが、とりわけ尚人には知られたくなかったのだ。
男に抱かれるなんて自分らしくない、男らしくない。そんな考え自体が偏狭で間違っていて、何より――男らしくない。だが長年培った考え方を変えるのは難しい。
羽多野と一緒にいる限り、ずっとこの手の自己矛盾を抱えることになる。理解した上で今の生活を選んだのだが、それでもときおり息苦しくなる。いつかは達観して、くだらない世間体から解き放たれるときがくるのだろうか。今はまだ想像もつかない。
そんなことを考えると、急にどっと疲労を感じた。
「……疲れた」
自宅では絶対にしない、外出着のままでベッドに横になるという行為。それをスムーズにできるのは、怒った顔をしながらも結局今夜も自分はこのベッドを使わないという確信があるからなのか。
激しい言い争いをしながらも、なんだかんだと夜には仲直りできていると当たり前のように信じているのか。自分のお目出度さに気づくと、怒りの感情も何もかも馬鹿馬鹿しく思えてきた。
ベッドにうつ伏せに倒れた栄の後頭部に羽多野の手が伸びる。羽多野もまた、言葉の激しさほどには怒っていないのだ。
スプリングがきしんで、羽多野がすぐ隣に腰を下ろすのがわかった。
「未生くんと尚人くんが仲良くしてるのを見て、ちょっとはショックだった?」
「まさか。今さら何も感じませんよ」
これは、本音。
同時に、ふとした考えが湧き上がる。
「もしかして羽多野さん、あいつらの仲睦まじい姿を見て俺が傷つけばいいって思っていたんですか?」
羽多野は狡猾で意地の悪い男だが、それでも大抵の行為は栄への愛情と執着ゆえのものだと信じている。それでもたまに、一瞬だけ頭をかすめるのは嫌な想像。
――もしこれが嘘だったら。何もかも夢だったら。
羽多野が実は、秘書時代と同様に栄のことを憎んだままなのだとすれば。いつか手のひらを返すためにこうして恋人の振りをしているのだとすれば。
ありえない話だ。嫌いな相手を貶めるためだけに、こんな手の込んだことできるはずがない。だが羽多野は、死の淵にある老人に過去の憎しみをぶつけようと数ヶ月もロンドンをさまよい続けるような、暗い情熱を秘めた男だ。未生と尚人の関係をわざわざ知らせてきたときの目的だって、紛れもなく栄を傷つけることだった。
普段は頭の奥底、意識しない場所まで沈んでいる「もしかして」は、ごくまれに浮き上がり栄を不安にさせる。
「思ってない、そんなこと」
羽多野はすぐさま否定するが、だったら別の理由をちゃんと聞かせて欲しい。栄と尚人の和解を願っていたなんて見え透いた嘘ではなく、本当の気持ちを。
「だったら、どうして四人で食事なんて。悪趣味です」
「俺に言わせるなら、君だってちゃんと俺の質問に答えてくれ。尚人くんに俺との関係を知られたくなかったのは、どうして?」
真剣な質問に、同じく真剣な問いかけで返される。結局多分、お互いに聞きたいのは同じこと――核心に踏み込もうとしたのはやぶへびだったのかもしれない。
枕に伏せた顔が熱い。でも赤面したってこの姿勢なら羽多野にはばれないだろう。
「……あなたと俺じゃ、似合わないでしょう。俺の好みと全然違うってナオはわかるだろうから、嫌なんです」
好みと全然違う、似合わない相手と一緒にいることで、どう思われることを恐れていたのか。セックスの話まではしなくたって、察しのいい羽多野相手にはこれだけで十分伝わるはずだ。
案の定、後頭部に置かれた手の動きが止まった。それから伝わってくる細かな震え。羽多野は声を殺して笑っているのだ。
結局今日も、羽多野の勝ち。栄が先に、彼の求める言葉を与えてしまった。
「笑わないでください」
「ごめん、別にこれは馬鹿にしてるんじゃなくて。君はやっぱり世界有数の〈良い格好しい〉だなあと思ってさ」
「馬鹿にしてるじゃないですか!」
思わず枕から顔を上げて、栄は羽多野の手をはねのける。
「第一、白々しいんですよ! そんなこと言うまでもなく知ってたんでしょう? わかってて、俺を困らせて恥かかせようとしたんですよね?」
余計なことを考えただけ無駄だった。結局、栄への嫌がらせ。羽多野の真意など他にはないのだ。
不安になった分だけ損をした気がしてふてくされる栄に、羽多野は笑う。
「わかってるよ。谷口くんは、この世で誰より尚人くんにはいい顔しておきたいんだよな。彼の思い出の中にある、最高のときの王子様のままで」
栄の胸の奥にわだかまっていたもやもやとした感情が、鮮やかに言葉に変わる。
その通りだ。栄にとっては初めてのまともな恋の相手。まだ自分の限界を知らず万能感にあふれていた頃に、夢のような――でも幼い恋愛をした。
長い年月をかけて劣化して破綻してしまったけれど、それでも栄にとって尚人は特別な相手で――それ以上に尚人と過ごした日々自体が特別なもので――。未練でも愛でもない。終わってしまった、戻ってこないからこそ壊さずに大切にしておきたいノスタルジーのようなもの。
「そこまでわかってるのに、あんなこと。あなたって本当に性格が悪い」
栄は恨みがましくつぶやいた。さらに言えば、そんなにも性格の悪い男の所業を、結局は許してしまう自分の弱さも恨めしい。
たとえばほら、こんな言葉ひとつで栄はもう煙にまかれてしまう。
「わかってるからこそ意地悪したくなることだってあるだろう。俺からすれば若かりし君たちの初々しい関係や美しい思い出なんて、微笑ましくて可愛らしいことこの上ないんだが、それでもさ」
そして、思わせぶりに耳元に唇を寄せて……。
「やっぱりちょっと、妬けることもある」
ひざまずかせたいし、愛の言葉は向こうから言わせたい。とはいえ、いざストレートに伝えられれば照れくささにいたたまれなくなってしまう。こういう面で絶対に、欧米式のストレートな物言いに慣れた男には敵わないのだ。
栄は弾かれたように羽多野から体を離して、しどろもどろになりながら空気を変える言葉を探した。
「そ、そういえばお土産が足りないんでした。買いに行かなきゃ……」
ささやきと共にほんの一瞬唇がかすめていった耳たぶが熱い。
でもまだ昼過ぎ。残りわずかな日本での時間をベッドでの自堕落な時間で浪費するには罪悪感がある。
鏡に向かって身なりを整えはじめる栄を、羽多野は不満そうに見つめている。
「土産なんか、空港で買えばいいだろ」
「直前で焦るの嫌なんです。預け入れ荷物に入れちゃいたいし」
そんなこんなで日本滞在最後の週末は過ぎていく。週明けにはロンドンの部屋に帰り、いつの間にかすっかり肌に染みついた二人での日常に戻るのだ。
(終)
2021.11.13