「すいません、相良先生。田島さんから、親類にご不幸があって今日キャンセルにしたいって連絡が」
「え? キャンセル?」
電話口で思わず聞き返してから、尚人は自分の声に場違いな喜びの感情がにじんでしまったのではないかと不安に駆られて、慌てて神妙なふりをした。
「あ、えっと。そういう事情ならば仕方ないですね。承知しました。もし授業の振り替えを希望されるようでしたら、できるだけ時間調整しますので」
罪悪感の反動で普段以上に丁寧かつ低姿勢な尚人に、予定変更の連絡をしてきた事務員の女性はほっとした様子だ。
「ありがとうございます。相良先生って優しいから助かります。当日キャンセルだとあからさまに機嫌悪くなる先生もいるから、電話掛けるの怖くて」
「いや、ほら、勝手な理由ならともかく冠婚葬祭や病気は仕方ないものですから」
口にしてから「葬祭」はともかく「冠婚」が突然発生することなど、まずありえないと気づく。変なことを言ってしまったと恥ずかしく思うが、事務員は特段気に留めなかったようで、いくつか業務上の確認をしただけで電話は終わった。
「キャンセル、か」
そう繰り返してから、尚人は待ち受け画面に表示されたカレンダーと時計の表示を確かめた。
いくら温厚で不機嫌を顔に出すことが少なくたって、尚人とて人の子だ。普段だったら家庭教師の予定をドタキャンされればいい気はしない。しかも、通常土曜日は仕事をいれないところ、試験が近い生徒のたっての希望で追加授業を入れていたのだ。だが――今日の尚人は、振り回されたと機嫌を損ねるどころか、この予定変更を天の恵みだと思っている。
何しろ今日は、未生の大学の学祭を訪ねる約束をしているのだ。
学祭、という単語を未生の口から聞いた瞬間、懐かしさと憧れに胸が躍った。だが当の未生は学祭そのものへの感心も薄そうで、学科の有志として出展に展示することにも明らかに乗り気ではなかった。
協調性のあるタイプではないし、「そんな暇があれば金を稼ぐか、尚人の部屋にいく方がずっといい」と言いきるのが未生だということは理解している。それでも嫌々ながら譲歩して出展を手伝うことにしたのは大きな変化だ。
未生の成長を感じてそれだけで胸を熱くしていたので、「せっかくだから遊びに来れば」と学祭に誘われたときには、思わず耳を疑った。
もしや自分はよっぽど物欲しげな顔をしていただろうか……と恥ずかしさを感じつつ、だが尚人は確かに大学祭というものに憧れていた。
大学一年生のとき、慣れない東京暮らしや要求の高い授業についていくのに精一杯で、尚人は流れに乗り遅れた。気づけばお祭りごとへのアンテナが高い友人たちは学祭における役割を皆それぞれ手に入れており、尚人の席はどこにも残っていない。入学後半年で早くも幽霊部員状態になっていたボランティアサークルを頼って模擬店に参加させてもらうことも、引っ込み思案な尚人には難しかった。
賑やかなキャンパスをひとりで歩くのも寂しくて、結局学祭期間中はほとんど家で勉強をしていたような気がする。栄はといえば所属する剣道部の関係で嫌々何らかの活動を手伝っている気配はあったが、一度だって詳細を話すことも、尚人を学祭に誘うこともなかった。洗練された彼はおままごとのような学生イベントのことを欲は思っていなかったのかもしれない。
そんなこんなで、未生には知ったようなことを言ったものの、実は尚人は学祭というものをまともに体験したことがない。それゆえに、取りこぼした青春への憧憬は胸の奥にくすぶりつづけていた。浮かれた学生たちに混ざって歩くのも、美味くもない素人屋台の食べ物を試すのも、本当は一度経験してみたかったのだ。
尚人は未生の誘いに乗った。もちろん理由は学祭へのノスタルジーだけではない。普段見ることのできない未生の学生生活、その一端に触れられるのは尚人にとってあまりに魅力的だった。もちろん未生の友人に関係を怪しまれないよう細心の注意は払わなければならないのだが。
尚人の予定が空いたからといって待ち合わせの時間は変わらない、という事実に気づいたのは、一時間以上電車に揺られ、未生の大学最寄り駅の改札を出てからだった。
学祭デートに浮かれすぎて、そんな当たり前のことにすら考えが至らなかったなんて。ため息をひとつついてから、まあいいや、と尚人はチラシを広げる。
尚人はもう、お祭り騒ぎの中をひとりで歩くことに恥ずかしさや惨めさを感じる、ナイーブで自意識過剰な若者ではない。ひとりで時間をつぶすことだっていくらだってできるのだ。
未生の大学自体には、学会やシンポジウムのため足を運んだことがある。だが、立て看板や仮設テントがずらりと並んだお祭り中の大学は、尚人の記憶とはずいぶん違って見えた。
とりあえず待ち合わせの場所だけ確認しておいて、あとは適当に歩き回って――いや、ひとりで先に探検してしまうと、未生ががっかりしてしまうかもしれない。
だったらどこかでやっているであろう公開シンポジウムとか、真面目なパネル展示とか、デートっぽくない場所を攻めるか。何か面白いイベントはないかとチラシに目を凝らしたところで、尚人の目に「看護学部看護学科」の文字が目に入った。
学祭全体の中ではごく小さなコンテンツなのだろう、チラシに掲載された情報量としてもささいなものだ。教室名と、看護学科の学生が応急処置、救命処置の実演を行うという内容のみが記載されているが、それが未生が「無理矢理手伝わされる」デモンストレーションであることは間違いなさそうだった。
尚人の中で、うずうずと好奇心が騒ぎ出す。
未生が同世代の友人たちとイベントに取り組んでいる場面なんて、見たいに決まっている。しかも応急処置、救命処置の実演なんて、まさしく未生が必死になって勉強している内容そのものではないか。普段の努力を知っているだけに、今まさにその成果が披露されているのだと思うといても立ってもいられない気分になった。
だが一方で躊躇もする。
だって未生は尚人を学祭に誘いはしたが、自分たちの展示を見に来て欲しいとは言わなかった。というか未生の性格からして、尚人の訪問を歓迎することはまずないだろう。未生の晴れ姿に尚人が胸を熱くすればするほど、「父兄参観じゃないんだから」と嫌な顔をされるのは確実なことに思えた。
尚人は悩んだ。悩みつつ、とりあえず足を動かしているうちに、気づけば看護学科の展示が行われている棟にたどり着く。
自制しなければいけない。せっかく楽しいデートになるはずの一日なのに、未生の嫌がることをしては台なしになってしまう。自分に言い聞かせながらも、恋人の晴れ姿を一目ドアの隙間からでいいから……欲望には抗いがたく、尚人は看護学科の看板が出ている教室に吸い寄せられていった。
はっと正気に戻ったのは、教室からぞろぞろと出てくる人の姿を目にしたときだった。
「意外と面白かったね。教習所の救命措置の授業もこのくらい遊び心があったらいいのに」
「え~でも、うちらの教習所っておっさん教官ばかりじゃん。おっさんのコスプレなんか見たくない」
「確かに。イケメンのコスプレは笑いか目の保養になるけど、おっさんのコスプレは暴力だわ」
楽しそうに歩いてくる女子大生とおぼしきグループの言葉には、ところどころ「コスプレ」なる場にそぐわない単語が混ざる。一方で救命措置に言及していることから、ここが看護学科のデモンストレーション会場であることは間違いなさそうだ。
一体ここでは何が……? 怪訝に思いながら尚人が立ち止まったところで、背後から声をかけられる。
「すいません、今のが午前の部最終回だったんですよ。実演見たければまた午後来てください」
そうか、ちょうど終わったところだったのか。残念に思いながら振り返った尚人は思わず後ずさった。
そこには未生と同世代の男子学生が立っていた。人当たりが良さそうな彼そのものには、警戒したくなる要素は本来なさそうなのだが――なぜだかその学生は、丈の短いワンピースタイプの、ナース服風衣装を身にまとっていた。
「……ええと、あの」
硬直した尚人に、彼は照れたように頭をかく。
「ああ、この格好ですか? 盛り上げるための遊び心ですよ。で、午後の部の開始時間は……」
「すいません、いいです!」
反射的に、尚人は学生の親切を断った。午後の部には未生は参加しないからわざわざ見に来る意味はないのだが、それ以前の問題として、この奇妙な格好をした学生に関わってはいけないと思った。
だが、尚人の拒絶を遠慮と勘違いしたのか、学生はぐいぐいと押してくる。
「そんなあ。せっかく応急処置に興味持ってくださったんだから、ほんの十五分なんで是非時間作って来てくださいよ。今年の実演、評判いいんですよ」
ナース服の男に強く勧誘されればされるほど、尚人は引いた。ほとんど壁際まで追い詰められて、何とかして自分は応急処置実演が見たいわけではないのだと伝えようと必死になった。
そして、必死になりすぎた尚人は、言うつもりのなかったことを口にしてしまう。
「友人がどうしてるか、ちょっと気になっただけで……」
「友人? なんだ、そういう用事だったんですね。誰ですか? 俺呼びますよ」
最悪だ、どんどん泥沼にはまっていく。未生に迷惑をかけないようにしよう、未生の友達には変に思われないようにしよう、と強く思っていたのに、これではただの「自称友人」の怪しい人物だ。尚人は自分の運とタイミングの悪さを呪った。
「か、笠井未生くんですが、でもいいです、直接連絡するんで……」
「なんと笠井の知り合いですか! 俺もあいつには世話になったり世話してやったりしてるんですよ。あ、ご安心ください、なんかすかしたところあるけど、笠井の奴、大学ではちゃんと真面目にやってますんで」
ひどく嫌な予感がする。約束もしていないのにやって来て、勝手に未生の友人と話をして――さすがに怒られるのではないか。尚人は不安でたまらなくなるが、ぺらぺらとよくしゃべってからおまけのように「あ、俺は篠田っていいます」と付け加えた彼は、有無を言わさず尚人を教室に引っ張っていった。
「おい、笠井」
ドアが開いて篠田が呼びかけると同時に、尚人は未生を見つけた。いや、これは未生なのだろうか。多分、未生なのだが――。
篠田と同じように、いや、身長が高いぶんより丈が短い扇情的なナース服を着た未生は、なぜだか別の若い男を床に押し倒し、キスする直前の距離まで顔を近づけていた。