羽多野が足を怪我した話 (05)

 悪い予感は的中した――のだが、バスルームに足を踏み入れた栄は一瞬あぜんとして、それから思わず爆笑する。

「……っ、なんて格好してるんですか」

 羽多野はバスタブに背中からはまり込むように倒れており、そのまま起き上がるどころか体勢を変えることもできず間抜けにもがいていた。もちろん全裸で、左脚はギプスを濡らさないようにビニールシートとテープでぐるぐる巻きだ。

 惨めな姿といえば、かつて誤解の果てに帰国してしまった羽多野を迎えに東京へ行ったとき、ほとんどセルフネグレクト状態で過ごしていた姿もひどいものだった。だがあのときの羽多野は悲壮で痛ましく、とても笑う気になどなれなかった。

 一方で、今の姿は滑稽そのもの。

 どうせ片脚でシャワーを浴びることにも慣れてきたと調子に乗ったところで、濡れたバスタブの中足を滑らせたのだろう。普段は万事において余裕を気取っているだけに、思わぬ羽多野の醜態は完全に栄の笑いのツボにヒットしてしまった。

「おい! 笑ってないで助けろよ!」

 心配するでもなく不注意を罵倒するでもなく、体を折って笑い転げる。栄にしては珍しい反応は羽多野を驚かせた、というよりは、さすがに不謹慎だと受け止められたようだ。羞恥心を浮かべながらも本気で助けを求める姿に、さすがに気の毒になり栄も手を伸ばす。

「いててて……」

 握った手を引っ張ると、体を起こそうとして羽多野は顔をしかめてうめき声をあげる。運動神経のいい男が自力で起き上がれなかった理由は、片脚が自由にならないことだけではなかったようだ。

「そういえばすごい音でしたけど、どこか打ったんですか?」

「背中から落ちた」

 もちろん、死にかけの蝉のような姿勢になる前にはバスタブの縁にしたたか肩甲骨のあたりを打ちつけた、と聞くとさすがに気の毒にもなる。どうやら腕を引くと痛みがあるようなので、栄は作戦を変えてスウェットの裾をまくり上げた。

 湯を張ってはいないもののバスタブは濡れている。自身の服を濡らさないよう用心深く足を踏み入れて、栄は羽多野の裸の脇に腕を伸ばし、近い距離から助け起こす。

「ちなみに、今悪ふざけしようものなら、本気でキレますからね」

 羽多野のことだ、この状況ですら栄を引き倒してびしょ濡れにするという悪趣味な遊びをはじめかねない。用心のために釘を刺すと、羽多野は「わかってるよ」と渋い顔をした。

 自分より体格に勝る男の体は、当然だが重い。しかも羽多野の脚や、痛むという背中に注意を払いながらなので、ただ助け起こすだけの作業にかなりの体力を要した。

「重い……。もしかして羽多野さん、療養生活で太ったんじゃないですか?」

「は? そんなわけないだろ」

 八つ当たり半分の言葉に、羽多野はこめかみを震わせた。もしや図星なのだろうか。気を良くした栄は続ける。

「でも、もう三週間もジムも行ってないし走ってもいない。家から一歩も出てないのに人並みに食って、人並み以上に酒も飲んで」

「メシは減らしてるし、酒くらい飲んだっていいだろ。ただでさえ外にも出られないし、誰かさんは優しくないしでストレスが溜まってるんだ」

「誰が優しくないって?」

「うわっ、嘘。今のは嘘」

 助け起こす腕を離そうとすると、慌てたように栄の上体にすがりつきながら、羽多野は前言撤回する。

「……勝手に怪我して帰ってきて、薬放置して酒飲んで夜中に痛みにうなされてる誰かさんのためにわざわざ起き出してやったのは誰でしたっけ」

「谷口くんです」

 普段だったらあと数往復は不毛な応酬が続くところだが、意外なほど早く白旗が揚がるのは、それだけ羽多野も弱っているということなのかもしれない。

 それでも鬱憤が晴れない栄はさらなる口撃を続けた。

「その上、ちょっとギプス生活に慣れてきたからって風呂場で転倒して死にかけの蝉みたいにもがいてる誰かさんを、服が濡れるのもいとわず助け起こしてやってるのは――」

 濡れないようにと注意していたのに、羽多野がしがみついてくるものだからすでにスウェットを着た栄の上半身はびしょびしょだ。まあ、救助活動が終わった後で着替えればよいだけのことなので、別に構わないのだが。

「そんなに嫌みったらしく言わなくたって、わかってるし感謝してるよ」

 栄のしつこさ心底辟易しつつも、感謝しているというのもあながち嘘ではないのか、羽多野の言葉は柔らかく、どこか弱々しかった。

「だったら無茶しないで、完治のお墨付きもらうまではおとなしく過ごしてくださいよ」

 まずは上体を起こしてバスタブの床に座らせて、呼吸を整えてから立ち上がらせる。ひとつひとつの動きに時間を要するのは、羽多野があまりに痛そうな表情を見せるからだ。

 怪我をしたのだから、苦労すればいい――もしかしたらこの怪我も、自分が意地の悪いことを考えたからなのかもしれない。普段の羽多野からは考えられない醜態に、さすがの栄も己を省みたそのときだった。

 裸の体に、ぎゅっと全身を抱きすくめられる。

「羽多野さんっ! そういうのが駄目だって言ってるでしょ」

「ごめん、久しぶりに君にハグしてもらったから」

「してません!」

 羽多野の図体が大きい故に、抱き起こすしか方法がなかっただけで、栄としてはハグしたつもりなど毛頭ない。だが羽多野は栄の髪に顔を埋め、鼻を擦り付けてくる。それだけではない、布越しに感じる羽多野の肌の感触、温度、そして腰のあたりに触れるのは――。

 たった今、完治するまではおとなしく過ごせと言ったばかりなのに。ちょっと優しくすればすぐに調子にのる男を振りほどきながら、栄の心臓は激しく打っていた。

 三週間ぶりのスキンシップはお互いにとって、予想外に強い刺激だったのかもしれない。

 

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