羽多野をバスタブから救出するのも大変だったが、そこから寝室に連れて行くまでにも多大な労力を要した。
片脚を固定され、さらに背中を痛めた大人の男の介助というのがいかに大変なものか……下手に動けばバランスを崩して二人まとめて倒れてしまいそうな緊張感の中、栄は息を止めて一歩一歩用心深く進んだ。
「……はぁ」
ようやく羽多野のベッドまでたどり着き、安堵の息とともにずっしりと重く湿った体を放つ。と、羽多野はシーツの上に倒れ込みながら大げさに痛がってみせる。
「いてっ……なんだよ、乱暴だな」
「乱暴ってどの口で? ここまで丁寧過ぎるほど丁寧に運んできてあげたでしょう」
確かに最後の最後はちょっと手荒かったが、感謝こそされても文句を言われる筋合いはない。きつく睨みつけると、さすがの羽多野も分の悪さは理解しているようだ。
「悪い、責めるつもりはなかった」
「羽多野さんの不注意のせいで、とんだ重労働ですよ。ジムで鍛えたご自慢の体も、こうなると無駄に重いだけですね」
さっきは「太ったんじゃないか」などと憎まれ口を叩いたが、改めて見ると、三週間の安静でいくらかボリュームダウンしているにしても、羽多野の肉体自体は立派なものだ。出会った頃はそうたくましい印象はなかったが、あれはスーツで着痩せして見えたからか、今ほどの体作りをしていなかったからか。栄が目指すタイプとは異なるが、男としてある種の羨望を抱いてしまう体であることは間違いない。
肩、胸、腹――細身の栄と比べるとしっかりとしたたくましさを感じる――だがギリギリ過剰ではない体を横目で眺め、視線がその下にいくまえに羽多野がにやりと笑う。
「気になる?」
「まさか。びしょ濡れで裸で、みっともないって思ってるだけです。さっさと体拭いて何か着てください」
いくら口先で否定したところで、気にならないはずがない。さっき、抱きしめられたときに腰に触れたもの。勃起はしていなかったと思うが、それでもしっかりと存在感は伝わってきた。
あれに、最後に触れたのはいつだったっけ?
そこで自分の邪な考えが恥ずかしくなり、栄は手にしたタオルを股間めがけて投げつけてから羽多野に背を向けた。下着や寝間着といった着替えは脱衣所に用意してあるはずだが、今の羽多野には自力で取りに行くことは難しいだろう。
「どこに行くんだ?」
「どこって、着替えがいるでしょう? あなたが自力で動けるようになるまでずっと裸で過ごすっていうなら構いませんが」
本音では、構わないどころか目の毒になって仕方ないのだが、栄はあえて強がる言葉を投げてから部屋を後にした。
「……あの馬鹿」
仕事で忙しくしている間はさしたる性欲を感じることもなく、禁欲生活など余裕だと思っていた。だが、思考と時間に余裕ができ、睡眠と食事について充足すれば、残るひとつの欲求に意識がいくのも無理はないことだ。
問題は、意地でも性欲などに流されたくはないという栄のプライド。さらには足に加えて背中まで痛めてしまった羽多野の現状。これでは当初予定していた四週間を超えても「運動禁止」は続くのではないだろうか。考えると苛々が募り、苛立ちはなぜだかむらむらとした気持ちにもつながる。
脱衣所に脱ぎ捨てられた羽多野の服を拾い上げ、洗濯かごに投げ込――もうとしたところで栄は動きを止める。
脱いでから時間が経っているので、もう体温は消えている。それでも洗濯後とは明らかに異なるくたっとした布の触り心地は、羽多野がこのシャツを一日肌にまとっていたことを生々しく思い起こさせる。
他人の脱いだ服なんて本来の自分ならば嫌悪しか感じないはずなのに、なぜだかすぐに手放す気になれず、栄はちらりと廊下越しに羽多野の寝室をうかがった。
ベッドからこちらは見えない。そして、足を固定され背中を痛めた男は決して栄の様子を見にここまでやってくることなどできない。
手にしたシャツに、おずおずと鼻を近づける。
身だしなみには人並み以上に気を遣う羽多野で、その上一日身につけていたといってもほとんど部屋に座ったきりなのだから汗をかくこともない。セックスのときのようにはっきりとした羽多野のにおいは感じられないが、その断片とでもいえばいいのか……鼻先をくすぐる微香は逆に栄の中にある隠微なイメージを駆り立てる。
もっと深く恋人のにおいを吸い込もうと、今度はシャツに顔を埋めかけたところで、はっと正気に戻った。
いけない。こんなことするなんて自分らしくない。ただでさえ久しぶりに羽多野に触れて裸を見て気が昂ぶっているのだ。ここにさらなる刺激なんて与えようものなら困ったことになりかねない。
あわててシャツその他一式を脱衣かごに投げ入れて、棚の上にたたんで置いてある着替えを手に取る。
いくら趣味が悪いと言っても頑なに主義を曲げない、栄からすれば品性のかけらもない羽多野の下着。彼と寝るようになって一年近くが経ちずいぶん見慣れたはずのそれが、今日はとりわけ憎らしく思えた。