組み敷いた体は燃えるように、もしくは溶けてしまいそうなほどに熱い。羽多野は快楽と欲情に意識を引きずられながら、腕の下にいる男の体を改めて見おろした。
ぎゅっと閉じたまなじりを赤く染めている谷口栄の姿。彼を抱くことが許されるのは自分だけだという自信と優越感は揺るがないながらも、今もときおり「これは夢なのではないか」という疑いが頭をかすめる瞬間がある。
自分はまだ、暗くよどんだ四谷のマンションで泥酔したまま。白馬の王子様さながらに栄が日本まで追ってきて以降のすべては孤独な男のみる酔夢なのではないか。
だから、目の前のこれが現実であることを生々しく感じていたい。百回抱くなら、その百回すべてをこの目に焼き付けたい。
ストイックな栄は彼なりの理想を実現するため努力を惜しまない。嫌味なくすっきりと細身のスーツを着こなす着こなす体は水泳とたまの剣道でしっかり鍛えられており、しなやかな筋肉に覆われて無駄な贅肉ひとつ見当たらなかった。
触れはじめるときにはいつだって手のひらにさらりとした感触を与えてくる肌は、今は汗に濡れて艶めかしい光を放っている。
「……っ、あ。あっ」
追い上げるほどに栄の呼吸は短く速くなり、その合間に耐えきれずこぼれる嬌声も大きくなる。
甘い吐息ひとつであろうと、羽多野なんぞに与えるのはもったいないと言わんばかりに、合意のもとに抱き合うようになってからも栄は声を出すことを好まない。
息を詰め唇を噛んで堪える彼を責め立て、とろけさせ、声をあげずにはいられない状態にまで持っていくのは羽多野にとっては大きな楽しみである。
その一方で、最近では――あくまで最高に機嫌が良く、かつ酒が回ったときに限っての話ではあるが――いくらかリラックスした様子で喘ぎ声をこぼしたり、しがみついてくることもある。これまでの粘り強い献身と教育のたまものだと思えば、警戒心を緩めた栄の痴態を見ることも別種の喜びだ。
ちなみに今日のご機嫌はそこそこ。点数にすれば六十五点といったところだろうか。ベッドに誘いこめる程度には機嫌が良いが、サービス精神を発揮してくれるほどでもない。
特段のロマンティックな出来事もなければ、喧嘩したわけではない夜。穏やかで平凡な、ある意味マンネリの行為ともいえるかもしれない。だが逆説的に考えれば、気難しい栄相手に「ありきたりで当たり前の夜の営み」を交わせる日常そのものが、特別で貴重なものともいえるだろう。
羽多野が腰を打ちつけるたびに半ば無意識に栄も腰を浮かせ、彼の下腹部でしなっている硬いものを羽多野にこすりつけようとしてくる。
そろそろ限界が近いのは羽多野も同じで、つながった体が緊張感を増す中、本能的にタイミングを計った。セックスがふたりでの行為である以上、フィニッシュは同時に迎えたい。
「……っ」
「ああ……」
羽多野が栄の中で大きく震えるのと同時に、栄の体もびくっと痙攣する。一瞬遅れて熱くぬるりとしたものが腹を濡らす。
自称「そっちの欲望がそもそもあまり強くない」男である栄は、自慰の回数も多くはないようだ。かといってまだ十分若く、鍛えている体の〈生産能力〉は旺盛で、自覚なしにため込まれた欲望の放出は激しい。いつものように十分な濃さと量のあるものは、羽多野と栄双方の下腹部を白く汚した。
達した後の脱力感で、仰向けに寝転んだまま栄は動けない。全身で荒い呼吸をしながら、せめて表情を見られまいとしてか顔を手で覆っている。羽多野も大きな呼吸を何度か繰り返し、息を整えてから栄の体内に埋めたものを抜いてゆっくりと体を起こした。
栄からは「ナルシストっぽくて気持ち悪い」と白眼視されている鍛えた腹筋に飛び散った白濁を指先で拭い、口に運ぶのはいつものことだ。もちろん味見程度で終えるつもりはなく、栄の腹にこぼれたものもくまなく指ですくいとった。
青臭く、決して美味とはいえないご褒美をすべて飲み下してから、自身のペニスにかぶせたままになっているゴムを外しにかかる。重度の男性不妊である羽多野だが、中身の問題はともかくとして精液の量的には劣るものではない。先端の袋状の部分に溜まった液体がこぼれないよう注意深く抜き去ると、ぎゅっと結び目を作った。
ゴミとなったコンドームをティッシュペーパーに包んでゴミ箱に放ったところで、いつのまにかセルフ目隠しを外していた栄がむっくりと起き上がった。
「……俺も今度から、ゴムつけようかな」
慣れきった仕草で後始末をする羽多野を思案げに見つめ、つぶやく。
「なんだよ、唐突に」
脈絡なく感じられる言葉に、羽多野は同意とはいえない返事をする。
栄は脱ぎ捨ててあった下着を引き寄せる、どうせすぐにシャワーを浴びにいくのに、行為中以外に裸体をさらすことを彼は好まないのだ。
「だって、その方が汚れないし、後始末も楽でしょう」
そう続けながら、下着の次にシャツを身につける。
羽多野は栄ほど繊細ではないので、わざわざ脱いだものを着直すことはしない。それでも汗で湿った体が冷えていくのは気持ち悪いので、脱ぎ捨ててあったシャツをわしづかみにして、乱暴に体を拭った。
「後始末って、どうせ全部洗濯するんだ。一緒だろう」
そう、行為のあとはどうせシーツやら何やら、寝具一式洗濯機へ直行だ。汗だろうが体液だろうが、男ふたりでくんずほぐれつした後のリネンをそのまま使い続けるなど、潔癖でない羽多野だってごめんだ。
羽多野による提案の全否定に、栄は少しのあいだ黙りこみ、それから意を決したように再び口を開く。
「……見てられないんですよ。あなたが、その、わざわざ舐めたりするのが」
羞恥心の強い栄には、直接的な表現は気が引けるのだろう。だが少なくともこの状況で〈羽多野がわざわざ舐めたりする〉のが何なのかは明白だった。
「ああ、俺が君の精液を舐めたり飲んだりすること? もしかして、だから顔を隠していたのか」
「だって、耐えがたいですから」
羽多野による遠慮のかけらもない表現に、栄は顔を赤く染めつつ「耐えがたい」という部分を強調した。なんだ、てっきり事後の表情を見られることを恥ずかしがって顔を隠していると思っていたが、あれは精液を舐められるところを見たくなかったからなのか。
「そんなの今さらだろ」
「今までも何度も言いました。でも、羽多野さん全然まともに取り合わないじゃないですか」
「そうだったっけ。君は何だって嫌々言うから、どれが本気なのかわからなくって」
言われて見ればたびたび苦情は呈されている気がする。
羽多野も馬鹿ではないので、栄が数え切れないほど口にする「嫌」「やめろ」のどれが本気で、どれがポーズなのかは適切に判断しているはずだ――もちろん本気の「やめろ」であったとして、必ずしも従うわけではないのだが。その点、少なくとも白濁を舐めとることへの「やめろ」は、そこまで深刻なものではなかった。
「本気ですよ。あんなの口にするものじゃありません。汚いし、病気だってうつるし」
「谷口くん、病気なんかないだろ」
「一般論ですよ! 病気があったってなくたって、衛生的に良くないのは一緒でしょう」
確かにそれは事実だ。だが、そんなことを言えば、避妊具を使ったり手指の衛生に気を遣ったところで、性行為など大なり小なり不衛生を伴う。オーラルセックスを推奨する医者など見たことないが、そこは本音と建て前の世界。当の医者だって、やる奴はやっているに決まっているのだ。
別に羽多野だって、死ぬほど栄が嫌がっているところを強硬に精液を舐めたいわけではない。だが何となくあれは彼とのセックスでのルーティンになっているし、羽多野にとってはある種の征服欲を満たす儀式的行為でもある。
そんなに嫌なら最初から――と言いかけて、思い直す。
確かに、この手のあからさまに征服的な行為を、少なくとも表層意識下において栄が歓迎するはずはない。
だが文句と自己主張は人一倍な栄が、これまでは弱い拒否しかしなかった。それどころか今日も、頭から「精液を舐めるな」と主張するのではなく、まずは「後始末が楽だから、コンドームを使おうかな」という穏当な切り出し方をした。果たしてそれが、羞恥心ゆえの遠回しな申し出なのかといえば……きっと違う。
高慢でわがままで、気を許した相手に対する谷口栄というのはとんでもなく厄介な人間だ。だが傲慢や甘えを押しつけてくる一方で、栄は実に優しく面倒見が良く、細やかな人間でもある。そうでなければ羽多野だってこうも栄に入れ込むことはなかったし、彼のかつての恋人だって、二面性に振り回されながら十年近くもの年月を共に過ごすことはなかったはずだ。
つまり栄は、この件については羽多野に本音を切り出しづらいと感じている。その理由がどこにあるかといえば、答えはひとつ。
羽多野のかつての結婚生活が男性不妊を理由に破綻したことを栄は知っている。少年時代から抱え続けた根深い劣等感の克服をほぼ成し遂げたところでの墜落。それは羽多野にとっては、自身の血を引く子どもを持つことができないという事実以上に大きな出来事だった。
察しの良すぎる栄は、羽多野が彼の――というより他人の――精液に過剰な関心や執着を示しているように見える、その裏側に大きな意味を読み取っている。だから、正面切って強い言葉で「やめろ」と言えずにいるのかもしれない。
正直、そういった動機も否定はしない。
もともと同性に性的な関心を持っていなかった羽多野が男と寝るようになったきっかけは、妊娠能力の有無と関係ない世界が気楽に見えたから、という実にしょうもないものだった。だが実際に男の肌に触れて、相手が出したものを見たときに頭をよぎったのは「何が違うのか」という思いだった。
見た目や手触りやにおい、そんなもので精子の量や妊娠能力の度合いがわかるはずもないと頭ではわかっているのだが、それでも、自分と他人のそれがどう違うのか――自分に何が足りなくてこんなことになったのか――考えずにはいられなかった。
栄を最初に辱めた夜に彼の出した白濁を手に取ったのも同じような衝動にかられてのことだった。そして栄は今もそれを「惨めな過去から抜け出せない男のトラウマ的行為」と思っているのかもしれない。だが、あのときも今も、栄のそれを口にする一番の動機は、多分別のものなのだ。
「まあ、でもあれは俺にとってはご褒美みたいなもんだしな」
「は!? 気持ち悪いこと言わないでください!」
冗談めかした羽多野の言葉に、栄が眉をつりあげる。過度な怒りのパフォーマンスにどこか「ほっとした」空気を感じるのは気のせいだろうか。勢いでやめろと言っては見たものの、羽多野を傷つけるのではないかと、栄はおびえていたのかもしれない。だからとりあえず「冗談」に収束したことへの安堵。
とはいえ、羽多野の言葉は完全な冗談というわけでもない。
もはや妊娠能力の有無など羽多野にとってはどうでもいいことだ。きっかけのひとつであったにしろ、今では栄を追い上げた後に口にするものは紛れもなくご褒美……いや正確にいえば「征服の証」。我ながら変態じみているが、プライドの高い王子様が羞恥に震えるような行為であればあるほど、やめるという選択肢はしぼむ。
「本当に、あなたって最悪……」
つぶやく栄はきっと、これ以上強い主張はできない。そして羽多野も余計なことは言わない。トラウマゆえの行為と思わせておいたほうが抵抗を封じるに便利なのだから、わざわざ誤解を正す必要などどこにあろう。挫折の場数を多く踏んだアラフォー男には、そのくらいの狡猾さは備わっている。
そんなこんなで羽多野は次回以降も、抱き合うたびぞんぶんに恋人の味を堪能する権利を行使し続けるつもりだ。
(終)
2022.07.31