どう考えても、あのときに断るべきだった。荻だって「お忙しいから」と遠慮していたではないか。だが、レクの後に急いで帰庁しなければいけない予定がないのは、同じラインの部下たちにはバレバレだ。となると、いい顔をしてしまうのが谷口栄の悲しい性だった。
田舎のジジババ向け土産専用品みたいな物品を手に取り、レジに持って行くなんて一体どんな罰ゲーム。まさか自分のために買っているとは思われないだろうが、こんなものを欲しがる友人知人がいると思われるだけで、なんとなく居心地が悪い。
しかも「適当に見繕う」にしたって、そもそもの選択肢がひどすぎて戸惑うばかりだ。
王道は饅頭……いや、夫にネタとして渡すと言っていたのでグッズ系を選ぶべきだろうか。タオルや手ぬぐい、湯飲みにマグカップ。ひどい見た目にクラクラする。キーホルダーや議員バッジのレプリカはまだデザイン的にはましに見えるが、逆に面白みがない選択だと思われかねない。
生真面目な栄にとって、ここでの商品選びは、銀座や青山のセレクトショップで恋人への贈り物を選ぶよりもよっぽど難しい。この場から一刻も早く離れたいのに、答えを見つけられないまま趣味の悪い雑貨の前で途方に暮れるしかないのだ。
そのとき――。
「あれ、谷口くん」
聞き覚えのある……というか、もっとも聞きたくない声に心臓が飛び跳ねた。
振り返りたくない。聞こえていない振りをして歩み去りたい。だが、「役人ごとき」が「議員秘書様」にそんな態度を取ろうものなら、背後に立つ男は倍、いや十倍の嫌がらせで報復しかねない。
今にも床を蹴りたくなる脚をぐっと踏ん張って、栄は嫌々後ろを振り向いた。
「……あ、こんにちは」
羽多野貴明はいつもどおりの、冷たさと嫌味ったらしさの混ざったまなざしで栄の頭の先から足の先までじろりと見回す。肩に掛けた資料満載のバッグを見れば、ここにいる理由など説明するまでもない。
「ふうん、レクか」
「ええ、まあ」
「険しい顔して、難題でも押しつけられたってとこか?」
一体どの口でそんなことを言う。笠井議員とおまえという最悪のコンビと比べれば、大抵の議員や秘書はよっぽど紳士的で常識的だ。と喉元まで出かかった罵声は当然ながら引きつった笑顔で飲み込んだ。
「いえ、政策についてもたいへんスムーズにご理解いただけて、特段の宿題なく終わったところです。私は庁舎に戻るところで」
では、と軽く会釈をして立ち去ろうとするが、羽多野の蛇のような視線は栄に逃げることを許さない。
「どうした、そわそわして」
「え……? 別に、そわそわなんて」
しているつもりはないが、羽多野が目の前にいるだけで逃げ出したくてたまらない気持ちが態度に出ていると言われれば、否定はできなかった。
ほんの数秒、思案する様子を見せて、羽多野は口元に小さく笑みを浮かべる。
「まさか俺が、勤務時間内にコンビニに立ち寄っていることを職務専念義務違反だと咎めるとでも? さすがにそこまで融通がきかない人間じゃないつもりだけど」
「いえ、あの」
その発想はなかった。だが考えてみれば羽多野のような男であれば、爪の先程度のルール違反をオーバーに騒ぎ立てて脅迫することだってあり得るのだ。ちょっと飲み物を買うくらいで職務専念義務違反を叱責されることはないだろうが、よりによって栄が今真剣に見つめている棚は――。
「それにしても、君が国会グッズなんかに興味あるのは意外だな」
やはり、目ざとい男が気づかないわけはなかった。
予期せぬ羽多野との邂逅に青くなっていたであろう自分の顔が、今度は赤く染まるのを感じる。こんな趣味の悪い物を欲しがる人間だとは思われたくない。
「違います!」
栄は思わず声を荒げた。
「これは、うちの非常勤が……国会グッズに興味があるっていうから、何か買っていってやろうかと。決して俺がこんなものを……」
自分用であろうがあるまいが、土産を吟味していると自白した時点で職務専念義務違反の疑惑は深まってしまうわけだが、瞬間的に栄の中で「趣味の悪い人間だと思われたくない」という見栄が上回った。
だが、すぐさま栄は自らのうかつな発言を後悔する。いかにも言い訳っぽくて、これでは見栄どころかむしろ惨めさの上塗りだ。
羞恥でうつむいたところをじっと観察される居心地の悪さに死にたい気持ちでいると、羽多野はすっと腕を伸ばして棚から饅頭の箱を手に取った。
「ふうん。で、谷口君のセンスだと、どれを選ぶんだ?」
「……」
それができないから、棚の前で悩みこんでいたのだ。
いっそ目をつぶって右から三つほど適当に手に取って、さっさと会計をすませておくべきだった。そうすれば、少なくとも羽多野に見つかって意地の悪い尋問を受ける羽目には陥らなかったのに。
栄はのろのろと顔を上げて、美しくもない政治家の似顔絵がプリントされた商品の数々を今一度眺める。駄目だ。この男に見張られていると思うと、なおさら選択は難しい。
「急ぎの用事を思い出したんで、失礼します」
荻には適当なことを言って謝ればいい。なんなら会館や国会に用事がある知り合いを見つけて、代わりに何か買ってきてもらうくらいの便宜を図ったっていい。
軽く頭を下げて一歩踏み出したところで、しかし羽多野は栄を引き留めにかかる。
「買ってくるように頼まれたんだろ?」
「いえ……時間があればって言われただけです。それに、業務中ですし」
今更すぎる言い訳でなんとかこの場を脱しようとする栄。だが逃げようとする意図を知れば知るほど逃がすまいとするのが羽多野という男だった。
「そういえば、君に電話しようと思ってたんだ。聞きたいことがあってさ。ちょうどいいからそこで待ってて」
「は?」
こちらは急ぎの用事があると言っているのに、「そこで待ってろ」だと? 毎度ながら一切人の言うことを聞いていない様子の男に栄は苛立った。そして、ひどく苛立っているのに羽多野の言葉にあらがえない自分に、なおさら腹を立てた。
一センチでも距離を取りたくて、黙ってコンビニエンスストアの敷地外に出ると、壁を背に立って大きなため息を吐いた。せっかくレクも円満に終わったというのに、何もかも台なしだ。オフィスに戻るまでにしっかり気持ちを切り替えて「谷口補佐」の仮面を付け直さないと、下手をしたら部下達に八つ当たりしてしまいかねない。
数分後、両手に大きな紙袋を持った羽多野が店から出てきた。てっきりコーヒーでも買いに降りてきたのだと思っていたが、一体なにを買いこんだのだろう。怪訝な顔で目をやると、袋の中からはセンス皆無の「国会議事堂饅頭」「総理大臣饅頭」の箱が並んでいる。
洗練された都会人である自分と国会グッズが似合わないことはわかっている。だからこそ栄はそれらの饅頭を手に取ることすら嫌だった。そして、もちろん、しゅっとした典型的エリートである羽多野と国会饅頭も滑稽なほど不似合いだ。
「……?」
栄の視線に気づいた羽多野が「ああ、これ?」と紙袋をわずかに持ち上げる。
「これから議員の地元から団体で客が来るんだ。国会饅頭を土産にしたいから、買っておいてくれって頼まれててさ。あ、もちろん代金はもらうけど」
たかが饅頭だろうが、選挙区の人間に配れば公職選挙法違反になるが、代金をもらって買い物代行をするのは正当な秘書の仕事になるのだろう。似合わない買い物の理由に納得すると同時に、自分に対しては常に偉そうな羽多野が使いっ走りさせられている現実に栄は少しだけ溜飲を下げる。
わずかに表情を緩めた栄をじっと見て、羽多野は紙袋を床に下ろすとその中からビニール袋を取り出し押しつけてきた。
「で、これ」
「何ですか?」
再び表情を険しくして思わず後ずさりする栄だが、結局は無理やり袋を押しつけられてしまう。その中には――歴代総理大臣湯飲みと、国会手ぬぐいが入っていた。
「どうせ、趣味悪すぎて選べないって困ってたんだろ。頼まれたのに手ぶらで帰るのも気まずいだろうし、ついでだから」
湯飲みと手ぬぐいという、栄がもっとも手に取りそうになく、かつ悪趣味なデザインを選んだところに羽多野の性格の悪さがよく表れている。とはいえ、これで荻との約束を守ることはできるのだから、救われたのか貶められたのかわからない。
「それは、どうも」
栄は小さく頭を下げた。
もしや聞きたいことがあったというのは嘘で、どんな気まぐれか羽多野は助け船を出すために栄に待っているよう命じたのだろうか。そんな疑念を抱きながら、さっき羽多野が口にした「公選法違反」という言葉を思い出す。羽多野――というか笠井事務所が選挙区の人間に饅頭ひと箱でも渡せば法違反になるというなら、栄だって利害関係者から物品を受け取れば法違反を問われる立場だ。
「羽多野さん、代金を」
「あー、両手塞がってるし、ここで財布出すのも面倒だ。またでいいよ」
ポケットを探る栄を、羽多野は制止する。
「また?」
そんな機会、できればないほうがいい。
だが羽多野は、今度ははっきりとわかるほどの笑みを浮かべて、言った。
「まさか、俺がこれを渡すために谷口くんを待たせたとでも思ってた?」
「いえ、そんな」
やはり、そんな甘い話はなかったのだ。一瞬でも羽多野に親切心を期待した自分が馬鹿だったと肩を落とす栄に、羽多野は楽しそうに続けた。
「去年補正で積んだ助成金、実績細かく見てみたいから、都道府県の内訳入りの資料と、執行率下位の要因分析資料、よろしく」
「は……?」
その助成金ならば、経済対策の目玉施策としてぶち上げたにもかかわらずほとんど活用されず、現場のニーズをまったく把握できていない愚策だったと国会でもマスコミからも袋だたきに遭っているものだ。
きっと羽多野のところに説明に言ったら、与党が求めた施策であることなど忘れたかのように「役所の制度設計が悪い」「周知広報が足りない」と責め立てられるのだろう。
「さすがに明日とは言わないけど今週中な。代金はそのときでいいから」
「……承知しました」
やはりこの男に借りを作ってはいけない。その素振りすら見せた時点で敗北だ。
しくしくと痛みはじめる胃のあたりを抑えて、栄は羽多野に背を向ける。手の中の湯飲みと手ぬぐいはまるで鉄の塊か何かのようにずっしりと重かった。
(終)
2022.10.09-10.15