そして土曜の朝、栄はクローゼットの前で小一時間頭を悩ませた。
あくまで羽多野は「過去の仕事関係者」で、本日の用件も「せっかくロンドンに来たのだからお茶の一杯でも」程度の話に過ぎない……少なくとも栄はそういうつもりでいる。だったらビジネスを貫きスーツで出かけるべきか。しかし休日に職場の外で会うのにビジネススーツを着用するのが奇妙なのもまた事実だ。
だったら少しカジュアルダウンして、カラーシャツにジャケット、ノータイではどうだろう。ボトムはスラックスなのかチノパンなのか。靴は、鞄は。デートでもないのにくだらないとわかっていながら何度も服を取っ替え引っ替えし、結局家を出るのも予定よりずいぶん遅い時間になってしまった。
待ち合わせ場所は羽多野が決めた。ロンドンは初めてでよくわからないから、と前置きした上で泊まっているホテルから近いからと言ってトラファルガースクエアの、よりによってトラファルガー提督像の真ん前を指定したのだ。
かくいう栄もロンドン生活を開始してほんの三ヶ月弱なので、この街ではどこが気の利いた待ち合わせスポットであるかはわからない。それにしてもトラファルガー提督像前というのはあまりセンスが良いようには思えない。確信はないものの日本でいえば渋谷駅のハチ公前で待ち合わせるようなものなのではないだろうか。
まるきりお上りさん丸出しの、洗練のかけらもないその手の場所で待ち合わせをした経験は栄には一度としてない。内心では不満を感じながらも提示できる代替案も持ち合わせないので栄は渋々羽多野の提案を受け入れた。
こちらに来てからプリペイドのSIMカードを購入したようで、羽多野は英国内の携帯電話番号を知らせてきたが、栄は「どうしても見つからなければ、その番号に連絡しますから」と言ったきり自分の電話番号は告げなかった。
地下鉄に乗ってからも栄はまだ往生際の悪いことを考えていた。いっそ工事中で提督像の周囲に近づけないとか、さもなくば広場が観光客でごったがえしていてどうしても羽多野が見つからないとか――そしてうっかり携帯番号は失くしてしまったとか――そんな理由で落ち合えなければどれだけ幸せだろうか。
だが、もちろんそんな都合の良いことは起こらない。
まだ朝の九時と、土曜日にしては早い時間だ。明らかに東洋人らしい黒髪ですらりと背の高い人影は遠くからも見分けがついた。休日用の装い、というよりはしっかり観光用といっていいカジュアルな格好をした羽多野は三十代も後半だが、体形は崩れておらず姿勢も良いので遠目にはそれなりに見栄えがした。どことなくインテリ風に感じるのは彼の経歴を知ったからだろうか。
銅像の台座に軽く寄り掛かるようにして、読んでいるのが英字新聞やペーパーバックだったりすればどこまで嫌味な……と思ったところで、しかし羽多野が手にする黄色っぽい表紙と独特の判型の書籍には見覚えがあった。栄は、羽多野が熱心に視線を落としているのが日本国内で定番の中の定番である旅行ガイドブックだったことになぜだか失望した。
「おはよう谷口くん、珍しいな君が遅刻するなんて」
無理やり呼び出したくせに出会い頭に遅刻の駄目出しをされるとは思わなかった。第一遅刻といっても指定された時間からはたったの五分ほどしか過ぎていない。
「……それはそれは、たいへん失礼しました」
すでに機嫌の悪い栄が手元に向けてくる冷たい視線に気付いたのか、羽多野は読みかけの『地球の歩き方』をぱたんと閉じた。
人目につくところでガイドブックを見せびらかすなんて卒業旅行の大学生でもあるまいし、と栄は恥ずかしい気持ちだった。もちろん観光地で観光客が地図やガイドブックを見ること自体何もおかしくはないし――そんなことに神経質になる自分の方がよっぽど「こなれていない」のは確かなのだが。
一方の羽多野は完全な休暇モードだ。とはいえこの男の場合休暇はすでに一年以上続いているのだから、再就職を焦りもせず呑気に海外旅行をしていられる図太さはいっそ羨ましいほどだ。
「すごいな、ロンドンってほとんどの美術館や博物館、無料なんだって。いくらでも行き放題じゃん。もうけっこう回った?」
「いえ、まだ仕事に馴染むので精一杯で。そのうち落ち着いたらとは思っているんですが」
栄の背中側、広場を挟めばナショナルギャラリー。そこには世界的に有名な絵画が多数収められている。わざわざ言及するまでもない大英博物館、発電所跡地の建物が特徴的な現代美術館であるテート・モダン。栄のアパートメントから歩いて行けるサウスケンジントンにもいくつもの有名な博物館があるが、実のところ栄はまだどれひとつとして足を運んでいなかった。
ふうん、と少しつまらなさそうに羽多野は言う。
「そんなこと言ってたら、君の性格的に永遠に落ち着く日なんか来ないと思うけど。無理やりでも休む日や遊ぶ日作らないと、第一何も観てないやってないじゃこっちの人とまともに話もできないだろう」
「なっ」
早速の説教モードに栄は思わずむきになる。だって、気が進まない中わざわざ休日の朝寝を返上して来てやったのだ。なのに出会い頭からこの言いぐさ。こんなことならば勝手にパスポートを紛失させて、意地でも放っておくべきだったと後悔する。
「羽多野さん。あなたがわざわざ時差八時間の場所までけんかを売りに来たって言うなら、俺は失礼します」
付き合ってやるのも馬鹿馬鹿しくてきびすを返したところで、すかさず腕をつかまれる。相変わらず導火線が短いなあ、と笑い混じりの男に全て見透かされているようで羞恥が込み上げた。
「けんかなんて売ってない。俺はただ、駐在地を一通り知っておくと仕事にも役に立つかもって言ってるだけだ。……まあいいや、全然観光してないならむしろ都合がいい」
その言葉に嫌な予感がしたので、栄は首をひねって横目でちらりと羽多野の表情を確かめた。そこに浮かぶのはもちろん不敵な笑み。そして絶対に逃がさないという強い意志を感じさせるほど強い力を込めた手。
「一時間だけって約束しましたよね」
腕を引き戻す努力をしながら栄は念のため釘をさす。
「どうせ同僚はみんな妻子持ちで、土曜に遊んでくれる相手もいないんだろ。そうつんけんせずにこれもアタッシェ修行だと思ってさ。……えっと、ウェストミンスター寺院はあっちだっけ?」
毎度のことだが、羽多野は栄の反論など聞いてはいない。ガイドブックを手に、今日一日めいっぱい観光する意欲をみなぎらせた男は硬直する栄をひきずって横断歩道へ歩きだした。
返上したのは朝寝だけではない。マーケットでの買い出しも、ジムでの運動も、英語の勉強も、土曜日にやろうと思っていたことすべてが台無しになったことを栄は呪った。なのに無理やりにでも羽多野の手を振りほどかなかったのは、彼の言葉が正論であることを内心ではわかっているからだ。
いくら資料を読んでも、それだけでこの国を知ったことにはならない。文法や発音を気にして口をつぐむよりも、酷い日本人訛りでも満面の笑みを浮かべてローストビーフを褒めちぎる久保村の方が現地の人間にとっては付き合っていて楽しいだろう。夏のホリデイシーズンも終わりこれからは出張者対応も増えてくる。レストランや名所を案内する機会も増えるのに栄はまだロンドンのことをろくに知らない。
栄は引っ込み思案な性格ではないが、一方で人目を過剰に気にするところがある。子どもの頃から家族や親類に連れ回された都心部は庭のようなものだから臆することはない。学生時代にはそれなりに遊び友達もいたし、何より栄の隣にはいつも尚人がいた。興味はあるが一人で入りづらい場所があれば尚人を誘えばよかったし、生まれ育った日本であればどこでどう振舞うべきかについて不安もなかった。
だがここは何もかもが違う。この店は一人で入って問題ないか、この服装でマナー違反にならないか、店員に話しかけられてうまく応対できなかったらどうしよう。子どものお使いレベルのことすら気になってたまらない。それでもまだ仕事上必要なことであれば嫌でも恥をかいても前に進む覚悟はある。だが、仕事でいっぱいいっぱいまで気を張っている分、プライベートでまで異国の環境に心をすり減らしたくなくて、実際栄は週末は勉強や仕事を言い訳に閉じこもりがちだったのだ。
だから――いくら気に食わない相手ではあっても、一緒に街を歩く人間がいるというのは栄の気を楽にする。遊び相手がいないとか寂しいとか決してそういうわけではなく、しかしこの男がいることで少しだけこの街が歩きやすくなるのは否定できない事実だ。
「一人で観光っていうのもどうしても腰が重くなるだろうから。俺を利用するとでも思ってさ」
羽多野はまるで栄の心を読んだようにそう言って、手を離す。腕の圧迫と熱が散り自由になった栄は男の言葉を肯定しない代わりに逃げることもしなかった。
「で、どこに行きたいんですか?」
栄が問うと、羽多野は笑顔を見せた。そして指を折って有名な観光スポットやランドマークを詠唱し始める。
「ウェストミンスター寺院だろ、バッキンガム宮殿だろ、ハイドパークと、あとシャーロック・ホームズが住んでたっていうベイカー・ストリートを観に行きたいし、船に乗ってグリニッジの標準子午線またぎにも行きたい。あとフィッシュ・アンド・チップス食って、パブで地ビール飲んで……大英博物館のミイラも見たいな。本当はウィンブルドンとウェンブリーも行きたいんだけど」
子どもじみたはしゃぎ方はこの男のイメージではない。栄を無理やり誘った手前わざとこんな物言いをしているのだろうかと疑いたくなるが、これ以上野暮なことを言う気にもなれず栄はただ呆れたふりをするだけだ。
「場所もばらばらだし、一日でそんなに回れませんよ。いくつかは付き合いますから、他は明日以降一人で勝手に観光してください」
「谷口くんは明日も休みだろう?」
「あらかじめお伝えしておきますけど、絶対に明日は付き合いませんから」
そういえば、休日に誰かと並んで歩くなんていつ以来のことだろうか。