第12話

 もちろん貴重品の置いてあるキャビネットの中身に何ら異変はなかった。そもそもこちらで使わない、例えば印鑑や証書類は実家に預けてきた。外交旅券は職場に置いてあるので、家にある貴重品と言ったところで普段持ち歩かないクレジットカードや数本の腕時計くらいだ。

 さすがに泥棒扱いするのはうがち過ぎだったかと、羽多野に対していくらか申し訳ない気持ちすら抱いたところで玄関の方から物音が聞こえた。

「ただいま」

 羽多野は栄の寝室に明かりがついていることに気づいたのか、中途半端に開いたドアの隙間からひょいと顔をのぞかせる。栄はまるで後ろめたいことをしていたかのようにキャビネットを閉じた。

「……自分の家みたいに振る舞うのはやめてくれませんか」

 振り向きざまに苦言を呈すると、羽多野は右手でかちゃかちゃと鍵をもてあそびながら首をかしげる。

「でも、毎度毎度おじゃましますっていうのも妙だろう」

「全然妙だとは思いません」

 栄としては、ここが決して羽多野の家でなく、彼がここに滞在する権利すら栄の気持ちひとつであることを常に意識して欲しいところだが、言ったところで伝わる相手ではない。玄関の開け閉めに煩わされるのが面倒で渡してあるスペアキーにはすでに見覚えのないキーリングが付けてあった。

 手元をにらみつける視線に気づいたのか、羽多野は鍵をポケットにしまう。

「谷口くん、飯食った?」

「まだです」

「じゃあ、適当に何か作るか」

 自宅ヅラするなと言ったばかりなのに、おまえは何を聞いていたんだ――そう言いたいのを栄はぐっと飲みこんだ。どうにも調子が狂う。自分が主導権を握れない人間関係など栄にとってこれまでは実家の家族と一部の仕事関係くらいのものだった。家族ならば距離を置けばいいし、仕事ならば職業上のペルソナをかぶってやり過ごす。だが今の羽多野はそのどちらでもない。

 実のところ、あくまで現時点の、そして生活面だけの話をするならば羽多野は厄介な居候というわけではない。三十代後半になって独身なだけあって羽多野は手のかからない男だった。合鍵を渡した後は日々勝手に過ごしてくれている。朝は気が向いた時間に起きて出かけ、夕方の帰宅時間はまちまちだ。栄は羽多野のためになにかしてやるつもりなど毛頭ないので、スケジュールの連絡は求めない。

 同じ場所を共有しながら、ふたりの生活はばらばらだ。基本的に栄は自分にとって必要な食材だけを買い自分の食事だけを作る。冷蔵庫の一段だけ好きに使っていいと空けてやったところ、羽多野も勝手に買い物をして、自炊したり外食したりと適当にやっているようだ。今日のように偶然タイミングが合えば、栄の分まで食事を作ろうと申し出てくることもある。肉や野菜を焼いたりと手のかからない料理が多いが、味付け自体はそう悪くない。

 赤の他人の羽多野と自分の洗濯物を一緒にするつもりはないので、洗濯もそれぞれが自分のタイミングで自分の分だけをする。昼間は仕事に行っているので洗濯は夜間休日に限られる栄と、平日に暇を持て余している羽多野では洗濯機の取り合いになることはない。ついでだからと栄のワイシャツをクリーニングに出しに行ってくれるのは正直少しありがたいと思っている。

 ありがたいといえば、羽多野がこの部屋に居座るようになって数日経った頃、ふとシャワーを浴びようとして水栓が直っていることに気づいた。パッキンが緩んでいるようで、蛇口を完全に閉じてもポタポタと水滴が出続けるのを、栄は忙しさにかまけて放置していた。水滴程度では水道代も大きくは変わらないだろうし、わざわざ英語しか話せない技術者を呼ぶのも面倒に思えたのだ。

 レバーのあたりがやたらピカピカになっていて、蛇口を閉じれば水がぴったり止まることに気づいた栄が羽多野に聞くと、業者を呼んだのだという。

「今朝シャワー浴びたら、水が全然止まらなくて焦ってさ」

 栄の知る限り不具合は我慢できないほどのものではなかったはずだ。だが急に状態が悪化したということもあり得るので羽多野が嘘をついているという確信もない。栄はそれ以上追及しなかったし、内心では気になっていた家の中の不具合が解消されたことを喜びさえした。

 決して望んでいるわけではないし、むしろ拒否の気持ちは常々表明している。なのに気づけば少しずつ自分のスペースが侵略されていることへの違和感は大きい。愛想よくすれば調子に乗るし、本気で嫌がるそぶりを見せても面白がるだけ。押し売りがドアの隙間につま先をねじ込んで、少しずつ家に入り込んでくるのと同じだ。

「こういうホラー映画ありますよね。しれっと家に入りこまれるやつ」

「小説でも定番だな。谷口くんは運がいい、俺が悪人だったら今頃身ぐるみ剥がれてたかもしれない」

 どの口でそんなことを言うのか、と思いながら栄はカレーをすくう。

 栄が風呂に入って洗濯をしているあいだに羽多野が作った夕食はカレーだった。日本風のカレールーは専門の食材店に行かなければ手に入らないが、インド系の移民が多いロンドンでは至るところで瓶や缶に入ったインド風のカレーソースが売られている。肉と野菜を炒めたところにソースを加えるだけでよく、日本風カレーほど煮込む必要がないので急ぎの食事にも便利だ。

「あなたが悪人じゃないっていう保証って、どこにあるんですかね。今日同僚と話していて、ただの知り合いを二週間近く泊めているって言ったら驚かれましたよ。確かに俺もいいかげんお人好しだなって」

 具はチキンとマッシュルームとパプリカとズッキーニ。冷蔵庫の残り物で作った割にはバランスも味も悪くはない。サラダはカット野菜を盛り付けただけだが、濃いめの味をつけて炒めたベーコンとフライドオニオンが乗っているのでドレッシングなしで食べられ、歯ざわりも良い。

 ひとりでの生活ではどうしても食事は後回しになり、パスタだけとか、ご飯と納豆とか、栄養バランスも偏りがちだ。感謝するつもりは毛頭ないが、こうしてたまにでも一手間加えたものを食べられるのは他人と生活を共にするメリットではあるのかもしれない。

「お人好しって言うけど、谷口くんは俺から金を取るつもりだろう」

 ダイニングテーブルに向かい合って座る羽多野の反論に、栄は自らが当初に言い出した「相場の倍」の宿泊料のことを思い出す。感情のままに宣言したものの、実際はまだ一度も取り立てていない。そもそも週ごとの請求なのか、それとも退去時にまとめて払わせるのかすら決めてはいなかった。

「あなたはちゃんと払うつもりありますか?」

 たとえ「相場の倍」でなく「相場程度」だったとしても期間が長ければ馬鹿にならない金額になる。栄には本気で払わせるつもりがない――というか、そもそも宿泊料の話は「早く出て行って欲しい」の言い換えだったのだが、羽多野は真に受けているのだろうか。

 そもそも本気でこの男を泊めて相応の金をとった場合、住居手当の減額要件に該当する可能性どころか、禁止されている副業に該当する危険すらある。だが、正直にそんなことを伝えれば羽多野がますます増長するのは確実なので栄はあくまで「宿泊は有料」のふりを続けた。

「家賃と光熱費はもちろん、うちのインターネット回線も使ってるし、羽多野さんが使っただけ家具や家電も消耗します」

「細かいなあ。谷口くんって、前の彼にもそんなだったのか? 一緒に住んでたんだろ?」

 栄の厳しい追及にたじろぎながら羽多野がぼやく。あんまりな言葉に栄はスプーンを皿に置いた。

「羽多野さん、ひとを吝嗇けちみたいに言わないでくださいよ。尚人はずっと学生だったし奨学金も借りていたから、家賃も生活費も俺が多く出してました。そもそもあいつとは学生時代から付き合っていて、俺が誘って一緒に暮らすようになったんです。断ってるのに勝手に上がりこんできた赤の他人とは違いますから」

「何が他人だよ。ぶっ倒れたとこ面倒みてやっただろ?」

「あのときの胃潰瘍の原因の八割はあなたですからね。……親しくもない知り合いを二週間泊めてるって話したら、同僚からは家の貴重品に気をつけろって言われましたよ」

 赤の他人でもまだ甘い。秘書時代の羽多野の所業を思い出せば他人どころか天敵だった。今だって、もしも羽多野が栄の私生活上の秘密を知らなければ無理やりにでも追い出していたかもしれない。

 羽多野は手元のグラスに水を継ぎ足しながら呆れたように肩をすくめた。

「それにしたって手厳しいな。他人っていっても君と最初に会ってからもう二年近くだぜ、泥棒扱いはないだろう。そんなに俺の身元が心配ならパスポートでも免許証でもなんでも見せるけどさ」

「結構です、興味ないから。そんなことよりも早く出て行ってくれるのが一番です。何度も言ってますけど、ロンドンもいいかげん見尽くしたんじゃないですか?」

 この男のたわ言にいちいち反論していたら皿の中身も冷めてしまいそうだ。栄は改めてスプーンを手にすると食事を再開した。

「……確かにロンドンはかなり見たけど、まだちょっとやることがあってね」

 うつむいた栄の耳に入ってきたその言葉は、栄の提案への回答のようでもあり、ひとり言のようにも聞こえた。

 やること、とは何だろう。聞くことは簡単なのになぜか口に出しづらい雰囲気を感じたので栄は興味のないふりをする。だが一方で、目の前の男についての疑問は確実に栄の中に積もり続けていた。

 羽多野は本当にただの暇つぶしのためにロンドンに居座っているのだろうか。だがそれを聞くことには敗北感が伴う。何より興味を持てば持つほど、知れば知るほど羽多野のペースに巻き込まれるのだから――きっと聞かないことこそが一番の自衛手段なのだろう。

タイトルとURLをコピーしました