第14話

「……はぁ!?」

 冗談にしても悪趣味すぎる言葉に、思わず口の中の酒を一気に飲みこんでしまった栄は激しくむせる。

 アパートメントの共有部分の清掃や日中に届いた荷物の預かりなど管理業務を担うコンシェルジュは初老の女性で、栄とは会えば挨拶を交わす程度の関係だ。しかしここに居座るようになってほんの二週間の羽多野とは出入りの都度立ち話をするようになり、今朝出かけようとした際に「休みなのにパートナーは一緒ではないのか」と質問してきたというのだ。

 望まぬ誤解を羽多野が面白がっているのは確実で、ここで感情をあらわにすれば負けだ。咳がおさまると呼吸を整えできるだけ平常心を保とうとする栄だが表情がきつくなるのは止められない。

「それで、どう答えたんですか?」

 なかば怖いもの見たさでそう聞くと、羽多野は早くも二杯目の酒を注ぎながら言った。

「彼は仕事で疲れているからって……」

 栄は反射的に腕を伸ばし襟首をつかもうとするが、羽多野は軽く上体をそらして不意打ちの攻撃を避けた。と同時に、さすがにこの話題は栄にとって洒落ですまないことを思い知ったのか前言撤回する。

「真に受けるなよ。そんなこと言ったら谷口くんが怒り狂うのはわかってるから、ちゃんと友人ですって訂正しておいた」

「本当ですか?」

「本当だってば。何なら今度本人に聞いてみろよ」

 からかわれた不快さより安堵が勝って栄の腕から力が抜ける。と同時にこういう相手だとわかっているにも関わらずまたもや挑発に乗ってしまったことに恥ずかしさを感じた。

「あなたの悪ふざけには付き合えません。第一、羽多野さんだって同性愛者だと勘違いされれば気分悪いでしょう?」

 気を落ち着けるように栄は再びグラスに口を付ける。その様子を見つめる羽多野はいつもどおり人を食ったような表情で、さっきまでの疲れや不機嫌はどこかに消え去ったかのように見えた。

 性志向をオープンにしていない栄だから、いくら異国かつ日本より理解のある土地だからといってうかつな物言いはして欲しくない。百歩譲って自分が同性愛者だと気づかれるにしたって、相手がこの男であるという誤解は許しがたい。羽多野にとってもそれは同じであるはずだ。

 だが羽多野は栄の問いかけには答えないまま、思い出したように新しい爆弾を落とす。

「そういえば飯食いに行く前、寝起きに『ナオ』って呼んでたな」

 さっきの悪趣味なジョークを聞いたときに負けないくらいの勢いで心臓が跳ねた。

「気のせいじゃないですか?」

「いや、確かにそう言ってた」

「……俺は覚えていません」

 舌先がもつれて上手く嘘がつけないのはきっと強すぎる酒のせい。チェイサー用のグラスに炭酸水を注いであわてて舌を洗う。栄の動揺に対して向けられる視線は面白がっているというのともどこか違っている。

 どちらのグラスかわからないが、氷が解けて、カランと澄んだ音が部屋に響く。栄は居たたまれず、羽多野の視線から逃れるように視線を泳がせた。

「ナオ――尚人くん、って言ったっけ? 前にも話したかもしれないけど、君たちと病院で会ったとき、雛人形みたいで可愛いカップルだなと思ったんだよ」

 羽多野はまるで懐かしいことを思い出すかのように続けた。

 栄が議員会館で倒れて救急車で搬送されたとき、身の回りの品を持ってきた尚人と見舞いに来た羽多野が鉢合わせた。栄が知る限り彼らが顔を合わせたのはあの一度きりだ。ちょうど尚人と笠井未生の浮気を知った少し後で、体の状態も心の状態も最悪な時期だった。もともと過労状態にはあったが、倒れるに至った決定打が例の一件だったことは疑いない。

 尚人が身の回りの品を持って病院にやってきたのは夕方遅い時刻だった。職場の人間も母親も帰り、他には誰もいないと思っていたからふたりは恋人として話をしていて、それを偶然やってきた羽多野に聞かれた。あれがなければその後、酔った勢いとはいえ栄が自分と尚人、そして未生の関係について羽多野に打ち明けることもなかったかもしれない。

 いずれにせよ今になって「可愛いカップル」などと言われたところで皮肉にしか聞こえない。雛人形というたとえが何を意図しているかはわからないが、栄はまるで自分と尚人が世間知らずで形式的な関係だったと笑われているようで不快だった――あながち間違っていないだけに。

「可愛いカップルどころか、あの頃は正直もう壊れてましたよ」

「そうなの? 俺と飲んだ時は、まだやり直すかどうか悩んでいるって言ってたじゃないか」

 どうしてこんな、思い出したくもないことばかり蒸し返すのだろう。忘れたい傷を抉られ苛立つ反面、問われれば答えてしまう自分がいる。

「自分ではそのつもりでしたけど、今振り返ればだめになったっていう事実を認めたくなくて、しがみついていたんだと思います。本当はもっとずっと前からいろいろと積み重なって……」

 気づけば栄の手元のグラスが空になっている。これ以上飲むつもりもないのに羽多野の手は器用に動き、アイスクーラーから小さくなった氷をふたつ、そしてウィスキーを注いでくる。

 また弱みを探られているに違いない――栄の頭の正常な部分はそう警告する。一方で、醜い本性も惨めな過去も何もかも知られているのだからもはやどうだっていいのだという投げやりな気持ちもあった。

「仕事が忙しくて冷たく当たってしまったって言ってたっけ。あと、勃たないとか? でもそっちは治ったんだろう」

 思わぬ話題を振られて栄は言葉に詰まった。自らの性について話をすることには抵抗がある。男子校育ちで体育会系の環境に身を置いていたにも関わらず、いや、だからこそ栄はその手の話と距離を置いてきたのだ。

 思春期の時点で同性に惹かれる自分に気付いていた栄にとって、性愛の対象になりうる相手が無防備なまでに堂々と性や欲望について語る光景はあまりに刺激が強かった。だから、違和感を持たれないよう最低限は付き合うものの好んで猥談の輪には入らずやってきた。

 だが羽多野は栄に対してもあっけらかんと風俗やセックスの話題をぶつけてくる。コンビニエンスストアを指さすのと同じような調子で風俗店を指し示し、花粉症について語るような調子で勃起不全の話をする。その下品さに眉をひそめたくなるが、一方であまりに隠微さと遠い語り口は普段なら避けて通る話題へのハードルを下げる。

 ――いや、そんなのはただの言い訳だ。尚人と未生の浮気について打ち明けたときも、尚人と別れたことを知らせたときも、そして今も、栄はただ自分が話したいから話している。

 栄にだって嫉妬や後悔や弱音や、そういったネガティブな感情を誰かに話したい日はある。しかし友人や同僚の前では誰より出来る男であろうといつも虚勢を張って、家族には壁を作って、恋人にすら弱みを見せたくなくて、気づけば誰にも自分の内心を語ることはできなくなっていた。だけど羽多野は違う。最初から栄の内心を見抜いて、暴いて、容赦をしない男だ。だから栄にとっても、これ以上隠すものも失うものもない。

「いざというときに、あなたみたいな人しか話し相手がいないなんて、俺も損な人生送ってるなって思いますよ」

 思わず自嘲の笑いが漏れる。不愉快な男、嫌いな男。なのに誰よりも栄の内面を知っている男。何もかも矛盾している。

 まるで暗く深い穴のように、栄は羽多野の得体の知れなさを恐れて嫌悪する。一方でその深淵に誰にも言えない言葉を吐いて、ほんの少しでも心を軽くしようとしているのだ。

「言っただろ、伊達に年食ってるわけじゃないんだ。仕事の悩みでも恋愛の悩みでもセックスの悩みでもなんでも聞いてやるよ」

 その声は気持ち悪いほど優しく聞こえて、栄は口を滑らせる。

「そっちの話なら、治りはしたんですけど。でも正直、俺はまだセックスが怖いです」

 勃起して挿入して射精するという意味においては、尚人の裏切りを知った怒りの中で栄の男性機能は復活した。だがあんな怒りに任せた暴力のような行為がまともなセックスであるとは思えない。だから栄は自分が本当の意味で正常な状態なのか、怒りではない感情で人を抱くことができる状態であるかについては確信が持てないままでいた。

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